今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

20264月 第24 巻 第4

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かく語りき

 

誰のプロジェクトにも水を差すようなことはしてはならない。批判は一切やめよ。うまくやっているようであれば皆を助け、もし間違っているようなら優しく間違いを指摘するように。あらゆる悪事の根源は、互いを批判することにある。それが組織崩壊の最大の要因なのだ。

…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

 

「あなたは霊的に成長しているか?他者を愛せるか?他者との一体感を感じられるか?自分自身の内に平安があるか?そして、その平安を周囲に放っているか?それを霊的成長と呼ぶ。それは、内的には瞑想によって、外的には奉仕の精神で行う仕事によって、高められる。

…スワーミー・ランガナターナンダ

 

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

・生誕日

・ラーマクリシュナ生誕祭における話

スワーミー・メーダサーナンダ

・忘れられない物語

・今月の思想

 

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お知らせ

・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

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20266月生誕日 

ヴィシュッダ・シッダーンタ暦による6月の生誕日はございません。

 

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2026315日 逗子別館

シュリー・ラーマクリシュナ生誕祝賀会における話

スワーミー・メーダサーナンダ

 

シュリー・ラーマクリシュナの教えがまとめられたものが、ベンガル語では『シュリー・ラーマクリシュナ ・カタムリタ』 という書名で出版されています。日本語版も『ラーマクリシュナの福音』というタイトルで出版されています。ベンガル語では、多くの著者が挿絵入りの解説書を執筆し、広く読まれ、非常に人気のある本がいくつか出版されていますが、現在に至るまでベストセラーとしての地位を確立しているのは、『シュリー・ラーマクリシュナ・カタムリタ』です。

 

さて、アムリタとは何でしょうか?アムリタとは甘露を意味します。つまり、教えはまさに甘露のようなものだということです。アムリタとは、飲めば不死身になれる飲み物です。それのために、神々と悪魔の間で激しい争いが起こりました。どちらも不死身になりたかったからです。

 

では、カタムリタという言葉の意味の由来は何でしょう?カタムリタは飲み物ではありません。本当は、カタムリタを読み、その言葉を熟考すれば、私たちは不滅の命を得られる、という意味です。不滅になどなれるのでしょうか?私たちの人生はいつか必ず終わりを迎えます。肉体は絶対に死にます。しかし、死ぬのは肉体だけであり、アートマンは不滅です。肉体は物質なので、始まりと終わりがあります。しかし、アートマンはそれを超越しています。私たちの肉体は六つの進化段階を経ます。まず、生まれ、存在し、成長し、変化し、そして徐々に衰退していきます。肉体のさまざまな問題があらわれ始めます。 しかし、これらのすべての変化の背後には、不滅の意識があります。ですので、私たちがアートマンを同一視すれば、私たちは不滅になるのです。選ぶのは私たち自身です。

 

トゥルシーダースによる二行詩があります。

Jab tū āyā thā jag meṅ, log hanse tū roy

Aisī karnī kar ke jā, tū hanse jag roy

ジャブ トゥー アーヤー ター ジャグ メン、ログ ハンセ トゥー ロイ

アイシー カルニー カル ケ ジャー、トゥ ハンセ ジャグ ロイ

 

意味:あなたが生まれたとき、あなたは泣き、周りの人々は(喜びで)微笑んだ。そして、死ぬときには、(徳のある人生を送ったので)微笑み、周りの人々は(あなたがいなくなることを悲しんで)泣く、そのような生き方をしなさい。

しかし、ほとんどの人は、死ぬとき泣きながら死にます—苛立ちや失望、苦しみとともに。

 

カタムリタの甘露のような言葉を読み、それに従えば、あなたは不死になります、あなたは自分がアートマンであることを知ります。

 

カタムリタは非常に面白い読み物です。宗教文学というと、退屈で無味乾燥で、哲学的な思想ばかりだというイメージがありますが、カタムリタには、物語や逸話や例え話が数多く含まれていることから、分かりやすいです。さらにそれと同時に、海のように深く、空のように広大な深い意味を含んでいます。

 

著名なベンガル人作家スニル・ ガンゴパッディヤイは神を信じていませんでしたが、それでも『カタムリタ』が大好きでした。なぜなら、シュリー・ラーマクリシュナはわずか34行で、作家が45ページかけて表現するようなことを例示できるからです。モーパッサンの物語は短いながらも奥深いことで知られていますが、『カタムリタ』はそれ以上です。シュリー・ラーマクリシュナはわずか45行で物語とその意味を完結させます。ですので、たとえ物語を楽しむためだけに『福音』を読むとしても、それだけで報われるでしょう。信者である必要はありません。 

 

シュリー・ラーマクリシュナは、一つの物語を二つの異なる意味で語られることがあります。そのような物語を一つご紹介しましょう。この物語はヴリンダーヴァンのエピソードに関するものです。ヴリンダーヴァンの牧女たちは牛乳を売るためにヤムナー川を渡らなければなりませんでした。普段は渡し船で川を渡るのですが、ある日、川に到着した途端に渡し船が出発してしまいました。当然、彼女たちは困り、どうしたらいいか話し合っていました。ちょうどその時、叙事詩『マハーバーラタ』の作者である聖仙ヴィヤーサ(本名はクリシュナ・ドヴァイパヤナ・ヴィヤーサ)がそこを通りかかりました。聖仙を見た牧女たちは、自分たちの問題を彼に説明し、川を渡る方法について助言を求めました。

 

ヴィヤーサは答えました。「見てのとおり、私はとてもお腹が空いている。何か食べさせておくれ。その後に答えてあげよう」 そこで食事が用意され、ヴィヤーサは満腹になるまで食べました。食事が終わると、牧女たちは再び川を渡る方法について彼の助けを求めました。すると彼はヤムナー川に向かって 、「ヤムナー川よ、もし私が何も食べなかったのであれば、 川は分かれて真ん中に道ができ、私たちはそこを通って川を渡るだろう」と言いました。

 

そして実際にそうなりました!ヤムナー川が分かれ、道ができ、彼らは皆、川を渡ったのです。さて、一体何が起こったのでしょうか?川が二つに分かれるなど、どうしてあり得たのでしょう?さらに、ヴィヤーサは満腹になるまで食事をしたにもかかわらず、「もし私が何も食べなかったのであれば… 」と言いましたが、それはどういう意味でしょうか?答えは、「私」とは、ヴィヤーサの自分の内に宿るアートマンを意味していたということです。アートマンは純粋な意識です。アートマンは食べません。食べるのは体です。アートマンは純粋な意識なので、 空腹を感じることはありません。ですので、もし誰かが自分をアートマンと同一視して「私は何も食べていない」と言えば、その言葉は真実です。(ラーマクリシュナの福音760761頁参照) ヤムナー川が分かれたのはそのためです。アートマンは痛みの影響下にありません。痛みは誰のものですか?体のものです。病気は誰のものですか?体のものです。もし何らかの心の問題があったとしたら、それは誰のものですか?心のものです。しかし、アートマンは純粋な意識なので、心の問題も体の問題もありません。

 

つまり、アートマンと一つになれば、あらゆる苦しみから解放されるのです。この識別は自発的に行われるようにならなければなりません。そうすれば、たとえ体や心の苦しみが表面上存在したとしても、純粋意識と同一視した人は苦しみを感じないからです。信者として、私たちは人生において苦しみが時折訪れることを理解すべきですが、アートマンと自分を同一視していれば、苦しみは私たちに影響を与えません。

 

例えば、道にトゲがあるとします。裸足で歩くとトゲが刺さりますが、靴を履けばトゲの痛みは感じません。ここで、とても役に立つアドバイスをしましょう。新宿のような街のとても混雑した場所に行くと、車、騒音、人々の交流などに囲まれますね。そのとき、空を見上げ、空の穏やかさを感じてください。上空と下の状況には大きなコントラストがあります。空は穏やかで、静かで、平安で、青いです。このイメージを覚えておいてください。アートマンと、体と心の複合体の違いはこれに似ています。体と心の複合体には乱れがありますが、アートマンには静けさと平安があります。この例えは、あなたが混乱した時にも冷静さを保つのに役立つでしょう。

 

さて、話題を先ほどの物語に戻しましょう。同じ話ですが違う展開をします。ある日、ゴーピーたちが川のそばにやって来て、川を渡ろうとしたのですが、渡し船がありませんでした。するとまたヴィヤーサがあらわれたので、ゴーピーたちは川を渡れるように何とかしてほしいと頼みました。ヴィヤーサは「お腹が空いた。まず何か食べさせてくれ」と言いました。ヴィヤーサは満足するまで食べた後、川に向かって「ヤムナー川よ、もし私が何も食べたり飲んだりしていなければ、川は二つに分かれ、その間に道が作られるだろう」と言いました。ヴィヤーサがそう言った瞬間、ヤムナー川は二つに分かれ、彼女たちが渡れる道ができました。

 

今回は、ヴィヤーサの思考プロセスが異なっていました。それは何でしょう?ヴィヤーサは同じ言葉を言いましたが、方向性が違いました。前述の物語では、もし私が体ではなく純粋な意識であるならば、体が食べたのであって、私が食べたのではない、というのが彼の主張でした。しかし今回は、主は私たちすべての中に宿っている。だから食べたのは主であって私ではない、という意味でした。(ラーマクリシュナの福音200頁参照) アプローチが異なりました。最初はギャーニ(知識の道をたどる人)として言葉を発し、二度目はバクタ(神の信者)として言葉を発しました。信者は、すべてが神のものであると感じます。私の体、私の心、私の自我、私の家族、私の財産、私の仕事、これらすべては神様のものです。バクタの態度は、「私ではありません、あなたです」なのです。

 

『ラーマクリシュナの福音』には、次のような歌が出てきます。

 

Sokoli tomar ichchha, ichchhamoyi Tara tumi

Tomar kôrmo tumi kôro Ma, loke bole kori ami

 

ソコリ トマール イチャ、イチャモイ タラ トゥミ

トマール コルモ トゥミ コロ マ、 ロケ ボレ コリ アミ

 

すべてはあなたのご意思です、おお、母なる神よ―あなたは神のご意志そのものの化身です。

あなただけがすべての行為者です、おお、母なる神よ、それなのに人は「私が行為者だ」と言います。

 

これが信者の態度です。それは簡単なことではありません。どちらのアプローチも簡単ではありません。しかし、心の平安が欲しいなら、そしてもちろん私たちは皆、心の平安を望んでいます。しかし、ある年齢に達し、多くの責任を果たし終えると、心の平安が必要だと感じ始めます。多くの功績を成し遂げたとしても、心の平安が欠けているとしたら、それらの功績はすべて無意味に思えてしまいます。

 

平安を望まない3種類の人がいます。1番目のタイプは、平安を得る正しい方法を知らない人です。正しい方法とは、平安の源は外にあるのではなく、内にあることを理解することです。2番目のタイプの人は、相反する行動をとっている人です。心の平安を求めているのに、心の平安を奪うような活動にふけります。例えば、携帯電話中毒やビデオゲームに没頭するなどです。3番目のタイプの人は、道を知っているのに、その道に従わない人です。「人を灯台まで導くことはできても、光を見せることはできない」ということわざがあります。これに関連して、一つの話をしましょう。

 

ラジオやテレビがインドの家庭に普及するずっと以前、 ハリ ・カタと呼ばれる演劇(神とその化身にまつわる神話や逸話を題材にした劇)が上演されていました。村人たちは日没後に公共の場に集まり、村人の中の才能のある人々が、身振り手振りやせりふ、歌を交えながら物語を語りました。多くの場合、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、『バーガヴァタム』などの劇が上演され、公演は1週間、2週間、時には1ヶ月に及ぶこともありました。

 

さて、そんな村にある家族がいました。そこの高齢の姑は毎日ハリ・カタ を聞きに行っていました。ある日、嫁が自分もハリ・カタを聞きに行きたいと言うと、姑は喜んで承諾しました。ハリ・カタから帰ると、夕食の時間になりました。男性と子供たちが先に食事をし、姑の監督のもと、嫁が給仕するのが慣例でした。すべての料理が出揃うと、最後に牛乳が出されるのでした。

 

しかし驚いたことに、嫁は牛乳を持ってきませんでした。みんな長いあいだ待ちました。ついに姑が「娘よ、牛乳はどうしたの?持ってきてちょうだい!」と叫びました。しかし、それでも嫁は来ませんでした。姑は不思議に思ったので台所に入り、まず牛乳が普段保管されている鍋を探しましたが、鍋は空っぽでした。

 

そのとき嫁が姑に近づいて言いました。「お母様、毎日猫が牛乳を飲みに来るので追い払っていました。でも今日、ハリ・カタで、ハリ(神)はあらゆる生き物に宿っていると学びました。ですので、今日猫が牛乳を飲みに来た時、そのことを思い出して、ハリご自身が猫の姿であらわれたのだと感じたのです。それなのにどうして追い払えるでしょうか?それで猫が牛乳を全部飲んでしまいました」

 

義母はこれを聞いて大変ショックを受けましたが、落ち着きを取り戻すと答えました。「愛しい娘、 私もハリ・カタを聞きに行くけれど、それをそのままそこに置いておくのです。家に持ち帰ったりはしません!」

 

そうです、姑のやり方と嫁のやり方の二つの方法があります。もし姑のやり方に従えば、平安は得られません。嫁のやり方に従うと、困難はあるでしょうが、最終的には平安が得られるでしょう。

 

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忘れられない物語

 

「愛は別の形で戻ってくる」

 

生涯独身で子供もいなかったフランツ・カフカ(1883-1924)が40歳の時にベルリンの公園を歩いていると、お気に入りの人形をなくして泣いている少女に出会った。カフカは少女と一緒に人形を探したが見つからなかった。カフカは少女に、翌日また同じ場所で会って一緒に探しに行こうと約束した。

 

翌日、人形が見つからなかったとき、カフカは少女に「人形が書いた」手紙を渡した 。そこには「泣かないで。私は世界を見るために旅に出るわ。私の冒険譚を手紙に書くわね」と書かれていた。

During their meetings, Kafka read the letters of the doll carefully written with adventures and conversations that the girl found adorable.

こうして、カフカの生涯の終わりまで続く物語が始まった。

 

少女と会うたびに、 カフカは冒険や会話が入念に書かれた人形の手紙を読み、少女はそれに夢中になった。

 

最終的に、カフカが(彼が買った)人形を返すと、少女は「私の人形と全然似てないわ」と言った。

 

カフカは少女に、人形が書いたもう一枚の手紙を渡した。そこには「旅が私を変えました」と書いてあった。小さな女の子は新しい人形を抱きしめ、幸せそうに家に連れて帰った。

 

一年後、カフカは亡くなった。それから何年もの時が経ち、大人になった少女は人形の中から手紙を見つけた。カフカの署名が入った小さな手紙にはこう書かれていた。

 

「あなたが愛するものはすべて失われるかもしれない。しかし、最終的には愛は別の形で戻ってくるのだよ」

 

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今月の思想

 

もしあなたの宗教があなたを無私無欲で、思いやり深く、奉仕的で、犠牲的な人間にしないなら、それをまとめて海に投げ捨てなさい。それは宗教ではありません。それは惑わしです。新たに始めて、真に敬虔になりなさい。 すべての中に神の存在を見出し、献身的な精神で絶え間なく奉仕をしながら神を礼拝しなさい。あなたの利己主義を抑えなさい。 利己主義ほど大きな病はないのですから。おお、探求者よ!この病からわが身を清め、神に愛される者となりなさい。宗教は生きたものでなければならず、あなたの日常生活に入り込んでいなければなりません。そして、それはあなたと他の人との関係を整えるはずです。 そうでなければ、よくみても宗教は、偏って理解しがたく、本来の目標をくじき、あなたにとって何の役にも立たないでしょう。

 

…スワーミー・チダーナンダ

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