今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

2019年6月 第17巻 第6号

 

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かく語りき――聖人の言葉

 

「神に一切を委ねれば、お前の明日のことを神ご自身が考えてくださる。神は私たちの身内であられる。神には強引にねだることだってできるのだ」

…シュリー・ラーマクリシュナ

 

「世の人々が、これら三性質から成る私の幻象に、惑わされずにいることは非常に難しい。だが私にすべてを委ねて帰依する人は、容易(やすやす)とその危険を乗り越えられるであろう」

…シュリー・クリシュナ(『バガヴァッド・ギーター』第7章14節)

 

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目次

 

・かく語りき――聖人の言葉

・2019年7月の予定

・スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ第156回生誕記念祝賀会
マハートマー・ガンディー第150回生誕記念祝賀会
スピーチ
「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダとマハートマー・ガンディー
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 外川昌彦教授

・スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ第156回生誕記念祝賀会
マハートマー・ガンディー第150回生誕記念祝賀会
スピーチ
在コルカタ日本国総領事館 夛賀(たが)政幸総領事

・忘れられない物語

・今月の思想

 

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2019年7月の予定

 

・2019年7月の生誕日

 

グル・プルニマ 7月16日(火)

スワーミー・ラーマクリシュナーナンダ 7月30日(火)



・2019年7月の協会の行事

 

7月7日(日) 14:00~

自主勉強会

場所:逗子協会本館

『パタンジャリ・ヨーガの実践』、『バガヴァッド・ギーター』をご持参ください。

 

7月13日(土)~15日(月・祝)

夏季戸外リトリート

場所:香川県・善通寺

申し込みは終了しました。

 

7月26日(金)

ホームレス・ナーラーヤナへの奉仕活動

現地でのお食事配布など

お問い合わせ:佐藤 urara5599@gmail.com

 

7月の土曜日 10:15~11:45(90分)

ハタ・ヨーガ・クラス

(月に3回で基本は第1、2、4土曜日。変更の際は連絡があります)

場所:逗子協会別館

お問い合わせ:羽成 淳(はなり すなお) 080-6702-2308

体験レッスンもできます。

予定は変更されることもありますので、日程は直接お問い合わせください。

詳しくは専用ウェブサイトをご覧ください。 http://zushi-hatayoga.jimdo.com/

 

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スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ第156回生誕記念祝賀会

マハートマー・ガンディー第150回生誕記念祝賀会

スピーチ

「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダとマハートマー・ガンディー」
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
外川昌彦教授

 

はじめに

近代インドのヒンドゥー教改革運動を主導し、ラーマクリシュナ・ミッションを創設したスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekakananda, 1863-1902、シャミ・ビベカノンド)は、1893年のシカゴ万国宗教会議で、ヒンドゥー教を、ヴェーダーンタ思想を根幹とする、高度な思弁性を備えた世界宗教として紹介したことで知られる。

しかし、その生涯の活動を見てゆくと、ヴィヴェーカーナンダは、近代ヒンドゥー教の改革運動にとどまらず、当時のインド社会にみられた根深いカースト差別の問題や貧困問題にも関心を持ち、広大な農村部の低階層の人々やムスリム社会、女性などのマイノリティの人々の状況に深い共感を示し、人々の様々な困難に寄り添おうとしていた姿を見ることができる。

それは、インド独立の父であるマハートマー・ガンディーの活動として知られる、ムスリム社会との連帯を訴えた1919年のキラーファト運動、貧富の差を超えて広大なインドの民衆を国民運動に導いた1930年の「塩の行進」、インドの不可触民差別の解放を目指したハリジャン運動、女性や農村の自立を目指したチャルカーや建設的プログラムなど、1920年代以降にインドの独立運動家として登場し、インド国民会議を指導するガンディーの運動を先取りする、先駆的な取り組みとして評価することができると思われる。

本日は、このような観点から、ヴィヴェーカーナンダの生涯をさかのぼり、ガンディーとの興味深い接点を見てゆきたい。

 

ひとつの例として、はじめにヴィヴェーカーナンダが、人々に蔑まれる不可触民カーストが、誰より誠実な心を持つことに気づかされるという、次の出来事を見てみたい。

この話は、ヴィヴェーカーナンダが、まだ粗衣粗食の托鉢修行僧として、インドの各地を遍歴修行していた若き日の修業時代の話である。

 

ヴィヴェーカーナンダがラージャスターンを訪れた時、ある場所で休んでいるのを見て町の人々は、終日、彼のもとを訪れて次々に質問した。ほとんどが自分たちの宗教的な事柄で、人々は引っ切り無しに訪れたが、ヴィヴェーカーナンダは、食事や休息を取ることも忘れてすべての質問に答えた。こうして、三日三晩、寝食も忘れて人々の相手をした。

しかし、これだけたくさんの人々が訪れても、誰もヴィヴェーカーナンダが、ちゃんと食事を取っているか心配する者はいなかった。

最後の訪問者が帰った後、一人の貧しい身なりの男が入ってきた。

「スワーミージー、あなたは三日間、水も飲まずに話し続けました。それを見て、私は心が痛みました。」

ヴィヴェーカーナンダは、その貧しい男に不思議な神の現れを感じ、「何か食べ物をもらえないか」と話した。この男は、しかし不可触民の皮革カーストなのでこう話した。

「私はあなたに食事をさしあげたい思いで一杯ですが、それはできません。お許しくだされば、小麦粉と豆をお持ちするので、自らの手で料理してください。」

ヴィヴェーカーナンダは答えた。

「いや、お前がチャパティを焼いてくれ。私はそれを食べたいのだ。」

貧しい男は、ためらった。自分のような身分の低い者が料理をすると、汚れた食物を渡したと、後で罰せられることを恐れたのだ。しかし、ヴィヴェーカーナンダの空腹を癒したいという思いから、後の事は考えず、新しく焼いたチャパティを持ってきた。ヴィヴェーカーナンダは、この男の心に打たれて涙を流した。貧しい家に住み、貧者や不可触民と蔑まれながら、この男のような豊かな心を持つ人々が、この国にはどれだけいるのかと考えたのだ。

しばらくして、ヴィヴェーカーナンダに質問をした町の紳士たちがやってきた。彼らは、ヴィヴェーカーナンダが食事をしているのを見て、不可触民から食べ物を受け取るのは不適切であると注意した。

ヴィヴェーカーナンダは答えた。

「あなた方は、この三日間、休みなしに私に話をさせたが、私が食事や休息をとっているか誰も尋ねようとはしなかった。あなた方は、自分たちのカーストの高さを自慢して、この貧しい男を不可触民と蔑んでいるが、この男が示してくれた誠実な心を見て、どうしてあなた方は、彼を軽蔑することができるのか。」

 

ヴィヴェーカーナンダは、1893年のシカゴ宗教会議の活躍などを通して、西欧世界に合理的で体系的な世界宗教としてのヒンドゥー教を初めて紹介し、当時のキリスト宣教師やイギリス人植民地官僚が抱く、後進的で野蛮な、カースト差別や貧困にまみれたインド人社会というイメージを払拭し、キリスト教文明にも比肩する、すぐれたインド文明の高度な精神性を称揚したことで知られる。

そのヴィヴェーカーナンダが主導する宗教改革運動は、ヴェーダーンタ思想のアドヴァイタ論から導かれる個と全体の統一という理念を通して、インド国民に共有される宗教的基盤を与え、植民地支配に喘ぐ当時のインドの人々に、愛国主義を鼓舞したとされる。

たとえば、ナショナリストとしてのヴィヴェーカーナンダの役割を評価するインド人研究者のショミタ・ボシュ [Bose 2002]は、ヴィヴェーカーナンダが提唱示するネオ・ヒンドゥー教は、ヒンドゥー社会の多様な対立を包摂し、インド国民に広く共有される宗教的基盤を与えるものとして位置づける。

ヴィヴェーカーナンダが提示するアドヴァイタ論は、ここでは個と全体を統一する理念を通して、多様なインド国民を包摂する国民統合の基盤を与えるものとして評価される。

しかし、インドが植民地支配から脱し、国民国家としての統合を進める過程で、インドの文化的な多様性は、現実の政治過程を通して様々な課題に直面することになる。

たとえば、多様な宗教文化を包摂する優れた宗教という理念は、最終的にはすべての宗教を包摂する至高の宗教という観点を通して、もう一つの立場として、ヒンドゥー教至上主義という観点を導く可能性を持つ。アメリカの著名なインド研究者であるリチャード・キング[King 1999:135-42]は、ヒンドゥー教を世界の多様な宗教を包摂する唯一の宗教とし、インド社会の優れた特質として提示しようとする姿勢が、ヴィヴェーカーナンダの著作や講演に広く見られる傾向だと指摘する。

しかし、1897年のインドに帰還後の、ヴィヴェーカーナンダによる宗教の多様性に関する言及を見てゆくと、あるムスリムへの手紙では、次のように述べている。

「ヴェーダも聖書もコーランもないところに、私たちは人類を導きたいと願っている。しかし、これはヴェーダ、聖書、コーランの調和を通してなされなければならない。」

この記述と、いわゆるヒンドゥー教中心主義とは、世界の多様な宗教伝統に優劣をつけないという意味で、その含意の差は大きい。英領期のインドの人々に愛国主義を鼓舞したヴィヴェーカーナンダのメッセージは、その意味では、独立後のインドにおいて、また、グローバル化する現代のインド社会において、改めて問われていると言える。

ヴィヴェーカーナンダが当時のインドの人々に、その社会奉仕活動を通して伝えようとしたものは何であったのか。本日の報告では、その生涯の活動を振り返ることで、この問題を改めて見てゆきたい。

 

少年時代のヴィヴェーカーナンダ

ヴィヴェーカーナンダの出家前の名前はノレンドロナト・ドット(Narendranath Datt, 1863‒1902)であり、英領インドの首都カルカッタで弁護士として働く父親ビッショナト・ドットと、母親ブバネシュワリ・デビのもとに、3人兄弟と2人姉妹の長男として生まれる。

少年時代のノレンドロは、好奇心が旺盛で、活発だが落ち着きのない性格で、フェンシングやレスリング、料理や歌などの様々な趣味に夢中になった。

記憶力は抜群で、サンスクリット語文法や古典叙事詩を暗記し、短期間で高校を卒業すると、カルカッタの最難関プジデンシー・カレッジに入学する。

ヴィヴェーカーナンダは、「私が得た知識はすべて母親に負うものです」と語っていた。特に、聡明で、いつも神話叙事詩の『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』を諳んじて聞かせていた母親と、25歳の若さで出家した祖父ドゥルガチョロンの宗教的な資質を受け継いだとされる。

しかし、ノレン少年は、幼い頃から人々の迷信への恐れを嫌い、ある老人が子供たちに、近所の木に登ると幽霊に襲われると話して怖がらせ、誰も近づかないのを見ると、「人の言う事を鵜呑みにしては駄目だ」と言って、自らその木に登ると、枝を何本も折って見せたという。

この辺の話は、日本の福沢諭吉が『学問のすすめ』で語っている話を思い起こさせるようで、興味深い。日本の代表的な啓蒙思想家である福沢諭吉も、理知的な母親を持っていて、少年時代には、近所のお稲荷さんの祠で人々がお祈りをしているのを見て、こっそり祠を開けてみたという体験を綴っている。人々がお参りする祠の中に、ただの石ころが入っているだけなのを見た諭吉少年は不思議に思い、その辺の別の石と取り替えたらどうなるだろうかと考えて、実際に試してみたと書いている。

ところで、当時のインド社会では、伝統的なヒンドゥー社会の慣習に基づいたカースト差別の意識が強く、その慣習に従ってヴィヴェーカーナンダの父親の事務所にも、上位カーストと不可触民、イスラーム教徒など、来客者の身分に合わせて別々の水タバコのパイプが用意されていた。そして、不浄性を嫌うヒンドゥー教の伝統的な教えに従って、誰もが決して、自分の所属するカースト以外の水たばこには、触れてはならないとされていた。

ノレン少年もまた、まわりの大人から、これらの異なる水タバコには触れないようにといつも注意をされていた。しかし、ある日、その教えを破ると、すべての水タバコに触れて、試して見る。そうして、「これらに何の違いがあるのか」とまわりの大人に尋ねたと言う。

ヒンドゥー教の慣習に由来する、不可触民差別や宗教の違いに対する疑問をヴィヴェーカーナンダが、その少年時代から抱いていたというのは、大変に興味深い。

身分や宗教によらずに食事や水たばこを分け合うという姿は、その後のヴィヴェーカーナンダの生涯で繰り返され、それは後に、宗教やカーストによらない人々への奉仕の理念へと発展する。

やがて、雄弁でたくましく、美しい歌声を持つ若者へと成長したノレンドロは、西洋の論理学や哲学、西洋近代史を学び、同時にデベンドロナトやケショブ・チョンドロ・シェが指導するブラーフマ・サマージ運動に触発されて、インド社会の様々な矛盾や民族意識に目覚めてゆく。

 

19世紀インドの社会改革運動

ここで、近代化に向けて格闘する当時のインド社会の状況について、簡単に触れてみたい。

1757年のプラッシーの戦いでベンガル太守軍に勝利したイギリス人は、インド亜大陸の本格的な植民地経営に乗り出す。1857年にはインド大反乱を鎮圧し、英領インドの支配を確立する。19世紀のカルカッタ(現在のコルカタ)は、その英領インド帝国の首都として繁栄し、西洋近代の様々な技術や知識をインド社会にもたらす窓口となった。

英領統治におかれた当時のインド社会は、特にインド人中間層が形成されたカルカッタを中心に、ヒンドゥー教の改革運動や母語による教育、文芸復興運動や手工芸や芸術作品を通した民族文化の称揚などの多様な潮流が生まれ、民族意識が高まってゆく。そのインド近代の社会改革運動を先導したのは、インド近代の父とも呼ばれるラム・モホン・ラエである。

ラム・モホンは、迷信や偶像崇拝、カースト差別など、当時のイギリス人がインド社会の後進性や野蛮性として批判するヒンドゥー社会の因習を、古典ヴェーダにさかのぼって検証し、理知的で合理的な宗教への脱皮を目指すブラーフマ・サマージ(当初は、ブランモ・ショバ)と呼ばれる改革運動を創設する。 

よく知られているのは、夫の火葬で、妻がその火に入って殉死することを強制されるサティーと呼ばれる因習で、ラム・モホンは、ヒンドゥー教聖典にさかのぼってその誤謬を指摘して、女性の地位向上や教育の普及、幼児婚禁止などの運動を展開し、英領政府に働きかけてサティー禁止法(1829年)を制定させる。

ラム・モホンの死後、この運動を引き続いたのは、タゴール家の家長モホルシ・デベンドロナト・タゴールであった。タゴール家は、カルカッタの有力な在地領主の一族であったが、デベンンドロナトはむしろ宗教生活に傾倒し、インド最古のヴェーダーンタ思想に依拠したヒンドゥー教の改革運動に取り組む。

このデベンドロナトの右腕となって活躍し、英語の著作活動で欧米でも知られたケショブ・チョンドロ・シェンは、優れた弁舌でその活動を全インド・レベルで展開し、無名の聖者ラーマクリシュナを見出してベンガルの言論界に紹介するなど、多方面で活躍した。学生時代のノレンドロも、ケショブ・シェンの弁舌に惹きつけられ、ブラーフマ・サマージ運動に関わるようになる。

しかし、世界の諸宗教の融合を目指すケショブ・シェンの普遍的な人類宗教の探求は、キリスト教の影響を排したヒンドゥー教の本質を追求するデベンドロナトの方針とは相いれず、1866年にケショブ・シェンは袂を分かち、新たにインド・ブラーフマ・サマージ(後の、ノボビダン・ブランモ・ショマジ)と名付けた運動を立ち上げる。しかし、この運動も、婚姻年齢法に反する自らの娘の結婚などで若手グループの反発を招き、シブナト・シャストリ(Pandit Shivanath Shstri)やアノンド・モホン・ボシュ(Ananda Mohan Bose)らのより急進的な若手活動家の離反を招き、彼らによって、1878年には新たに民衆ブラーフマ・サマージ(Sadharan Brahma Samaj)が創設される。

こうして、ラム・モホンの運動は、西洋の近代科学を取り入れて、女性の地位向上や教育の普及を図り、現地語の新聞を創刊して言論ジャーナリズムを確立するなど、多方面の分野で近代インドの先駆けとなるが、デベンドロナトが当時の代表的な在地領主であったように、知的なエリート層を主な担い手とする啓蒙主義的な改革運動は、インド社会での民衆的な広がりは持たず、多様な路線対立を経た運動の四分五裂によって、所期の成果は達成できずにいた。

ヴィヴェーカーナンダが宗教改革運動を実践し、ラーマクリシュナ教団を創設する19世紀末のインド社会は、このような状況にあった。

 

師ラーマクリシュナとの出会い

プレジデンシー・カレッジの学生時代には、ミルの功利主義やスペンサーの進化論に興味を持ち、また、当初はケショブ・シェンの弁舌に惹かれてブラーフマ・サマージ運動に参加し、後には、そこから離反した民衆ブラーフマ・サマージに参加するようになる。しかし、幼少期からの宗教的葛藤や世俗生活への疑問、理性と感覚との間を揺れ動く青年期の疾風怒濤など、既存の改革運動の理知的な教説ではノレンドロの渇望を満たすことはできず、父親の急死による突然の経済的困窮や様々な精神的な危機を経て、ノレンドロが最終的に出会ったのは、ベンガルの農村風土に深く根差した土着の聖者ラーマクリシュナであった。

ラーマクリシュナは、近代インドを代表する聖者のひとりであるが、会衆を前に没我の境地に入るなど、その特異な神秘体験と、素朴だが示唆に富む弟子との対話で知られている。富裕な在地領主や英語教育を受けたカルカッタの知識人とは異なり、小学校しか出ていないラーマクリシュナは、母語であるベンガル語で人々に教えを説き、農村の土着的なカーリー女神を信奉し、ベンガル農村のヒンドゥー司祭の典型的なスタイルで様々な教えを説いた。

ヴィヴェーカーナンダが、その師ラーマクリシュナと出会った時の様子は、次のようである。

大学での学問に飽き足らなかったノレンは、様々な宗教的導師を訪ねて質問を重ねるが、その渇望は満たされず、ある日、ブラーフマ・サマージの長老モホルシ・デベンドロナトと面会する。

「あなたは神を見たことがありますか」という質問をぶつけるが、デベンドロナトは、それに対して気まずそうに、「若者よ、君はヨーガ行者の目をしている。瞑想に励むように」と答え、ノレンは失望する。

ノレンの遍歴は続き、最後にラーマクリシュナのもとを訪ねると、「師よ、あなたは神を見たことはありますか」と尋ねる。

この問いかけに、間髪を入れずにラーマクリシュナは、次のように答えたという。

 

もちろん見ているとも。ちょうど私の目の前にいるお前のように見ているよ。しかも、もっとはっきりとね。…女や子供や財産のためになら、人は滝のような涙を流すが、誰が神を見たいと言って泣くだろうか。けれど、お前が心から神を見たいと望むのなら、神を求めて泣きなさい。

 

この聖者ラーマクリシュナのもとで様々な対話を重ねたノレンは、最終的に出家修行者の道を歩むことを決意する。1886年にラーマクリシュナは亡くなるが、死の床に着いたラーマクリシュナはノレンを呼ぶと、「お前に授けたその力で、この世の偉大な仕事を成し遂げなさい」と告げたという。

師の没後、ノレンは残された弟子たちで僧団を組織し、また1890年頃から数年間、インド各地の遍歴修行を行う。この時に、農村部の不可触民や貧困層、ムスリム宗教者などの各地の様々な人々と接し、インド社会の多様な現実に触れる。

都会育ちのノレンドロ青年は、その遍歴修行時代に、農村部の貧困層や不可触民、ムスリム宗教者などの各地の多様な階層や宗派の人々と接し、差別や貧困などのインド社会の厳しい現実に触れる。また、各地の藩王国の宮廷では為政者とも議論を交わし、出家修行者のスワーミー・ヴィヴェーカーナンダと名乗ると、ラージャスターンのケトゥリー藩王等の強力な支援を得て、1893年のシカゴ万国宗教会議に参加する。

シカゴ会議で好評を博したヴィヴェーカーナンダは、その後、3年半に渡り欧米に留まり活動する。アイルランド人女性のシスター・ニヴェーディータやアメリカ人女性ジョセフィーン・マクラウドなどの有力な弟子や支援者を獲得し、1894年11月にはニューヨークにヴェーダーンタ協会を創設し、講演録を出版する。

アメリカでの活動を成功裏に終えて、1897年にインドに帰国すると、カルカッタにラーマクリシュナ・ミッションを創設し、インドでの組織的な基盤を確立する。その活動は、飢饉などでの災害支援や医療活動、教育普及などの各地での多様な社会奉仕活動として実践され、現在では全世界の135の支部でその活動が展開されている。

こうして、インドでのラーマクリシュナ・ミッションの活動の基盤を確立したヴィヴェーカーナンダは、1899年に二度目の欧米訪問を行い、西洋の多様な学者と議論を深め、東西文明を架橋する思想的交流に貢献する。

しかし、持病が悪化したヴィヴェーカーナンダは、「40歳を見ることはないだろう」という自らの言葉通り、1902年7月4日にカルカッタのベルル僧院で逝去する。39歳の若さであった。

 

民衆へのまなざし

ところで、インド近代の父とされるラム・モホンによる近代的な教育や言論を通した社会変革の運動と対比して、ヴィヴェーカーナンダがもっぱらそれを宗教的なメッセージとして語ったことについては、独立後のインドでは多くの論者が、それは社会改革運動からの後退であると考えた。

特に、左翼運動が盛んであった西ベンガル州の知識人の間では、ヴィヴェーカーナンダは、ただ宗教的な理想を人々に説くだけで、階級問題や貧困問題などの現実の社会問題への解決策を示すことはなく、むしろインドの政治問題から人々の目をそらす結果になったと指摘した。そのため、ヴィヴェーカーナンダが人々に示そうとした社会奉仕活動の真意については、今日のインドにおいてさえ、なお十分には評価されていないと言えるだろう。

しかし、この問題に関連して、身分や貧富の差別を越えた人々の同朋意識を呼びかけるヴィヴェーカーナンダの、最晩年の次のエピソードは、興味深い。

ベルル僧院で働く、少数民族のサンタル人労働者の若者ケシュタを、ヴィヴェーカーナンダはとても気に入っていた。サンタル人は、しかし当時のインド社会では、少数民族としてヒンドゥー社会の外に置かれ、しばしば不可触民と同様の、あるいはそれ以下の差別の対象と見なされていた。

ある日、ヴィヴェーカーナンダは、その若者たちに食事を勧めたのだが、他人の触れた塩が入った食事を食べるとカーストの身分を失ってしまうと考えたケシュタは、それを拒む。そこでヴィヴェーカーナンダは、ケシュタが望む通りの食事を準備すると、自らの手で給仕をしてもてなす。そして、人々への奉仕こそが神への奉仕なのだと説明すると、「貧者の中に神を見る」(darirdra-narayana)と述べて、次のように弟子たちに語った。 

 

この国では、貧しく苦しんでいる人々のために、誰も考えていないとは。彼らこそこの国の背骨であり、その働きによって食べ物が得られるのだ。清掃人や火葬場の労働者が一日でもその仕事の手を休めたら、街中が大混乱に陥るだろう。

しかし、彼らを思いやり、彼らの喜びや悲しみに寄り添おうとする人が、この国には一人もいないのだろうか。ご覧なさい、マドラスでは、ヒンドゥー教徒からの敬意が得られないので、群れをなして人々が、キリスト教徒に改宗している。彼らがキリスト教に惹かれるのは、貧しくて食べ物が無いからだと誤解をしないように。彼らを思いやろうとする、私たちの心が無いからなのだ。

私たちは、日夜、彼らに対して、「私に触れるな」、「汚れてしまう」と言う。この国には、本当に人々を思いやる宗教はないのだろうか。

 

冒頭でも述べたように、たとえば、現代のインド研究者は、アドヴァイタ論に由来する個と全体の統一という理念をインド国民の統合の理念と結びつけ、ナショナリストとしてのヴィヴェーカーナンダを評価する。しかし、ここでのヴィヴェーカーナンダの人々への呼びかけには、ただインド的な理念を、西洋のナショナリズムに当てはめるだけではない、多様な人々に共感し、その苦悩に寄り添おうとする、当時のインドの民衆が置かれた状況に対する強い信念を見ることができるだろう。

すでに見たように、ブラーフマ・サマージ運動などの19世紀の社会改革運動は、主にカルカッタの中間層などの、都会の知識人や教育を受けた中間層を担い手とするものであった。しかし、このヴィヴェーカーナンダの呼びかけに見られるのは、それまでの社会改革運動が踏み込もうとはしなかった、知識人の言論空間を離れた、インドの広大な地域に展開する民衆にむけられたまなざしである。

ここには、19世紀の宗教・社会改革運動の最後の段階に登場するヴィヴェーカーナンダの、国民的な運動に不可欠の条件を与える、民衆への視点を見ることができる。それは言い換えると、1920年代のガンディーの登場によって広く認識される、インド民族運動における民衆的基盤への先駆的な問題提起をなすものと言えるだろう。

最後に、そのガンディーに与えたヴィヴェーカーナンダの思想的な影響の問題を見てみたい。。

 

ガンディーとの結びつき

インド民族運動でのガンディーの大きな功績として知られているのは、インド人エリートによる英領政府への陳情団体であったインド国民会議(Indian National Congress)を改革し、全国的な組織に改編することで、1920年代以降の民族運動を、真に国民的な運動へと脱皮させたことにある。そのガンディーの活動を手短に振り返ると、次のようである。

ガンディーは、グジャラートの小藩王国の宰相の息子として生まれ、ロンドンへの留学で弁護士資格を得て帰国。1893年に訴訟事件の依頼で南アフリカに渡り、1914年まで21年間にわたり滞在する。ここで有色人種への差別を目の当たりにして、人生の転機を向かえ、外国人登録証制度への反対運動などを指導し、サッティヤーグラハ(真理の主張)と名づける非暴力の抵抗運動を組織する。

1915年にインドに帰国し、1920年代には全国的なサッティヤーグラハ闘争を指導する。1930年の「塩の行進」と呼ばれる反英闘争では、インドの多様な地域や階層、宗派を巻き込んだ大衆運動を組織する。塩という日常のささやかな、しかし、誰もが生きていくうえで欠かせない必需品を取り上げて、その塩に対する植民地政府の不当な課税への抗議運動を組織することで、文字も読めない低階層の人々をも含む多様な人々を国民的な運動に動員することに成功する。1942年にも大規模な反英闘争を指導し、最終的に1947年のインドの独立を導く。独立運動のなかでガンディーは、不可触民差別の撤廃やヒンドゥー・ムスリムの融和に努め、インドとパキスタンの分離独立には最後まで反対し、1948年1月30日に、ムスリムへの譲歩に不満を持つヒンドゥー教徒の手によって暗殺される。

 このようなインドの独立運動に生涯をかけたガンディーが、その政治活動を開始する若き日の南アフリカ時代にヴィヴェーカーナンダの活動に関心を抱き、その講演集に触れて、ヴィヴェーカーナンダの思想に強く惹かれていたという経緯は、興味深い。

 ガンディーは、次のように述べている。

 

「私はヴィヴェーカーナンダの著作をすべて、注意深く読みました。それを読んだ後に、私の祖国に対する愛は、何千倍にも増しました。ヴィヴェーカーナンダの著作について解説を必要とする人は誰もいないでしょう。その文章を読むだけで、誰もがすっかり魅了されてしまうのです。」

そしてガンディーは、1902年のインド国民会議の大会で、南アフリカからカルカッタを訪れた時には、実際にベルル僧院を訪れて、ヴィヴェーカーナンダに会おうとする。

「ブラフモ・サマージについて研究した後、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにお目にかかりたくないなどということがどうしてありえましょう? 私はベルル僧院まで、たいへんな意気込みでほとんど徒歩で行きました。いまでは、全部歩いたか、半分だったかきちんと覚えていません。僧院の静寂はとても気に入りました。」

 

欧米社会に関する様々な知見や体験を踏まえてヴィヴェーカーナンダは、インド社会に残されたカーストの差別や貧富の差に触れると、それを越えたひとつの国民としてのインドの人々への同朋意識を訴える。

冒頭のエピソードで示されているように、カーストの差別や貧富の差を超えたインドの人々によって共有される普遍的な心性という観点をヴィヴェーカーナンダは、ベンガルの土着的な宗教風土に根差した師ラーマクリシュナとの対話を通して獲得し、それをインド各地での多様な人々との交流を通して深めてゆく。

それは、先行するブラーフマ・サマージ運動では具体的には語られず、しかし、タゴールやガンディーらの20世紀の民族運動では主要な争点のひとつとなる、インド国民運動の民衆的な基盤を問うものとなっていた。

ラーマクリシュナの教えを通して、インドの宗教伝統の歴史に深く根差したヴィヴェーカーナンダの思想に魅了されたガンディーが、その思想を受け継ぐことで、インドを独立に導く民族運動の理念としてそれを実践をしてゆくという経緯を、ここには見ることができるだろう。

 

(編集者注)外川教授から頂いた講演原稿をそのまま掲載していますので、人名などの文字表記が他の記事と一部異なります。

 

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スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ第156回生誕記念祝賀会

マハートマー・ガンディー第150回生誕記念祝賀会

スピーチ

在コルカタ日本国総領事

夛賀(たが)政幸様

 

ご紹介にあずかりました在コルカタ日本国総領事の夛賀でございます。今回たまたま休暇の帰国中に この会があるということで出席させていただきました。スワーミー・メーダサーナンダジー、日本ヴェーダーンタ協会の皆様、お招きありがとうございます。

 

本日は(ヴィヴェイク・)ピント先生、外川(昌彦)先生が、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダジー、マハートマー・ガンディージーのお話をされるということで、私がお話しするようなことは何もないのですけれど、せっかくですので一点だけお話しさせていただきます。

 

日本とインドの、特に精神的・文化的関係で、古くに遡れば仏教の伝来を通じてブッダと共にヒンドゥの神々が日本に来ました。今日でも、例えば上野の不忍池の弁天様はサラスワティ、柴又の帝釈天はインドラであり、古くからのつながりがこのように残っています。しかしながら実際の知的交流というのは20世紀に入ってからでございまして、その先頭を切ったのが岡倉覚三天心の1902年のコルカタ訪問だと思います。これを契機に、岡倉の弟子である横山大観や菱田春草などが、インドに行ってタゴール家の人々と交流を始め、知的・文化的交流が深まるわけです。

 

その岡倉がコルカタに行った最大の理由というのが、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダをぜひ日本にお招きしたいというのが発端でございます。そういうわけで、岡倉とタゴール家あるいはインドの様々な文化人との交流、出会いの起点にスワーミー・ヴィヴェーカーナンダがおられ、そのスワーミー・ヴィヴェーカーナンダのお弟子であるシスター・ニヴェーディータを通じて岡倉がタゴール家の方々との出会いに恵まれ、そしてタゴールが訪日、さらに日本の文化人との交流を深めました。そういう近代の歴史があるという点をお話しして、 私のお礼の言葉とさせていただきたいと思います。

 

どうもありがとうございました。

 

(編集者注)夛賀総領事には祝賀会当日に急にスピーチをお願いしました。この記事はスピーチの録音を書き起こして一部編集したものです。

 

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忘れられない物語

 

最後の教え

 

釈尊はクシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後の教えを説かれた。 

 

弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。

 

わが身を見ては、その汚れを思って貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因(もと)であると思ってふけらず、わが心を観(み)ては、その中に「我(が)」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。

 

弟子たちよ、これまでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。もし教えの通りに行うなら常に幸いに満たされるであろう。

 

教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克(か)つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。

 

もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主(あるじ)となれ。

 

心は人を仏(ほとけ)にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外(はず)れないよう努めるがよい。

 

(抜粋:ほとけ 第1章第2節。『和英対照 仏教聖典』 財団法人仏教伝道協会、平成21年)

 

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今月の思想

 

「まず、必要なことをしなさい。次に、できることをしなさい。

すると突然、不可能なことをやっている自分がいるだろう」

…アッシジの聖フランシスコ

 

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