ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)
日本ヴェーターンタ協会の最新情報
2024年9月 第22 巻 第9号
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かく語りき――聖人の言葉
無限の水の広がりを想像してごらん。上も下も、前も後ろも、右も左も、いたるところ水だ。その水の中に、水で満たされたつぼが置いてある。つぼの中も水でいっぱい、外も水だ。だがつぼはやはりそこにある。「私」はそのつぼだ。
…シュリー・ラーマクリシュナ
私たちのこの心の背後には、種の形で存在する精妙な霊的心があります。瞑想、祈り、ジャパムの実践を通じて、霊的心が発達し、新しいヴィジョンが開かれ、求道者は多くの霊的真理を悟ります。その精妙な心は、求道者を神に近づけますが、神に到達することはできません。この段階に達すると、世界はもはや何の魅力もなく、求道者は神の意識に没入します。この没入は表現不可能な経験であるサマーディにつながります。それは在るもないも超越しています。そこには、幸も不幸もなく、光も闇もありません。すべては、名状しがたい――無限なる存在です。
…スワーミー・ブラフマーナンダ
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目次
・かく語りき――聖人の言葉
・お知らせ
・2024年11月の生誕日
・2024年6月1日 スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会
「在ることと成ることとしての宗教」
スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ
・2024年7月6日 善通寺夏季リトリート 舎利講
「あるヒンドゥ教徒の目から見たお釈迦様とその教え」
スワーミー・メーダサーナンダ
・忘れられない物語
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お知らせ
・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。
・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。
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2024年11月生誕日
スワーミー・スボーダーナンダ 11月13日(水)
スワーミー・ヴィッギャーナーナンダ 11月14日(木)
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スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会
「在ることと成ることとしての宗教」
スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ
宗教とは、在り方であり、なるものであって、聞くことでも、認めることでもない。宗教は頭で納得するものではなく、その人のすべての性質がそれに変わっていく。それが宗教だ。全人類に対する愛と施し、それが本当の信心深さを試すものである。
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
敬愛する議長、このセミナーにご出席の皆様、こんにちは。宗教とは何でしょうか? それは在り方であり、なることです。それはどういう意味でしょう? それは、サット・チット・アーナンダである私たちの本性に気づいて、サット・チット・アーナンダとなることです。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはある機会に「宗教とは、すでに人間の中にある神性さのあらわれである」とおっしゃいました。人は外側と内側の性質を制御することによって、この神性さをあらわすことができます。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダによれば、仕事、礼拝、精神制御(瞑想)、哲学のどれかひとつ、またはいくつか、またはすべてを実践することでそれは実現可能であり、人は自由になります。
では、何から自由になるのでしょうか? 宗教の目的は、「私は」「私の」という束縛から、サットワ、ラジャス、タマスという三つのグナの束縛から、欲望と執着という束縛から、私たち自身のサムスカーラの束縛から、自由になることです。
ここでスワーミージーは、性質を制御することについて話します。私たちは、自分の体、感覚、家、家族を、死ぬときにはすべて手放さなければならないと知りながらも、自分のものとみなしています。同様に、私たちは自分と自分の心を同一視しています。そしてまさに今、私たちは心に制御されているので、私たちは性質の制御下にあります。私たち全員の中には神性な閃光があるにもかかわらず、私たちは自分を体、心、感覚、自我と同一視しているので、それらに執着するようになり、それらに支配されているのです。
自由を得るには、四つの異なる方法があります。バクティ・ヨーガ(信仰の道)、ギャーナ・ヨーガ(知識の道)、カルマ・ヨーガ(働きの道)、ラージャ・ヨーガ(瞑想の道)です。
バクティ・ヨーガ(信仰の道)では、自分で選んだ理想像を、人生の北極星、愛の対象にします。神の御姿を瞑想し、神の御名を唱え、すべての仕事を神への捧げものとして行います。この世界を神のあらわれと見なします。これが信仰の道です。
ラージャ・ヨーガ(瞑想の道)は、ヤマ、ニヤマという心の浄化のためのさまざまなステップを提唱しています。それらを実践し、さらに、毎日静かに座り、神以外のあらゆる考えを取り除き、神を瞑想しなければなりません。
ギャーナ・ヨーガ(知識の道)では、常に実在と非実在を識別します。私たちはサット・チット・アーナンダである自分の本質を思い出しながら、観察者として留まらなければなりません。このようにして現象世界から自分を切り離すのです。はじめはシュラヴァナ(真理について聞く)をし、次にマナナ(真理について深く考える)、最後にニディディヤーサナ(真理に集中する)をします。知識の道では、すべての感覚の制御と、真我を悟ることへの強烈な切望が求められます。
カルマ・ヨーガ(働きの道)では、自分が神の道具となり、すべてのことを神への捧げものとして行います。こうすることによって仕事が礼拝になります。すべての行為をこのように行なえば、だんだんと自我は神の意識に溶け込み、私たちは自由を獲得するのです。
宗教について聞いたり話したりするだけで何も実践しようとしないなら、理論畑にいるに過ぎません。まるで、誰かから牛乳の話を聞くだけで、実際に自分では飲まないことのようです。
実践とは何でしょう。
1. 怒り、利己主義、貪欲、その他の否定的な感情を制御することで、心を浄化すること
2. 究極の存在である神に集中すること
3. 無私の実践すること
です。
今から、ある人が霊的な悟りを得るときに、その人に何が起こるかを示す例を挙げます。これは『ラーマクリシュナの福音』からの引用です。ある僧侶は毎日托鉢に出かけていました。ある日、僧侶が外に出ると、金持ちが召使をひどく殴っていました。僧侶が前に出て止めようとすると、金持ちは怒り狂い、僧侶を殴り始めました。止める者はいませんでした。殴打はひどく、しばらくして僧侶は意識を失い倒れてしまいました。翌日、倒れた僧侶を発見した人が僧院に報告をしました。兄弟僧たちは彼を連れ戻し看病を始めました。少しずつミルクを与えると、僧侶はゆっくりと意識を取り戻しました。仲間の僧侶が「誰がミルクを与えていますか」と聞くと、僧侶は「私を殴っていた方が、今はミルクを飲ませてくださっています」と答えました。こうして僧侶はすべての存在がひとつであることを悟ったのです。
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの霊性の師であるシュリー・ラーマクリシュナは、非常に高位の聖者で、今では世界中の多くの人々から人類の偉大な霊性の師とみなされています。シュリー・ラーマクリシュナは強烈な切望によって、聖なる母のヴィジョンを見ました。それからヒンドゥ教におけるさまざまな道も実践しました。その後、イスラム教とキリスト教に定められた道をたどり、それらの人格的側面と非人格的側面の両方を悟りました。シュリー・ラーマクリシュナの人生は、聖典原理の生きた実演です。彼の個人の意識は聖なる意識に溶け込み、彼はすべての存在と一つであると感じました。彼の思考には、「私、私のもの」のかけらもありませんでした。彼にとってあらゆる生きている存在は、神のあらわれだったのです。シュリー・ラーマクリシュナは霊的悟りの極みに達していたので、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダが率直に「あなたは神を見たことがありますか?」と尋ねたとき、確信を持ってこう答えました。「ああ、あるよ。お前を見るよりももっとはっきりとね。見たかったら、お前にも見せてあげられる!」 シュリー・ラーマクリシュナにとって、宗教や霊性とは、単なる理論ではありませんでした。つまり、神は神話でも概念でもなく、上述のヨーガを懸命に努力して実践すれば、誰でも悟ることのできる事実なのです。
さて、宗教について、私たちが心に抱く一般的な疑問がいくつかあります。多くの宗教があるが、それぞれ異なるゴールに向かうのだろうか? さまざまな宗教の信者の間に、なぜこんなにも多くの争いが起こるのだろう? スワーミージーは言います、あらゆる宗教は真実であり、それらは同じ神を悟るための異なる方法である、と。つまり、他の宗教を批判することなしに自分の宗教を実践することが、常に賢明なのです。
では、[それぞれの宗教の]神は異なるのでしょうか? ヒンドゥ教の神、イスラム教の神、キリスト教の神があるのでしょうか? 太陽は、インドに昇る太陽も、日本、アメリカに昇る太陽も、同じ太陽です。このように、あらゆる宗教の信者は同じ神を礼拝しているが、神の呼び名が違うだけです。
また、宗教は多くの争いや流血の原因となっているのですべての宗教を禁止すべきだという主張もあります。そうであれば、一つの疑問が生じます。科学者は、何百万人もの人々を死に至らしめ、数分で全世界を破壊することができる兵器を発明した。それゆえに科学も排除されるべきではないか?という疑問です。そんなことを言うのは、馬鹿げているし愚かです。兵器が何百万人も殺した責任は、それで利益を得る科学者と人々にあります。科学に責任はありません。同じように、世界がこれまで目撃してきた多くの虐殺の責任は宗教にあるのではなく、宗教の名の下に行われた虐殺を行った狂信者にあるのです。
一方、宗教と宗教的行為は、世界中で幾世代にもわたり非常に多くの人々に、多大なる平安と慰めを与えてきました。そして今も、これからも与え続けるであろう、ということを考えるべきです。
さらに、人間として生きていく上で最も重要な人生の充実という観点からすれば、人生に充実をもたらすのは、お金でも、名声でも、家族でも、動植物からの安らぎでもありません。宗教の核である霊性だけが、充実感もたらすことができるのです。
最後に、本当に宗教的な人にはどのようなしるしがあるか、と問うかもしれません。なぜなら、私たちは非常に多くのいわゆる宗教的な人びとを見かけますが、その人たちが非倫理的なことをしたり、とても表面的で世俗的な心の持ち主であることを目の当たりにするからです。
今日は、この重要な問い対する答えを結論といたします。真に宗教的な人の基準を知ることは大事です。なぜなら、そのような人を認識できれば、自分がそのような人物になろうと努力することもできるからです。その基準とは:
1. 人生の本当の意味と目的を知っている人。
2. 心が清らかな人。
3. その人生が神や至高の真理に焦点を合わせている人。
4. 非利己的で、見返りを期待せずにいつでも他人を助ける用意のある人。
私たちは、世界のあらゆる宗教の中にそのような人を見ます。そしてそのような人はその人自身に対しても、社会に対しても祝福となります。
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善通寺 御影堂にて舎利講
「あるヒンドゥ教徒の目から見たお釈迦様とその教え」
スワーミー・メーダサーナンダ
まず、善通寺の住職である菅智潤(すがちじゅん)猊下が聴衆に短い言葉を述べられ、その後、マハーラージは本堂の礼拝用の祭壇でもある舎利殿の演壇に呼ばれました。
マハーラージは手を合わせて「ナマステ」と皆に挨拶し、「これから三つの祈りを唱えます。皆さんも繰り返してください」とおっしゃり、三帰依と二つのヴェーダのマントラを唱えられました。
ブッダン シャラナン ガッチャーミ(お釈迦様が我々の避難所になりますように)
ダンマン・シャラナン・ガッチャーミ(お釈迦様の教えが我々の避難所になりますように)
サンガン・シャラナン・ガッチャーミ(お釈迦様の僧団が我々の避難所になりますように)
次にヴェーダの祈りを二つ唱えました。
アサトー マー サド ガマヤ(神様、非実在から実在へ、導いてください)
タマソー マー ジョーティル ガマヤ(無知の暗闇から知識の光へ、導いてください)
ムリトョルマー アムリタム ガマヤ(死から不死へ、導いてください)
オーム サルヴェー バヴァントゥ スキナハ(すべての人が、幸せになりますように)
サルヴェー サントゥー ニラーマヤハ(すべての人が、元気でありますように)
サルヴェー バッドラーニ パッシャントゥ (すべての人が、良いものを見ますように)
マーカスチードゥッカバーグバヴェット(すべての人が、苦しむことがありませんように)
オーム シャンティ シャンティ シャンティ (オーム 平安 平安 平安)
続いてマハーラージの講話が始まりました。
5年前、私はこの場所で皆さんにお話しをする機会に恵まれました。今日このようにお話しができるのも、善通寺の皆様のご協力のおかげです。ありがとうございます。特に菅智潤(すがちじゅん)猊下、佐藤浄圭尼僧に心より感謝申し上げます。四国には88ヶ所の霊場がありますが、善通寺は特に弘法大師(仏教の偉大な伝道者)として知られる空海の生誕の地として特別な意味を持っています。私は、弘法大師は日本の宗教分野に大きく貢献したことから、インドのシャンカラーチャーリアと同じ、偉大な存在だと思っています。そして、偶然にも、お二人は同じ頃に生誕なさいました。
私は最近、日本人が昔インドを「天竺(てんじく)」と呼んでいたことを知りました。この二つの漢字の意味をご存知ですか?「天」は「天国」を意味し、「竺」は「最高」を意味します。ヒマラヤやリシケシ、ベルル・マト、ブッダガヤなどを訪れると、なぜインドが「最高の天国」なのかが分かるでしょう。ブッダガヤを訪れると、日本、タイ、中国、チベットなど、各仏教宗派の寺院が建てられ、お釈迦様が悟りを開いた場所に建てられたマハーボディ寺院では、今も、仏教の僧侶とヒンドゥ教の僧侶が代わるがわる儀式的礼拝を行っていますが、それはインドにおける宗教の調和を示すものです。
インドではお釈迦様をアヴァターラ、つまり神の化身とみなしています。私たちは、お釈迦様の生誕、成道、入滅の日をインド太陰暦の最初の月の満月の日「ヴェーサカ・デー」[※ヴァイシャーカ月の満月の日、5~6月頃]として祝います。それだけでなく、このお祝いは、インドのベルル・マト[※ラーマクリシュナ僧団本部]やラーマクリシュナ・ミッションのその他のセンター、世界中のヴェーダーンタ協会など、ヒンドゥ教の寺院や組織でも行われます。
私たちの理解では、お釈迦様が降誕された時代、ヒンドゥ教徒は神々を喜ばせるために動物の犠牲を命じるヴェーダの儀式を過度に重視していました。そこでお釈迦様はこのような逸脱から人々を本当の宗教、すなわち真我の悟りへ戻すことを目的として降誕なさったのです。ですので、お釈迦様の教えは非常に体系的で、実践的で、論理的なのです。お釈迦様は「私たちの問題は『苦しみ』である。どうすれば『苦しみ』を取り除くことができるか?-宇宙論やその他の二次的な問いは後回しでよい」と言いました。
しかし、このことはヒンドゥ教では何も新しいことではありません。お釈迦様ご自身もヒンドゥ教徒であり、ウパニシャドとヴェーダの哲学的伝統の中で育ちました。古代の智慧からヒンドゥ教の聖典は、この世には苦しみが多く喜びはほとんどない、ということを強調してきました。それにもかかわらず、私たちはこの世に対し、愛着あるものに対し、渇愛し続けています。このことをサンスクリット語で「トゥリシュナーTṛṣṇā」、お釈迦様の話し言葉であるパーリ語で「タンハーTaṇhā」と言います。その意味は、この世、欲望、楽しみに対する「渇望(渇き)」「愛着」です。
その中心には、あらゆる自分の時間、エネルギー、お金をほかの誰にでもなく家族のためだけに捧げればとても幸せになるだろう、という誤解があります。しかし、真実はまったく逆です。家族と少数の友人の輪だけのことを考えると、私たちは不親切で、利己的で、執着が強くなり、最終的には失望して欲求不満になります。家族を愛することはとても良いことですが、世界全体も愛するべきなのです。
他者への愛と慈悲を広げるために、お釈迦様はお金を使わずにできる無財の七施(しちせ)を説きました。
1. 一つ目は「身施(しんせ)」。これは、自分の労働による奉仕です。この奉仕の最高の形は、自分の命を捧げること(捨身行)です。
2. 二つ目は「心施(しんせ)」。これは、他者に慈悲の心を向けることです。
3. 三つ目は「眼施(げんせ)」。これは、他者に優しいまなざしを向け、人びとの心を和やかにします。
4. 四つ目は「和顔施(わげんせ)」。柔和な笑顔を絶やさないことです。
5. 五つ目は「言施(ごんせ)」。思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることです。
6. 六つ目は「床座施(しょうざせ)」。自分の席を他者に譲ることです。
7. 七つ目は「房舎施(ぼうしゃせ)」。我が家を一夜の宿に貸すことです。
もうひとつ付け加えるとすれば、「毎日、すべての人の幸福を祈ること」です。これらの実践は、私たちのエゴや愛着を減らし、心を浄化し、分かち合うことの喜びを経験するなど、素晴らしい結果をもたらします。同様に、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは「神は無私である」と言いました。つまり、他人のことを考え、他人のために生きれば生きるほど 、私たちは神に近づくのです。
お釈迦様も、体と心の幸福を得るための最良の方法は、家族だけでなく、すべての人々の幸福を考え、そのために努力することであると言っています。しかし、私たちはこれらの考えを実践しなければなりません。護摩行(サンスクリット語でホーマ)が定期的に行われることはご存じですね。その背後にある意味は、定期的に実践することで、これらの教えを心に留めることができ、最終的には、純粋さ、無我、至福という結果がもたらされる、ということです。無私を実践しなければ、ストレス、悲しみ、苦しみは死ぬまで私たちにつきまとうでしょう。
この講演を終えるにあたり、すべての人の幸福を願うヴェーダの祈りを、全員で唱えましょう。
サルヴェー バヴァントゥ スキナハ(すべての人が、幸せになりますように)
サルヴェー サントゥー ニラーマヤハ(すべての人が、元気でありますように)
サルヴェー バッドラーニ パッシャントゥ マーカスチードゥッカバーグバヴェット(すべての人が、良いものを見ますように、すべての人が、苦しむことがありませんように)
オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ (オーム 平安 平安 平安)
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忘れられない物語
「グル・バクティ」
昔、よくサットサンガの集いに出かける良い霊的印象の男がいた。彼は集いで、グルの恩寵は神を悟るためには不可欠であることを聞いた。彼は、指示を受け、サーダナを実践するために、グルを探し始めた。彼は多くのサドゥに出会ったが、その全員に何かしら欠点を見つけた。彼は、ゆがんだ知性と、心の狭いあら探しをする性質を持っていたので、グルを見つけることができずにいた。知性と学識に対する自らのプライドを打ち砕き、強い信仰を持つ子どものようにならない限り、人はふさわしいグルを見つけることはできない。
ある日、男が自宅で悲痛な気持ちで座っていると、妻が嘆き悲しんでいる理由を尋ねてきた。彼が「神への道を示してくださるグルが見つからないのだ」と答えると、妻は「夜に一緒に森に入って道端に座り、そこをたまたま通った最初の人物をグルにするのはどうでしょう」と提案した。
次の日、二人は森に入って小道の脇に座った。ちょうどそのとき、盗んだ装飾品を抱かえた泥棒が急ぎ足でやってきた。夫婦は直ちに泥棒の足につかまり、彼をグルと仰いだ。夫婦は泥棒にグル・マントラを授けるように懇願した。
泥棒は突然のことにたいそう驚いた。夫婦は泥棒に、ことのいきさつを説明した。泥棒は夫婦の信仰に感動し、自分が泥棒であるという真実を打ち明けた。それでも夫婦は泥棒にグル・マントラを授けてください、という。泥棒はこれ以上グズグズしていたら捕まってしまうと不安になった。どうにかして逃げ出すために、夫婦に「しゃがんで目を閉じ、耳を押さえてください」「私が立ち上がるように再び命じるまでその姿勢でいてください」と言った。夫婦は彼に従い、その姿勢をとった。夫婦はその夜中も翌日もずっとその姿勢を保ち、食べ物も水もとらなかった。その間に泥棒は捕まり、牢屋に入れられてしまった。
ヴィシュヌ神と[その妻]ラクシュミ女神は彼らの信仰に非常に感動した。ラクシュミ女神は落ち着かなくなり「どうかあの夫婦にダルシャンを与えてください」とヴィシュヌ神に祈った。そこでヴィシュヌ神は夫婦の前に姿をあらわした。
夫婦はヴィシュヌ神を見て喜んだが、目は開けなかった。ヴィシュヌ神は夫婦に立ち上がるように言ったが、夫婦は「グルの許可がなくては立ち上がりません」と答えた。
そこでヴィシュヌ神は、その国の統治者の夢の中にあらわれ「かの泥棒を牢屋から釈放せよ」と伝えた。ラージャ(統治者)は夢が偽りではないかと思ったが、同じ夢が三度繰り返されると、すぐにその泥棒を釈放した。次にヴィシュヌ神は泥棒の夢の中にあらわれ「お前が命じたとおりに、あの夫婦はまだあの場にいる。二人に目を開けるように頼みなさい」と告げた。
泥棒は釈放されるとすぐに森へ向かい、夫婦に目を開けて立ち上がるように言った。夫婦は言われた通りにして、それからヴィシュヌ神がいかにして夫婦にダルシャンを与えてくださったかを説明した。泥棒も自分の夢と釈放のことを夫婦に話した。
天から声が聞こえた。「お前たちがグルに抱いている強い信仰がとても嬉しい。定期的にバジャン、ジャパ、瞑想をしなさい。そうすれば、私はお前たちにダルシャンを与え、生と死の輪廻から解放する」
その日から、泥棒も盗みをやめ、ヴィシュヌ神の信者になった。夫婦は定期的にサーダナとバジャンを始め、生きている間に解放された魂となった。
グルへの信仰と服従によって、いかなることも達成できる。グル・バクティは、最高に浄化し、啓蒙してくれるものだ。求道者の人生を祝福し、実り豊かなものにするのは、グルへの信仰だけである。
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今月の思想
「『私の大いなる願いは、あなたの恵み深い叡智を実際に体験することです。どうか私の願いをかなえてください』と私は熱心に懇願しました。するとシュリー・ラマナは優しくこうおっしゃいました。『私の目の前にある体が、私の恩寵を得たいと願っているのですか? それとも体の中の意識でしょうか? もしそれが意識なら、意識は今、自分を体とみなし、この願いをしているのではありませんか? そうであれば、まず意識に、その本性を知らせなさい。そうすれば、意識は自動的に神と私の恩寵を知るでしょう。この真実は、今ここでも理解できます』」
…ラマナ・マハルシ マガジンより
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