今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

2020年8 月 第18巻 第8号

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かく語りき――聖人の言葉

 

「あなたがグルを信じている限り、あなたの道に障害は何もありません」

…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

 

「王様に会いたければ、まず王様のごひいきを探して仲間とせよ。

神様に会いたいと切に願うなら、まず神様とひとつになった人を見つけよ」

…グル・ナーナク

 

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目次

 

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

・2020年10月の予定

・2020年7月逗子例会 

「霊性の学びを身につける」 パート1

講話者:スワーミー・メーダサーナンダ

・忘れられない物語

・今月の思想

 

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 お知らせ

 

・ 10月も引き続きすべてのプログラムは ライブストリーミングを行います。

  ☞ライブストリーミング

・ Zoomを使ったオンライン講話は「ラーマクリシュナの福音勉強会」と

 「インド大使館バガヴァッド・ギーター聖典講義(於:逗子協会)」です。

 Zoomにはお申込みが必要です。詳細☞zoom.nvk@gmail.com

・ すべてのプログラムは 逗子協会で参加することもできます.

   その際は3日前迄にbenkyo.nvk@gmail.comにお知らせ下さい。

 ご来協の際はマスク、消毒等のご協力をお願いいたします。

 

 

2020年10月の予定

 

・10月の生誕日

ヴィッシュダ・シッダーンタ(Vishuddha Siddhanta)暦では、

2020年10月に生誕日はありません。

 

・10月の協会の行事

 

10月03日(土)14:00〜16:00 バガヴァッド・ギーター聖典講義(日本語)

★Zoom、メールによるQ&A有 

テキスト「バガヴァッド・ギーター」はこちら

講話のまとめはこちら

※インド大使館での講義の続きです。

 

10月11日(日)14:00~16:00 ラーマクリシュナの福音勉強会(日本語)

★Zoom、メールによるQ&A有

テキスト「ラーマクリシュナの福音」はこちら

勉強する部分のPDFと講話のまとめはこちら

 

10月18日(日)⒒:00~16:30 月例講話(日本語と英語)

※10月より午前中から皆様のご参加が可能になりました。

参加ご希望の方は、来協時間と昼食ご希望の有無を3日前までに

必ずご連絡ください。benkyo.nvk@gmail.com

ライブストリーミングは14:00からのみです。

11:00 供物奉献と瞑想

12:00 昼食

14:00~16:30 講話

16:30 茶菓

講話テーマ:「霊的生活での学びを身に着ける必要性 Part3」

講演者:スワーミー・メーダサーナンダ

 

10月25日(日)14:00~16:00 逗子午後例会(日本語)

★メールによるQ&A有

テキスト「瞑想と霊性の生活Ⅰ」はこちら

勉強する部分のPDFと講話のまとめはこちら

 

<ハタヨガ・クラス>

日程:通常 毎月 第1、第2、第4土曜日

時間:10:30~12:00

レッスンが変更になる可能性もございますので直接、担当講師にご連絡ください。

お問い合わせ:080-6702-2308(荒井弘人)

メール: ochanomizuyoga@gmail.com

*専用ホームページはこちらヨガ教室ホームページ

 

<講話の際のQ&Aについて>

第3週の月例講話を除く、すべての講話のライブストリーミングでは、

皆様からの質問メールを受け付けております。

質問がある方は15:25位までに質問のメールを送ってください。

・送り先: benkyo.nvk@gmail.com

・ご質問の内容は、日本語で、わかりやすい言葉で、短くシンプルに

お願いします。

・プライバシーポリシーにより、お名前は公表いたしません。

・講話が始まる前に、質問メールがすぐ送信できるようにご準備ください。

 

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月例講話 

2020年7月

「霊性の学びを身につける」 パート1

スワーミー・メーダサーナンダ

 

私たちは数多くの霊性の本や講話を勉強したり聞いたりしています。しかし、その学びが実際はどの程度自分に身につき、性格に影響が及んでいるだろうか、という疑問は、僧侶も信者も含めすべての霊的求道者が感じたことがあると思います。深く内省してみると、霊性について多くを読んだり聞いているけれども、はたしてそれが自分の性格に大きく影響しているといえるでしょうか? 『ラーマクリシュナの福音』のオリジナル版はベンガル語で書かれた『シュリー・ラーマクリシュナ・カタムリタ』ですが、それを英語に翻訳したのは、スワーミー・ニキラーナンダです。彼は英語訳『ゴスペル・オブ・シュリー・ラーマクリシュナ』で、ベンガル語のdhāraṇā(ダーラナー)を英語のassimilation(アシミレーション)と訳しましたが、一か所だけcomprehension(理解力)と訳しました。日本語訳『ラーマクリシュナの福音』を調べてみると、アシミレーション(アシミレイト)は「理解する」、「わがものとする」(自分のものにする)、「こなす」(習得する)の3種類の日本語に翻訳されていることが分かりました。アシミレーションの日本語には「身につける」と「吸収する」の二つをここに加えるのがいいと思います。「身につける」は、実践や経験を通して何かを自分の一部にする、という意味で、「吸収する」は、知識を吸収する、つまり知識を取り入れるという意味で使います。今日の講話ではダーラナー(英語ではアシミレーション)を「身につける」と訳すことにします。

 

ダーラナーとは、勉強したり聞いたことが自分の一部になる、という意味です。学びが自分の一部になると、心と人格に影響が出ます。例えば飲食をしたときに、食べたものや飲んだものが身につきますね。もし消化が良ければ、肉、血、骨に栄養を与える食べ物の主成分が吸収され、健康が増進されます。しかし、栄養をうまく吸収できなければ、肉体は弱りやせ衰えていきます。これは私たちの体に身につける力がないというしるしです。

 

パタンジャリのヨーガ・スートラでもダーラナーの実践について述べていますが、ヨーガ・スートラでダーラナーは、瞑想という実践におけるひとつの技術という意味でもっぱら使われています。今日の講話でお話しするダーラナーは、聖典の教えが身につくことであらわれる人格の変化のことです。同じ言葉でも前後関係で意味が変わるので、混乱しないようにしてくださいね。例をあげると、私たちは日本ヴェーダーンタ協会の月例講話やさまざまな聖典の勉強会の霊的な話の中で「私は体ではない、心ではない、私はアートマン、純粋な意識です」という聖典の核となる教えを何度も何度も心に刻んできました。しかし、重病で苦しんだり、地震や津波など自然災害の渦中に投げ込まれたときには、「私は体ではない、心ではない、私はアートマン、純粋な意識です」という聖典の教えの真理を本当はどれくらい身につけているのか、ということが厳しく試されます。そんなとき私たちは「私はアートマンだから、何も恐れることはない」と思うでしょうか? それとも生きるために逃げ出すでしょうか? もし地震でこの建物が揺れ始めたら「私は体ではない」と思うでしょうか、それともシュラインと祭壇のシュリー・ラーマクリシュナ、シュリー・サーラダー・デーヴィー、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダを残して生きるために逃げ出すでしょうか?

 

私たちが自分を体と同一視しているから、逃げだす、という考えが起こります。つまり、肉体が死ぬ恐怖に圧倒されるのです。バガヴァッド・ギーターの第2章で「私はアートマンである。火で焼くことも剣で切ることもできない。肉体が死んだ後も魂は生き続ける」など、魂について何度も読んできました。しかし、私たちはいったいどれくらいそのアイデアを身につけることができているでしょうか? 病気や地震などの災難はその大小にかかわらず、私たちがどれくらい聖典の教えを身につけているかの厳しい試験となります。

 

スワーミー・タパッシヤーナンダはシュリー・ラーマクリシュナの直弟子であるスワーミー・シヴァーナンダの弟子です。彼は、グルであるマハープルシャ・マハーラージ(シヴァーナンダジー)が「体が健康なときに、自分はアートマンである、ということはたやすいが、年を取って病気になったとき、自分はアートマンである、と私たちは実際に信じることができるだろうか」と述べられた、と回顧録に記しました。シヴァーナンダジーは、年を取って高血圧やひどい喘息の発作に煩わされ、夜一睡もできないこともありました。彼はラーマクリシュナ僧団の二代目僧長でしたから、朝から大勢の僧侶がプラナーム(恭しくご挨拶すること)を捧げにベルル・マトの彼の部屋を訪れて彼の体調を尋ねました。ふつう、たいていの重病人は自分が夜中にどれだけたいへんな思いをしたかを相手に聞かれる前に話しますね。しかしシヴァーナンダジーの場合、僧侶たちが尋ねる前に先に彼らの様子を尋ねたのです。僧侶たちは本当にとても彼の体調を気遣っていたのですが。シヴァーナンダジーの顔は、夜に眠れなくても、しっかりと休息をとってリフレッシュしたかのようでした。シヴァーナンダジーの医者が診察に来たときでさえ、彼は先に医者の様子を尋ねました。

 

医者はシヴァーナンダジーが高い霊性状態にあり、体意識を欠いていることに気づいていたので「あなたの状態が元気なことは存じています。しかしあなたの体はいかがでしょうか?」と尋ねました。シヴァーナンダジーは「おお、そうでしたね。体には多くの問題があります」と答えました。シヴァーナンダジーはアートマンの中に定住していたので心の底から元気だと言えたのです。私たちもさまざまな病気や困難に見舞われているときに、元気ですよ、大丈夫です、とだけ答えることがあるかもしれませんが、心の底からそのように言うことは簡単ではありません。しかし、シヴァーナンダジーの場合は別です。なぜなら彼は、体・体の問題・苦しみを完全に非同一視していたからです。このことは単に心が思い描いていることではありません。これこそが最高の悟りです。このことの最良の例は、シュリー・ラーマクリシュナご自身です。彼は喉頭がんでした。ときには食べ物が喉を通る際に患部から血が出るほどでしたので、激痛に苦しんでいました。そんな状態でも、シュリー・ラーマクリシュナの心は至福の状態にありました。あまりに公然と至福の雰囲気に包まれていたので、近くにいる信者たちも至福を感じ、至福をいただきました。

 

このすべてのことは、人が「私は体ではない、私は心ではない、私はアートマン、私は純粋な意識」という確信の内に定住している、とはどういうことかを示しています。シュリー・ラーマクリシュナが年若かったトゥーリヤーナンダジーと話をしているとき、喉頭がんの痛みのせいでとても苦しいと訴えました。するとトゥーリヤーナンダジーは、「いいえ、師よ、あなたは苦しんでなどおられません。あなたは至福そのものです!」と言いました。

 

シュリー・ラーマクリシュナは「おまえには私がどれほど苦しんでいるのかわからないのかい? どうしてそんなことがいえよう?」と答えました。

 

「いいえ、師よ、私はあなたがいつも至福にとどまっておられることを確信しております」

 

この会話はシュリー・ラーマクリシュナが「こいつめ、見破ったか」と打ち明けるまでしばらく続きました。[一]

 

そんなことが本当に可能だろうか、と思うかもしれません。それが可能なのは、自分と体を完全に非同一視し、その代わりに、永遠に自由である純粋なアートマンと同一している人だけです。この純粋なアートマンとは、サット・チット・アーナンダ、つまり、絶対の存在、絶対の意識、絶対の至福です。そしてシュリー・ラーマクリシュナは絶対の至福に定住していました。しかし私たちの場合、アートマンの本性について何度聞いても、読んでも、話しても、その真実がまだ身についていません。だから、私たちはアートマンというアイデアをゆるぎないものにできないのです。

 

人生の目的は神を悟ることである、世俗的な楽しみはいずれも有限で最終的には苦しみとなる、反動もある、しかし霊的な至福は無限である。この教えを『ラーマクリシュナの福音』の中で何度も目にします。にもかかわらず、私たちは本当にそれを信じていますか? しっかりと理解していますか?神の悟りが永遠の至福を与えると知って、真剣に神の悟りを追求していますか?

 

もうひとつの例は、ある人物とその人の写真は同じものである、体の影と体が同じものであるように、というシュリー・ラーマクリシュナの言葉です。私たちは実際にシュリー・ラーマクリシュナの写真の中にその存在を感じますか? シュリー・サーラダー・デーヴィーの写真の中に彼女の存在を感じますか? 彼らは祭壇から私たちのどんな行動も発言も見ていると信じているでしょうか?スワーミー・ラーマクリシュナーナンダとスワーミー・プレーマーナンダが祭壇でアーラティを執り行っているのを見た人たちは、二人が聖なるお三方を生きた存在として見ながら礼拝していると感じました。

 

四つの例をおさらいすると:

 

・アートマンは体ではない。

・人生の目的は神を悟ることである。

・霊的な至福と比べると、世俗的な楽しみは有限である。

・ある人物とその人の写真は同じものである。

 

私たちはこれらの教えを何度も聞いてきましたが、やり方、考え方、行動、話、性格はどれくらいその影響を受け、そして変化したでしょうか?そのことについて内省すると、自分がこれらの教えをほとんど身につけていないことが分かります。『ラーマクリシュナの福音』の英語版の中でアシミレーション((霊性の教えを)身につける)という言葉を使っている箇所を探してみると、少なくとも14か所ありました。私はその箇所を探す作業を通して、どういう場面で「身につけてください」と指示されているのか、その前後関係を再読することができました。シュリー・ラーマクリシュナ(師)は、勉強をしたり聞くだけでは十分ではない、聖典の考えを身につけなければならない、と繰り返しアドバイスしています。彼は私たちが聖典の教えを身につけられない理由も説明しています。『福音』からいくつかのコメントを引用してみましょう。:

 

● 信者「私たちは聖典を読みます。それらを理解することができないのはなぜでございますか?」[二]

 

私たちが同じ質問を自分自身に投げかけると、信者が言ったように、何度同じことを読んでいても、聞いていても、まだその内容を身につけていない、ということが分かります。

 

● 別の場面では、ある信者がやってきて「あなたは世界の創造主です、あなたはサヴィトリです、あなたは永遠です」など、母なる神様の聖典チャンディを朗誦しました。それを聞いたシュリー・ラーマクリシュナは「そうだ。だがお前はそれをわがものとしなければいけない」と言いました。[三] 

 

シュリー・ラーマクリシュナは次の場面で、なぜ私たちが霊的な教えを身につけられないのかという質問に答えます。

 

● 「『未熟』なバクティの人は、霊性の話や教えを理解することができない。しかし『熟した』バクティを持つ人にはそれができる。黒い薄膜(硝酸銀)でおおわれた写真用の乾板に落ちる映像はあとまで残る。しかしただのガラス板には何千の映像が落ちても一つもそこにとどまりはしないだろう。対象が行ってしまえば、ガラスは同じガラスである。人は、すでに神への愛が内に育っているのでなければ、霊性の教えを理解することはできない」[四]

 

● シュリー・ラーマクリシュナが語った、悪い奴に打たれて意識を失った僧侶の話があります。

あるとき、悪い男が、僧院に住む一人の僧を打って気絶させました。その僧が気づいたとき、彼を僧院に連れ帰った仲間が、「誰がミルクをあげているのかわかりますか」とたずねました。

 

「はい、わかります」 「私をお打ちになったお方が、いまミルクを飲ませていてくださる」と彼は答えました。彼は、打った人の中にも介抱している人の中にも、すべての人の中に神様を見ていたのです。

 

これを聞いた『福音』の著者Mさんは「はい、私もこの話を知っております」と言いました。

 

そこでシュリー・ラーマクリシュナは「知っているだけでは十分ではない。その意味をわがものとしなければいけない。心がサマーディに入るのを妨げるのは、世俗の対象への思いだ」と言いました。[五]

 

誰かが私からある話を一回聞いて、また同じ話を二回目までは耳を傾ける。しかし三回目になると、話のネタがなくなったので同じ話を繰り返しているのだろう、その話はもう知っている、と思うかもしれません。しかし、頭で言葉を覚えていても、ハートはそれらの意味を身につけていません。もし身についたなら、そのとき私たちの性格、やり方、考え方、態度、は大きく変化します。それが、「知っているだけでは十分ではない!その意味を身につけなければならないのだ」とシュリー・ラーマクリシュナが言った理由です。

 

● 聖典を研究している学者の中には、マハーバーラタ、ラーマーヤナ、バーガヴァタム、チャンディ、バガヴァッド・ギーター、ヴェーダーンタ哲学、シャンカラチャーリヤなどから広く引用することで学識を自慢したい人がいます。これについて師はおっしゃいました。

「ただ聖典を引用したりそれを聞いたりするだけでなんになるか? 消化しなければならないのだ。暦はその年の降雨を予測するが、そのページを絞ったとて水は一滴も出てこない」[六]

 

● 師(シュリー・ラーマクリシュナ)の存命中に、師の生誕地カマルクプルを訪れた直弟子はMさんだけでした。Mさんがカマルクプルに着いたとき、シュリー・ラーマクリシュナの生家では礼拝が執り行われていました。80歳くらいの年老いたブラーミンの聖職者は聖典の学者でもありました。あとでMさんは、学校の校長先生でシュリー・ラーマクリシュナの弟子であるとして、その聖職者に紹介されました。学者の聖職者はこれに驚いて、高等教育を受けてきた校長先生のあなたが、ガダイ(ラーマクリシュナの少年時代のニックネーム)のような何も勉強をしたことがないばか者の信者になるとは、と軽蔑を込めて言いました。これに対してMさんはシュリー・ラーマクリシュナが話したことを引用して、聖職者を封じました「ハゲタカは空高く舞い上がりますが、その目は墓穴や、獣や人の死体を探し求めています」。[七] Mさんは続けました「名声を求めるパンディットや学者にも同じことが言えます。しかし、師ご自身はまさに全くの正反対であられます。師は正式な教育は受けておられませんでしたが、神様を悟られたのですから」。その言葉を聞いた学者の聖職者は、自分の発言を後悔しました。そして、Mさんは正しい、自分はこれまで最高の哲学を学んできたが、いまだに平凡な世俗の人生を送っている、と言いました。



[ここで時間切れとなったので、スワーミー・メーダサーナンダは「霊性の学びを身につける」の話を9月の月例会で続きを話されることになさいました。]



[一]日本ヴェーダーンタ協会出版『神を求めて』初版31~32頁

[二]~[七]日本ヴェーダーンタ協会出版『ラーマクリシュナの福音』初版

[二]597頁 [三]637頁 [四]114頁 [五]321頁 [六]526頁 [七]773頁

 

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—忘れられない物語

 

…名前のいわれ…

 

初めて授かった子に名前をつける段になって、夫婦喧嘩が始まった。妻は自分の父親にちなんだ名前をつけたがったし夫も自分の父親にちなんだ名前を望んだのだ。ついに夫婦はこの争いを解決するために、ラビの知恵を借りることにした。

 

「あなたのお父さんの名前は何ていうのかね?」とラビは夫にたずねた。

 

「アビジャです」

 

「それでは、あなたのお父さんの名前は?」とラビは妻に聞いた。

 

「アビジャです」

 

「それなら何の問題もなかろうに」とラビは当惑顔で言った。

 

「いいですか、ラビ!」「私の父は学者だったのに、彼の父ったら馬どろぼうだったんですよ。そんな人の名前をとって息子につけるなんてできません」と妻は言った。

 

ラビはこのデリケートな問題に、うーんといって考え込んでしまった。ラビはどちらかに味方をすることで、夫婦に勝ち負けをつけたくなかった。そしてついに彼は言った「こういうのはどうだろう。その子をアビジャと呼びなさい。そしてその子が学者になるか馬どろぼうになるまでお待ちなさい。そうすれば誰にちなんで命名したか分かるでしょう」



…数の上では…

 

「被告人、前へ」と裁判官は言った。 「あなたの犯した23の罪により有罪。懲役175年に処す」

 

被告人は老人だった。彼はどっと泣き出した。裁判官は表情をゆるめて言った。「非情なことをするつもりはありません」 「先ほどの宣告はとても厳しいものですが、あなたは刑期を最後まで務める必要はないのですよ」

 

被告人の目は希望で輝いた。

 

「そうです」裁判官は言った。「できるところまで務めればいいのです!」

 

― アントニー・デ・メロ神父著

『蛙の祈り』より

 

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―今月の思想

 

どの欲望の達成も、その不足の点をあらわにするだけです。

…スワーミー・プラバーヴァナンダ

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発行:日本ヴェーダーンタ協会

249-0001 神奈川県逗子市久木4-18-1

Tel: 046-873-0428  Fax: 046-873-0592

 

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