ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)
日本ヴェーターンタ協会の最新情報
2023年08月 第21巻 第8号
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かく語りき――聖人の言葉
無限の水の広がりを想像してごらん。上も下も、前も後ろも、右も左も、いたるところ水だ。その水の中に、水で満たされたつぼが置いてある。つぼの中も水でいっぱい、外も水だ。だがつぼはやはりそこにある。「私」はそのつぼだ。
…シュリー・ラーマクリシュナ
満足にまさる宝はありません。忍耐にまさる美徳はありません。
…ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィ
お釈迦様は、君たちの神に対するさまざまな見解を知ろうとは思わない、と言った唯一の預言者である。魂に関するあらゆる細かな教義を議論することが何の役に立つのか? 善をなせ、善であれ。
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
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目次
・かく語りき――聖人の言葉
・お知らせ
・2023年10月の生誕日
・2023年7月月例会
「無私は神」 (パート1) スワーミー・メーダサーナンダ
・「ギャーナ・ヨーガの概念」
東京大学准教授 加藤隆宏博士
2023年スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会より
・「カルマ・ヨーガ」
清泉女子大学教授 松井ケティ博士
2023年スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会より
・忘れられない物語
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お知らせ
各プログラムに参加を希望される方はご一報ください。
・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。
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2023年10月生誕日
スワーミー・アベダーナンダ 10月8日(日)
スワーミー・アカンダーナンダ 10月14日(土)
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2023年7月16日 月例会 午前の部
「無私は神」 (パート1)
スワーミー・メーダサーナンダ
私たちは聖典の神の定義を知っています。神は遍在、全知、全能です。スワーミージーが神について「無私は神」と定義したことは特異なことです。私たちは無私について知っていますし、私たちの多くは神についてある程度の知識がありますが、 はたしてこの二つをどのように結びつければいいのでしょうか? 多くの人はそのことで少し混乱するかもしれません。日本語では利己的でないことを、「私ではない」という意味の「無私」という言葉であらわします。つまり、「Unselfishness is God」の日本語訳は「無私は神です」となります。今日はこのことについて、プラーナの中の聖者ダディーチの物語の説明から始めたいと思います。ダディーチの名前を聞いたことがある人もたくさんいると思いますが、彼は最高の自己犠牲の例です。ストーリーは次のとおりです。
悪魔と神々の間で時折争いが起きていたころのこと。神々が勝つことも、悪魔が勝つこともあった。ある時、悪魔が神々を倒し、天国の支配者となった。悪魔の王の名はヴリトラースラ。神々は天国から追放されたとき、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラに助けを求めた。すると、「偉大な聖者の骸骨で作った武器を使えば、ヴリトラースラを殺すことができる」と教えられた。神々は、その目的のために命を捧げてくれる聖者を探し始めた。しかし、誰も同意しなかった。最後に、ダディーチと呼ばれる聖者が、偉大な目的のために自分の骨を寄付することに同意した。彼はサマーディを通して肉体を去り、その骨から「ヴァジュラ(雷電)」という名の武器が作られた。そして最終的にその武器でヴリトラースラを殺し、悪魔たちを打ち破り 、神々は天国を取り戻した。これは、無私の最高の形を示すプラーナの一話です。
さて、まず利己的(selfishness)とは何か、その印とはどういうものであるか、を理解しましょう。利己的の中心となるものは「私自身」と「私の家族」です。小文字のsで始まる「the self」はアートマンを示すのではなく、体と心を指します。利己的の印:自分の時間、エネルギー、お金のすべてを自分自身と自分の家族のため使えば、その人は利己的であると言えます。利己的な人の最大の関心事は、自分と家族がどのようにして豊かに暮らすかということです。その人は他者の幸福には全く関心がありません。そのような人は他者からの助けは期待しても、進んで他者を助けようとはしません。たとえ多くの富や資産を持っていたとしても、他者に分けたがりません。彼らは食べ物を無駄にしても気にしないのに、飢えた人には食べ物を与えません。洋服は時代遅れで使えなくなるまで家に置いておきますが、それを困っている人に寄付しようとは考えません。彼らの全関心は、自らの利己的な目的が果たせるように、できるだけ多く貯蓄することなのです。
残念なことに、すべての存在の中で、いわゆる人間が最も利己的です。考えてみてください – 何頭の魚、鶏、牛、豚など、が人間に食べられるために毎日命を犠牲にしていることでしょう。それは厳然たる事実です。さて、もし一匹のトラが私たちのところに来て、「腹が減ったのでお前の命をくれ」と言ったとしたら、私たちは「はい、どうぞ」と言うでしょうか? 次に木について考えて見ましょう。木は、果物、花、野菜などを与えてくれます。木は木製品を使いますか? マンゴーの木は、真夜中にお腹が空いて目が覚めたときにマンゴーの実を食べるでしょうか?
それでも、非常に非利己的な人々の例もあります。たとえば、ベンガルにはイーシュワラ・チャンドラ ヴィディヤー・シャーゴルという著名な人物がいました。ヴィディヤー・シャーゴルとは「知識の大海」という意味です。彼は「慈悲の大海」を意味するダヤー・シャーゴルとしても知られていました。『シュリー・ラーマクリシュナの福音』には、シュリー・ラーマクリシュナとヴィディヤー・シャーゴルとのおもしろい深遠な会話が記されています。残念なことに、そのように非利己的な人はあまりいません。
さて、利己的になるとどのような結果が生じるでしょうか? 視野がとても狭く、自分自身と自分の家族に非常に執着するようになります。さらに、執着は最終的には欲求不満を生みます。なぜなら、家族を喜ばせるために最善を尽くしても、それはほとんど不可能なことだと気づくからです。それだけでなく、彼らは、家族との別離、死別の恐怖に苦しみ、そのことがストレスの原因となり、心と体の健康に影響を及ぼします。したがって、利己的であることの結果は、非常に暗いものです。
当然のことながら、誰もそのような結果を望んでいませんね。では、どのように改善すればいいでしょうか?
最初に、自分の利己的のレベルがどれくらいか、ということを意識してください。時間、エネルギー、お金を自分自身のためにはどれくらい、他者のためにはどれくらい費やしているでしょうか? このことを内省し、自分自身で答えを見つけてください。
二つ目に大事なことは、無私を実践する、ということです。今日の話の中で常に強調することは、「実践」です。
「どうして人は利己的になるのだろう?」というもっともな疑問があります。その基本的な理由は何でしょうか? 答えは、「それは自分を守る、という自然法則だから」です。また、「創造をつづけたい」という神の目的のために尽くしている、という一面もあります。もしも私たちが、神の創造物である自分の家族を守ろうとしなければ、創造は絶対に続きません。 しかしそれと同時に、ギブアンドテイクで創造は続く、ということも真実です。反対に、受け取る(テイク)だけで全く与える(ギブ)ことをしなければ、世界は続かないでしょう。
市場であるものを買うとき、私たちは代金を支払い、商品を受け取ります。しかし、じっくりと考えたことがありますか、どれほどの人々や道具がその商品を準備するのに関わっているのかを? 衣服、家、家具、食べ物などを準備するために、陰では実に多くの人々が時間と労力を費やしています。
このことに関連する、アルバート・アインシュタインの有名な言葉があります「私は一日に百回は自分に次のことを言い聞かせている。私の内的外的生活すべては、生者死者を含めて何千人もの人々のおかげである。私はこれまでに受け取り、これから受け取るのと同じ分のお返しができるように、全力で努力しなければならない、と」。もし私たちがこの言葉を熟考すれば、人生のバランスを保つためには、お返しすることが必要であると気づくでしょう。
ここで自然の法則を霊的な面から考えてみましょう。信者は、自分が選んだ神が、生物、無生物を含む周囲のあらゆるものに宿っていると感じます。
ヤトラ ジヴァ タトラ シヴァ ジャレ クリシュナ スターレ クリシュナ、クリシュナ パルヴァトマスタケ
神はすべてに浸透している、つまり遍在である。神は、苦しんでいる人、病気の人、問題を抱えている人の中におられる。
これこそが、信者としての私たちが、そのような人びとに仕えなければならない理由です。スワーミージーは「シヴァ ギャネ ジヴァ セヴァ(人をシヴァ神と思って奉仕せよ)」というアイデアを引用し、また、「ダリドラ ナーラーヤン、ムルク ナーラーヤン(貧しい人も無学な人も神としてあがめるべきである)」という言葉を作りました。このように、信者としての観点から、人は見返りを期待することなく、周囲の人々に奉仕する必要があるのです。神の絵や神像の中に、私たちは神の存在を想像しなければなりません。しかし、神の存在は、プラッテャクシャ・デーヴァタ[見える神]である人類の中に、明らかです。
では、ギャーナ・ヨーガを実践している霊的求道者の見方はどうでしょうか? 彼はすべての人々をあらゆるところに遍在するアートマンであると考えようとします。私の中にあるアートマンは、他者の中にも存在します。つまり、私たちが他者に奉仕するということは、自分自身に奉仕することになるのです。『バガヴァッド・ギーター』には次のような一節があります。
アトマウパンミェーナ サルヴァットラ サマム パッシヤティ ヨールジュナ /
スカン ヴァー ヤディ ヴァー ドゥッカン サ ヨーギー パラモー マタハ // 6.32
すべては我が身の上のこととして、他者の悲喜をわが悲喜なりと考え、あらゆる生物を自己と等しく見る人こそ、最高のヨーギーなのだ。アルジュナよ!
つまり、ヨーギーが他者の幸福と不幸を自分のものとして見るとき、そのヨーギーは最高の状態に達したと言われる、ということです。だから、ギャーニーはあらゆる存在の中に同じアートマンを見出し、他者に対して深い慈悲心を持つのです。すべての存在の中に同じアートマンを見ることができるヨーギーは、この感情を他者に奉仕するという行為に進化させます。なぜなら、他者の苦しみを感じるだけでその苦しみを軽減しようとしないのでは、不十分だからです。このことから、悟った魂には、他者に奉仕したい、慈悲の心で他者を導きたい、以外の願望はないといわれています。その最高の例はゴータマ・ブッダです。
カルマ・ヨーガの講義の中で、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはこう言いました、「無私であることはより多くの益をもたらす。ただ私たちにはそれを実践する忍耐力がないだけだ」。なぜスワーミージーはそう言ったのでしょうか? なぜなら、無私であることの結果が実を結ぶには時間がかかるからです。すぐに手に入れることはできません。そのために忍耐が必要なのです。無私を実践するとどんな結果が得られるでしょうか? 心の平安、内なる喜びと静けさ、ストレスや不安からの解放などです。
さらに、無私の実践の最大の結果は、エゴを取り除くことができることです。利己的の中心は体と心に関係する私たちのエゴです。このエゴは、神を悟ることの最大の障害です。『シュリー・ラーマクリシュナの福音』の中には「このエゴを取り除きなさい」というアドバイスが何度も出てきます。 このエゴは、時間と場所によって条件付けられた体と心を中心としています。私たちはそれを、より高等なエゴ、つまりアートマンに置き換えなければなりません。無私を実践すればするほど、私たちの心は未熟なエゴから解放され、心は清らかになります。きれいな鏡に太陽がくっきりと反射されるように、純粋な心にだけアートマンは反射されます。しかし、これらはすべて、長期間にわたって継続的に実践することによってのみ到達することができることです。忍耐が必要です。心を無私にする訓練を忍耐強く実践すれば、大きな結果が得られるでしょう。
それでは、皆さんに質問を一つしてこのセッションを終わりたいと思います。二種類のタイプの信者がいます。一つ目のタイプは、霊的実践に非常に誠実で、定期的に聖地を訪れますが、非常に利己的です。たとえ誰かが苦しんでいるのを見たとしても、その人のために奉仕しようとしません。もう一つのタイプの信者は、あまり実践をしませんが、とても非利己的です。その信者は自分が払わなければならない代償のことなど気にかけず、他者に奉仕するために全力を尽くします。質問は、どちらのタイプの信者が優れているとみなされるか、です。
(パート1終わり)
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「ギャーナ・ヨーガの概念」
東京大学准教授 加藤隆宏博士
2023年スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会より
東京大学の加藤です。どうぞよろしくお願いいたします。私は普段、大学の方でインド哲学仏教学研究室というところに所属し、インド哲学を教えています。私の専門は、インド哲学の中でも特に、ヴェーダーンタ哲学を中心に研究しております。日本では、古くから伝統のある仏教学が大変盛んに研究されていますが、明治期以降には西洋からの輸入学問としてインド学がもたらされ、インド哲学はそのうちの一つとして日本においては重要な研究分野の一つとされています。東京大学では、インド哲学講座が始まってから110年以上がたっており、大学の中でも最も古い学問分野の一つとなっております。
本日は、メーダサーナンダ・スワーミージーから、ヴィヴェーカーナンダのギャーナ・ヨーガについて何か話をしてくださいというご依頼を受けました。私はヴィヴェーカーナンダを専門に研究しているわけではありませんので、その内容ではお話するのが難しいということで最初はお断りをしようとしたのですが、ヴィヴェーカーナンダの思想は、私が専門としているヴェーダーンタ哲学にも通じるものがあるから、というご説明を受けましたので、私の専門にも少し関係のあるところで、ギャーナ・ヨーガそのものについて少しお話をしたいと思います。ギャーナ・ヨーガというのは、ヴィヴェーカーナンダのイギリスでの講演を収録した著書のタイトルとなっているものです。この講演録は、ギャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガというシリーズとなっております。こちらが、ギャーナ・ヨーガというタイトルのもとに集められた、ヴィヴェーカーナンダの講演録です。内容はヴェーダーンタ哲学、その中でも特に、シャンカラアーチャールヤの系譜に連なるアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学が中心となっています。ヴィヴェーカーナンダについてはまたあとの方で戻ってまいりますので、ここでは、ギャーナ・ヨーガということについて少し見ていきたいと思います。
まず、先ほども少し触れた、ヴェーダーンタについてです。ヴェーダーンタというのは、狭義には、ヴェーダ・アンタ(ヴェーダの最終部分)という言葉が指し示す『ウパニシャッド』文献群に説かれる形而上学的議論を体系的に扱った根本聖典『ブラフマスートラ』の伝統に則り、『ウパニシャッド』の解釈学を基礎とする学問分野のことを指します。また、その中心的な内容としては、ウパニシャッドにあらわれるブラフマン(梵)という絶対存在を唯一の実在原理としてたて、これを考究の対象とする一元論的思想を展開します。
これが後に、ヴェーダーンタ派という一つの大きな分野へと発展していくと、彼らの学問的基礎として三学処(prasthānatraya)というものが取り上げられるようになってきます。その三つの学問的基礎とは、まずはウパニシャッド文献群、そしてその解釈を体系化した根本経典であるブラフマスートラ、そして、救済論的・神学的基礎となっている『バガヴァッド・ギーター』という三つの聖典のことを指します。後のヴェーダーンタ派では、この三学処に註釈をつける形で教義が発展展開していきました。みなさんもよくご存じのシャンカラアーチャールヤなどもこれらの基本テクストに註釈を付けて解説をしています。
では、一度、話をギャーナ・ヨーガに戻しまして、このギャーナ・ヨーガということばについて少し見たいと思います。ギャーナ・ヨーガという言葉があらわれるものとして、よく知られるのが、先ほどヴェーダーンタの三つの聖典の一つとして紹介をしました、『バガヴァッド・ギーター』です。こちらは第3章第3詩節です。ここにギャーナ・ヨーガという言葉が現れます。引用いたします。लोकेऽस्मिन्द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयानघ । ज्ञानयोगेन सांख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥ ३.३ ॥
「罪なき人よ、この世には二つの立場があると、かつて私によって述べられた。それは知識のヨーガを通じたサーンキヤ(理論家)たちの立場と、行為のヨーガを通じたヨーギン(実践者)たちの立場とである。」
『バガヴァッド・ギーター』の中に、ギャーナ・ヨーガはもう一か所現れます。第16章第1詩節です。引用いたします。अभयं सत्त्वसंशुद्धिर्ज्ञानयोगव्यवस्थितिः । दानं दमश्च यज्ञश्च स्वाध्यायस्तप आर्जवम् ॥ १६.१
「畏れのないこと、心の清浄、知識のヨーガへの専念、布施、自制、祭祀、ヴェーダの学習、苦行、誠実」。ここはさらに文脈が続いていき、以上の性質が神的な資質に生まれたものに備わった属性である、という解説が続きます。… भवन्ति सम्पदं दैवीमभिजातस्य भारत ॥ १६.३ ॥
第3章第3節でしめされるように『バガヴァッド・ギーター』の中では、ギャーナ・ヨーガという立場とカルマ・ヨーガという立場が示されます。伝統的には、これにもう一つ、バクティ・ヨーガという立場が加わります。これらがしだいに、ギャーナ・マールガ(知識の道)、カルマ・マールガ(行為の道)、バクティ・マールガ(信愛の道)というように、解脱(モクシャ)に到達するための道、達成するための三つの手段として示されるようになってきます。『ギーター』で示されたこの三つの道は、社会背景が異なる人々が、それぞれに適した手段をとることによって、同じ解脱というゴールに到達することができるということで、より多くの人に対して救済の道を開いたものと考えられます。
さて、このように、『ギーター』の中には、ギャーナ・ヨーガという概念が現れるわけですが、このギャーナ・ヨーガについては、実は解釈が難しいです。このギャーナ・ヨーガという単語を辞書で調べてみますと、例えば、モニエル・ウィリアムズの梵英辞典では、「真実知の獲得に基づくヨーガ」と説明されていますし、ベートリンクの梵独辞典では「理論的ヨーガ」という説明があり、いずれもこの『ギーター』第3章第3詩節を参照しています。このことは、ギャーナ・ヨーガのもとになる思想は『ギーター』以前にも存在していたと思われますが、これがギャーナ・ヨーガという語として初めて現れるのは、現時点でわかる限りでは『ギーター』が最も古いと言ってよいのかと思います。ベートリンクの説明にある「理論的ヨーガ」というのはよくわかりません。モニエル・ウィリアムズの「真実知の獲得にもとづくヨーガ」というのはもう少し詳しい説明となりますが、これを見ただけでは普通はわからないでしょう。そもそも、真実知というものが何なのかなどについてもよくわかりません。
こんな感じで困った時、我々研究者は、註釈文献というものを調べてみます。冒頭でも紹介したように、『ギーター』は特にヴェーダーンタ派と呼ばれる学問伝統の中でも最も重要な聖典の一つですので、数々の註釈書が書かれていますが、『ギーター』の註釈の中で現存するもののなかで最も古く、また、最もよく参照されるシャンカラアーチャールヤの註釈を少し見てみましょう。こちらは先ほどの『ギーター』第3章第3詩節に対するシャンカラ註解からの一節です。「ギャーナ・ヨーガを通じた、すなわち、知識そのものであるヨーガ、これを通じて。」シャンカラはここで、知識すなわちヨーガという関係性を考えています。一方、もう一か所あらわれる第16章第1詩節では、こことは少し異なる解説がつけられています。引用します。「ギャーナ・ヨーガへの専心、すなわち、知識とヨーガの二つのものへの専心」。
先ほど、第3章第3詩節では、知識すなわちヨーガという形で解説がなされていましたが、ここでは、知識とヨーガという形で解説が施されています。知識とヨーガの関係がここでは二通りに解釈されていることになり、少し困ってしまいます。そこで、もう少しシャンカラアーチャールヤの解説を詳しく見ていくことにしましょう。註釈ではこのように続いています。「知識とは、聖典や師より学んだアートマンなどの語の意味対象を理解することである。ヨーガとは、感覚器官の制御などによる集中によって、そのようにして得られた知識を自らの経験の対象とすることである。」
この解説をよく読んでみると、まず、聖典や先生から学んだものを知識と呼び、そうしてえられた知識を自らのものとするのがヨーガであるということがわかります。ギャーナ・ヨーガのことが少しわかってきました。では、もう少し進めて、今度は、ギャーナ・ヨーガのうちの、ギャーナというものがどういうものかということについて検討してみたいと思います。
ギャーナというのは知識とかknowledgeと翻訳して、何となく理解できたような気がしますが、実は単語を置き換えるだけでは本質的なところは理解ができません。例えば、先ほどあげた辞書の説明では、true knowledgeという説明が出てきました。真実の知という意味になるかと思いますが、これだけではやはりわからないと思います。
こちらは、インドのケーララ州にあるシャンカラアーチャールヤ生誕の地にある生誕記念塔です。塔の入口にはシャンカラアーチャールヤの座像がお迎えをしてくれております。こちらの銘板をみていただくと、こちらのはjñānād eva kaivalyam「知のみにて解脱あり」という言葉が刻まれています。これはシャンカラアーチャールヤの中心的な教説で、『ギーター』の中では、知識の道、行為の道、信愛の道というように、三つの救済の道が示されましたが、シャンカラは知識の道のみによって解脱に到達できるといいます。ここでいわれているギャーナというものは、『ギーター』の中にもでてきたギャーナと同じものを指していると考えてよいでしょう。
ですから、ここでは、シャンカラアーチャールヤのギャーナについての解説をもう一度参考にしたいと思います。シャンカラアーチャールヤの説明は、次のようなものでした。「知識とは、聖典や師より学んだアートマンなどの語の意味対象を理解することである。」
「聖典や師より学んだ」とあります。聖典、サンスクリット語ではシャーストラという言葉ですが、このシャーストラというものが何を意味するのかということについても色々と検討すべきことはあるのですが、ここではひとまずヴェーダーンタの伝統的な学説にしたがって紹介したいと思います。
こちらに挙げたのが、ヴェーダーンタ派のなかで大文章とよばれているウパニシャッドの重要章句です。ウパニシャッドの教説のなかでも特に重要なこれらの章句をヴェーダーンタ派では伝統的にmahāvākya[マハーヴァーキャ]とよび、ウパニシャッドの根本教説を言い表したものとして伝えてきました。こちらには、4つの大文章を紹介しています。これは14世紀頃にかかれた不二一元論派のマニュアルである『パンチャダシー』というテキストの註訳者であるラーマクリシュナがmahāvākyaとして紹介するものです。順に、 prajñānaṃ brahma『アイタレーヤ・ウパニシャッド(Aitareya)』「ブラフマンは智慧である」、ahaṃ brahmāsmi『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド(Bṛhadāraṇyaka)』「わたしはブラフマンである」、tat tvam asi『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(Chāndogya)』「おまえはそれである」、ayam ātmā brahma『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』(Māṇḍūkya)「これはアートマンである。ブラフマンである」ということになります。ラーマクリシュナによれば、これら4つの大文章はそれぞれ、4ヴェーダから選定されたものということになります。すなわち、『アイタレーヤ・ウパニシャッド(Aitareya)』これは、リグ・ヴェーダに属するもの、『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド(Bṛhadāraṇyaka)』はヤジュル・ヴェーダ、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(Chāndogya)』はサーマ・ヴェーダ、『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』はアタルヴァ・ヴェーダということになります。つまり、彼らは、これら4つの大文章mahāvākyaが、4つのウパニシャッドのエッセンスを伝えるのみならず、4つのヴェーダのエッセンスを表しているというように解釈をいたします。
ここでは、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』に説かれる「おまえはそれである」と、『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』にあらわれる「わたしはブラフマンである」という二つの章句に注目したいと思います。先ほどのギャーナ・ヨーガの解説をもう一度振り返ってみましょう。それは、「知識とは、聖典や師より学んだアートマンなどの語の意味対象を理解することである。ヨーガとは、感覚器官の制御などによる集中によって、そのようにして得られた知識を自らの経験の対象とすることである」というものでした。ここであげた大文章は、まず、師(この場合は、ウッダーラカというお父さんが息子に語り掛ける場面ですが)から「おまえはそれである」と教えられるギャーナの部分と、そうして得られたギャーナを自らのものとする、つまり、自己の経験として受け止めるヨーガの部分が、「わたしはブラフマンである」という形式で示されています。つまり、知識というのは、聖典や師などより学んで理解したことを自分のものとして体得することということになるかと思います。
知識についての同じような形式は、古くは『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』などの中でupāsana[ウパーサナ]という観想法として示されています。Om ity etad akṣaram udgītham upāsīta「ウドギータ(高い声の詠唱)をオームというこの聖音と同値として念想すべし。」ここでは、「ウパーシータ」という動詞が使われています。これは動詞語根ウパースの願望法の形ですが、このウパースという動詞は、「崇拝する」、「注意を向ける」、「AをBとみなす」という意味があります。ここでは、ヴェーダ祭式においてウドガートリ祭官が詠唱する高い声をオームという聖音とみなして念想せよ、と命じています。少し専門的にいうと、既知の対象Aを最高存在Bとを認識的に同値してそこに注意を向けるという意味になります。教説や師より得られたものに注意を向けて、それを最高存在と同一とみなすというウパーサナの形式は、ギャーナ・ヨーガでしめされた方法論と一致します。つまり、『ギーター』で説かれているギャーナ・ヨーガの淵源は古くウパニシャッド文献群にまでさかのぼれることができるという一つの例ということになります。
そろそろ今日のお話をまとめたいと思います。まとめとして、こちらに『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』の一節を引用します。「マイトレーイーよ、人はこのアートマンこそを見るべきであり、聞くべきであり、このアートマンについて思慮すべきであり、このアートマンに注意を向けるべきである。」ここでは、真実を見、聞き、それについて繰り返し考え、そこに注意を向けて集中すべきであるという道筋が描かれています。こうして知識の獲得とその内面化ということを繰り返した先に、解脱という最終到達点がまっているというのが、ここでの重要なメッセージです。これは別の言い方では、修道論(discipline)ということになると思います。ちなみに、仏教では、この修道プロセスは聞・思・修という形で示されました。
以上、ギャーナ・ヨーガということについて、関係する文献などを見ながら、検討してみました。ヴェーダーンタの伝統では、これを単に「知識」とは考えておらず、ヴェーダ以来の伝統的な知に触れ、それを理解し、自ら体得するというプロセス全体であると考えていたことがわかりました。
皆さんよくご存じのことかと思いますが、ヴィヴェーカーナンダ・スワーミーはアメリカのシカゴで1893年に開かれた万国宗教会議で行ったスピーチで、『ギーター』から次の一節を引用します。「人々がなにかしらの方法で私に帰依するならば、私はまったく同じように彼らを愛する。パールタよ、すべての人々は私の道に従う。」この一節は、まさに、どのような方法をとろうとも、すべての人が救済されるという『ギーター』のメッセージを欧米世界に知らしめた有名な一節です。余談となりますが、当時の世界状況において、欧米諸国は世界の各宗教の代表者に寛容の精神を示そうとしたわけですが、逆にインドからやってきたヴィヴェーカーナンダ・スワーミーの方が、インドの古代の言葉を引用しながら、普遍宗教の可能性や慈悲の精神について説き明かしたため、欧米の人たちは大変驚いたわけですね。もちろんこのスピーチは大変なセンセーションを巻き起こしました。
今日私たちが見てきたギャーナ・ヨーガというのは、その一つの手段であり、解脱に至る道は他にもあります。Karman、当時で言えばヴェーダ祭式の執行ですけれども、今風にいうならば、仕事に集中することで解脱に至る、あるいは、ひたすら神を信仰することバクティによって救われるという道も私たちには開かれています。いずれの道を取るにせよ、私たちはこうした実践を日々繰り返し行い、知識、行為、信仰を自らのものとしてそこに注意を向ける、すなわち、ヨーガということが大切になるのかと思います。最近では、ヨーガというものが注目を集めていますが、いわゆる身体機能を整えるタイプのヨーガではなく、ある一つのことに意識を集中させること、心を注意深く差し向けるという意味でのヨーガということについて、今日は学ぶことができたかと思います。
(※一部のアルファベット表記をカタカナ表記に、一部の固有名詞は他の記事と統一させていただきました。編集者)
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「カルマ・ヨーガ」
清泉女子大学教授 松井ケティ博士
2023年スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会より
スワーミー・メーダサーナンダ、ご来賓の皆様、今日この会場にいらっしゃる同胞の皆様、1895年12月にニューヨークで行われたスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの講演を通して、貴重なカルマ・ヨーガについて話し合う機会を与えていただき、光栄に思いますし感謝しています。講演録を読みながら、彼の言葉の多くが、平和教育者としての私の考えと共鳴していることに大きな感銘を受けました。 自分の行動、仕事、使命が、自分が目指しているゴールに向かって人格を形成しているのだと勇気づけられました。
カルマ・ヨーガには非常に多くの深みと知恵があり、このプレゼンテーションをどのように構成し、15分以内に収めることができるか、苦心しました。 いろいろ考えた結果、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの講義の一部を引用し、私の考えや仕事で彼の知恵に応えようと思いました。 私は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダのカルマ・ヨーガの講義を通して私が学んだことを皆さんにお伝えし、その学びを、平和教育者としての私の旅の物語、平和構築者としての私の継続的な活動のビジョン、未来への希望と結び付けたいと思います。
まず最初に、自己紹介をさせていただきます。 私の名前はキャシー・ラモス・マツイです。ラモスという名前は、横浜で生まれ育ったフィリピーナ系アメリカ人である私の血筋の一部です。 私の父はアメリカ海軍の船乗りという職業に就いていたため、私は戦争と平和に対して特に敏感です。 彼の仕事は、弾薬や生活必需品を戦地に運ぶことでした。 父は朝鮮戦争とベトナム戦争に参加しました。 父から戦争の悲惨な話をたくさん聞きました。 また、カトリック高校の伝統の一環として米軍病院を訪れ、ベトナムで国のために戦った負傷した米軍兵士たちにクリスマスキャロルを歌いました。 頭からつま先までテープで縛られた兵士たちの姿や、衛生的な病院であっても膿や血の臭いがしたことを今でも覚えています。それが私の間接的な戦争体験だったわけです。
私はカトリック教徒ですが、仏教徒の環境でも育ちました。 母方の日本人の祖母と私の母は、立正佼成会という仏教の信徒団体のメンバーでした。 この団体は、世界の差し迫った問題に対して効果的な多宗教的対応を導くことを目的とする「世界宗教者平和会議」の創設者の1人です。この団体は、野心的な目標や複雑な問題は、異なる信仰共同体が協力することで最もよく取り組むことができると考えています。(Religions for Peaceのウェブサイトより)そしてこの信念は、ヴェーダーンタ協会でも実践されています。 20年ほど前、私をこのスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭実行委員会に誘ってくれた奈良毅先生と、素晴らしい霊的体験をしたことがあります。
そして今回は、カルマ・ヨーガの意味、理論、実践について、このテーマでお話したいと思います。まず、第1章からの引用から始めましょう。
「カルマという言葉は、サンスクリット語のKri(行う)に由来しており、すべての行為はカルマである。厳密には、この言葉は行為の効果も意味します。 カルマとは仕事のことである。 人間の目的は知識である。...この知識は、やはり人間に内在するものです。知識は外からやってくるものではなく、すべて内部にあるものだ。人が「学ぶ」のは、本当は「発見する」ことであり、自分の魂の覆いを取ることによって、無限の知識の鉱山となる。多くの場合、それは発見されず、覆われたままだ。覆いがゆっくりと取られるとき、我々は「我々は学んでいる」と言う。
(第1章)
教育という言葉は、一人ひとりの中にある知識を取り出すという意味ですから、まさにその通りだと思いました。さらに、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「すべての仕事は、すでにそこにある心の力を引き出し、魂を目覚めさせることにほかならない」と述べています。 これは、学習者にとっての学びの場であり、教育者にとっての教えの場と言えるでしょう。 この言葉は、今から約40年前、ハワイ大学で開催された最初の平和教育会議「国際平和教育研究所(以下、IIPE)」で経験した「アハ・モーメント」、目からうろこの体験を思い出させてくれる。 平和教育の母であり、IIPEの創設者である私の師匠、ベティ・リアドン博士に初めてお会いしたのもこの時でした。 参加したすべての活動が私の心に響き、すぐに日本でもできないかと考えました。
この学習プロセスについては、第5章で触れています。
「外的な教師は、内的な教師を奮い立たせ、物事を理解するための示唆を与えるに過ぎない。そして、物事は私たち自身の知覚と思考の力によってより明確になり、私たち自身の魂の中でそれらを実現する。その実現は強烈な意志の力へと成長する。最初は感情であり、次に意志となる。その意志から、あらゆる静脈、神経、筋肉を通り、あなたの体の全体が仕事の無私のヨガの道具へと変化し、完全な自己否定と完全な無私という望ましい結果が正式に達成されるまで働くための多大な力が生まれていく...。 (第5章)
この学びのプロセスは、平和教育の価値づけのプロセスと共鳴しています。知識とは、言い換えれば「心に触れること」であり、私たちの認知スキルです。 私たちは、歴史を通して、過去に実践されたことを通して、知識を求めることができます。
感じるスキルとは、「心に響く」という意味であり、情緒的なスキルです。私たちは、想像し、考え、創造し、実践するスキルを使うことで、代替策を学ぶことができます。私たちの周りで起こっていること、私たちのコミュニティ、私たちの国、そして世界を五感で感じることが必要です。 私たちは皆、その一部なのです。 耳を開き、うめき声を聞き、痛みを感じ、お互いの未来に向かって同じ方向を向く必要があります。 行動を起こすためのスキルも必要です。 私たちには生きる権利があり、何よりも平和を求める権利があるのです。私たちは平和に暮らしたいと思っています。
そこで、3年後の1996年、平和教育者の友人たちと東京の国際基督教大学でIIPEを開催しました。 それ以来、現在教育者として働いている女子大学の清泉女子大学で、平和教育の活動やカリキュラムをどのように取り入れることができるかということで頭がいっぱいになっていました。 そして1998年、日本では18歳人口が減少していることから、清泉は大学の教育ミッションを維持するためにどうしたらよいかを考え、三菱総合研究所を通じて18歳の女子が興味を持つ専攻について調査を行いました。 その結果、「異文化理解」と「コミュニケーション」の分野に着目した。カルマ・ヨーガも第4章で異文化理解の重要性に触れています。 「カルマ・ヨーガを学ぶ上で、義務とは何かを知ることは必要である...:いかなる存在も傷つけてはならない。いかなる存在も傷つけないことが美徳であり、いかなる存在も傷つけることが罪である。したがって、我々が覚えておくべき一つのポイントは、常に他人の義務をその人の目を通して見るようにし、他民族の習慣を自分の基準で判断してはならないということです。"
これはまさに、平和創造に必要な異文化理解論である。
新学科の準備のため、当時の清泉女子大学の学長から、私と他の数人の教授が委員会を作り、新学科のカリキュラムを形成するための提案をするよう任命されました。 私は、平和教育プログラム、つまりアクティブな市民を育てるための学際的なプログラムを提案した。私は、探究心、内省、知識、感じるスキル、そして変革のための行動を起こすスキルの重要性を考えたのです。
このような行動が次々と出てくるのは、第7章の次の引用文と共鳴する。
"仕事 "という意味に加え、心理学的に "カルマ "という言葉には因果関係も含まれていると述べました。効果をもたらすあらゆる仕事、行動、思考はカルマと呼ばれます。カルマの法則は、因果の法則、必然的な原因と順序を意味します。私たちが知っている小さな宇宙の外には、何百万という種類の幸福、存在、法則、進歩、因果があり、すべてが機能しているかもしれません。
過去の多くの因縁が、IIPEで目から鱗が落ちるような体験をした後、他の多くの点をつなぐ点として機能している。アップルコンピューターの創業者であるスティーブ・ジョブズも、リーダーシップに関する言葉の中で「点」を挙げています。「前を見て点をつなげることはできない。だから、自分の未来で点と点がつながることを信じなければならない。直感でも、運命でも、人生でも、カルマでも、何でもいい。このアプローチは、私を失望させることはなく、私の人生を大きく変えてくれました。 20数年前、IIPEでインスピレーションを受けたように、私は平和教育者になることが自分の使命であり、テレロジーであり、平和教育者になるためにこの世に生まれてきたのだということを発見しました。そして、私の使命は、外に出て人々を巻き込むことだと自分に誓いました。
それが、2001年に発足した「地球市民学科」という新学科の始まりでした。カリキュラムは、学際的な知識である「ナレッジ」、コミュニケーション能力や紛争解決能力である「スキル」、そして日本国内および世界各地での体験学習を中心とした「フィールドワーク」という3つの柱で構成されています。 大学で教えるだけでなく、世界宗教者平和会議、武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ、平和教育のためのグローバル・キャンペーン、そしてもちろん、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭イベントの平和活動など、多くの平和構築活動に携わりました。
第6章では、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの言葉を引用します。「私が良い行為をしているとき、私の心は別の振動状態にあり、同じように張られたすべての心は、私の心の影響を受ける可能性がある。このような衝動を受け取ることができる心を開いている人は、すぐにそれを受け取ることができる。"
私が発信する波動は、他の人の心にも届き、その人たちは、より良い世界のために私と連帯する心ある人たち、あるいは同志と言った方がいいかもしれません。
スワーミーはさらに、「カルマ・ヨーガによれば、自分の行った行為は、それが実を結ぶまで破壊することができず、自然界のいかなる力も、その結果をもたらすことを止めることはできない」と述べています。 この言葉は、平和教育者にとって非常に心強い言葉です。私たちが平和のための教育や活動、特に戦争制度の廃止やより公正な社会を目指すとき、「なぜそんな無意味で有益な結果を生み出せないようなプロジェクトを引き受けるのか? あなたの足は地に着いているのでしょうか?本当にこの夢が実現すると思っているのか? スワーミーの励ましを受けながら、私たちはこう答えるしかありません:なぜなら、それが正しいことだからです。平和の旅は簡単ではありませんが、多くの課題に対する答えは、絶望でも皮肉でもなく、私たちが心と心、精神と意志を合わせて行動しさえすれば、平和は可能であるという確信なのです。
なぜなら、この行動そのものが、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダが言及したカルマ・ヨーガの理論と実践によって支持・確認されているからです。 私は現在、韓国ユネスコのアジア太平洋国際理解教育センター(APCEIU)と共同で、北東アジアで共通の平和教育カリキュラムを普及させるプロジェクトに取り組んでいます。この共通カリキュラムは、ユネスコのビジョンに忠実でありながら、北東アジアのニーズや状況に対応した適切な平和教育の共通の目標、意味、内容、方法、学習成果を平和教育者に提供することを目的としています。(APCEIU提供のコンセプトノートより)。
最後に、第7章から次のように引用します:
"カルマ・ヨーガ "とは何か?仕事の秘密を知ることです。私たちは、宇宙全体が働いていることを知ります。何のために?救いのため、自由のため、原子から最高の存在に至るまで、一つの目的のために働いているのです。カルマ・ヨーガは、そのプロセス、秘密、そして、それを最も有利に行う方法を示しています。
私の生い立ち、宗教的背景、そして平和教育者としての使命を見つけたこの経験は、点と点がつながったものです。知識、行動の効果、仕事、無執着、無私、そして自由への道(まだ達成されていませんが)が、今の私の位置につながり、私の旅はまだ続くでしょう。
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに感謝します。
(※一部、固有名詞は他の記事と統一させていただきました。編集者)
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—忘れられない物語—
「お釈迦様の許し」
ある日、お釈迦様は弟子たちと一緒に村へ出かけた。お釈迦様が来ると聞いた多くの村人が祝福を求めてやってきた。
息子たちと一緒に商売をしている男がお釈迦様に激怒した。男は、お釈迦様が我が子や村人たちを、他のことは何もせずただ瞑想するよう誘うので、何か間違ったことをしていると思ったのだ。さらに男は、いつも目を閉じているお釈迦様を見るだけに時間を費やすなんて、まったくもって時間の無駄だと感じた。そんなことをするよりも、我が子はお金をもっと稼ぐために自分の仕事を手伝うべきなのだ。
「今日こそ思い知らせてやる」と男は言った。
男は怒ってお釈迦様に向かって行った。お釈迦様に近づくとすぐに、何か違いを感じた。しかし、怒りは消えていない。男は言葉を失い、自分の感情を言葉で表現することができなくなった。男はお釈迦様の顔を平手打ちした。するとお釈迦様は男に微笑みを返したのだ。
これを見ていた弟子も村人たちも、その商売人に激怒した。しかし、彼らはお釈迦様の前なので、自分の感情を抑えて静かにしていた。商売人は、周囲の人々が自分のしたことに何の反応もしていないことに気づいた。
そして、「ここにこのままいれば、また爆発してしまう」と思い、その場から立ち去った。男は家に戻った。微笑むお釈迦様のイメージが心から離れない。男は生まれて初めて、失礼な行為に対する彼らの感情をコントロールする人物に出会ったのだ。彼はベッドに入っても一晩中眠れなかった。彼は震えていた。商売人は、自分の身に何かが起こり、全世界がひっくり返ったように感じた。翌日、男はお釈迦様のもとに行き、御足にひれ伏して「どうか私の行いをお許しください」と言った。
するとお釈迦様は「許すことはできません」と答えた。
お釈迦様の返事を聞いた弟子も村人たちもショックを受けた。なぜなら、お釈迦様は生涯を通じて慈悲深く、過去に関係なくすべての人をアーシュラムに受け入れていたからだ。それなのに今、お釈迦様は商売人の行動を許すことはできないと言いなさる。
皆のショックを察したお釈迦様は、「あなたは何もしていないのに、どうして許さなければならないのだね?」と言った。
商売人は「私は昨日あなたの顔を平手打ちしてしまいました」と答えた。
お釈迦様は「あの人はもうここにはいません。もし私が、あなたが平手打ちをした相手に出会ったら、『許してやっておくれ!』と言うよ。さて、この瞬間ここにいる人、あなたは輝かしい、そしてあなたは何も悪いことをしていません」
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今月の思想
「あらゆる欲望は、自ら選んだ不幸である。欲望とは、欲しいものを手に入れるまでは不幸だ、という自分自身との契約なのだ」
…ナヴァル・ラヴィカント
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