今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

20225月 第20巻 第5

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かく語りき――聖人の言葉

 

神以外の動機を持つな。あえて地獄を通ってでも真理にたどり着くのだ。

…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

 

神の御名という種を知り、自分のハートに蒔く人々は、死と誕生の繰り返しから解放され、苦痛なく永遠なる救いを得る。

…グル・ナーナク

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

20226月、7月の生誕日

20225月逗子例会

・忘れられない物語

・今月の思想

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お知らせ

コロナ禍はずいぶんと落ち着いてきましたが、混雑を避けるため、プログラムへの参加を希望される方はご連絡ください。

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20226月、7月の生誕日

 

ヴィッシュダ・シッダーンタ(Vishuddha Siddhanta)暦では、20226月に生誕日はありません。

 

7月の生誕日

スワーミー・ラーマクリシュナーナンダ    726日(火)

 

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

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20225月逗子月例会  

お釈迦様の生誕祝賀会

2022515日(日) 逗子本館にて

 

プログラム

1400 マントラ詠唱 ヴェーダ・マントラ、般若心経、三帰依 輪読:お釈迦様の教え

講義:「お釈迦様の三つの智慧」

香川県善通寺尼僧 佐藤浄圭さん

通訳:レオナルド・アルヴァレスさん

1530 スワーミー・メーダサーナンダジーの訪印についての話とスライドショー

1630 ティータイム

1830 夕拝

 

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5月例会

お釈迦様生誕祝賀会

「お釈迦様の三つの智慧」

善通寺尼僧 佐藤浄圭

 

【スワーミー・メーダサーナンダによる解説:

お釈迦様の生誕日、悟りを開かれた日、そしてお亡くなりになった日はいずれもインド暦ヴァイシャーカ月の第一満月という神聖な日でした。お釈迦様がインド哲学の創始者で最初に皆さんに教えた、と誤解している人がいるようですが、それは間違いです。ヒンドゥ教の哲学はそれよりずっと前から広まっており、お釈迦様はそれをすごく勉強なさいました。またお釈迦様は自分もいろいろアイデアを作られ、それまでにあった哲学をシステム的になさいました。また、お釈迦様の心はとても慈悲深かったです。ヒンドゥ教徒はお釈迦様も神様の化身のおひとりであると考えてとても尊敬しています。

四国の善通寺は弘法大師のお生まれになった場所でとても有名なお寺です。そのお寺の尼僧・佐藤浄圭さんが今日はお話をしてくださいます。】

 

皆様こんにちは。四国の香川県から参りました佐藤浄圭と申します。どうぞよろしくお願いします。

昨年の12月に大阪でメーダサーナンダジーの「霊的な生活を身につける方法」についてのお話を聞く機会があったのですが、その内容は仏教ともかなり共通していました。日本に住んでいる方は、お寺や仏教とのご縁も深く生活に根付いていると思いますので、本日は仏教の面からも真理の教えをお伝えするべく、お釈迦様の教えの基礎的な土台となる三つのポイントについてお話したいと思います。

 

お釈迦様

 

お釈迦様は約2500年前に釈迦族の王子として現在のネパールでお生まれになりました。その時に、お釈迦様の素晴らしい人相を見た仙人が予言しました、「この子は城に残れば武力ではなく徳をもって国を治める素晴らしい王様になるだろう。もし城を出て出家したならば、仏陀、たくさんの人々を救う目覚めた方になるだろう」。

それを聞いた国王は、王子には素晴らしい王様になってもらいたかったので、大切に育てました。出家せず城に残ってほしかったので、苦しみを感じさせないように季節ごとの宮殿を作り、暑い時には花のきれいなこちらの涼しい宮殿に移り、寒い時には暖かい宮殿へ移り、と、本当に心を尽くしました。しかし、お釈迦様はどんなに宮殿の中では何不自由ない暮らしをしていても、町の外の人びとの暮らしをみて、苦しみがあるということを知りました。また修行者の姿も見ました。そして「どんな人間でも病気になったり、年老いて変化していく。また生まれたからには必ず死ぬ」ということについて、考えるようになりました。さらに心の中に、修行者のように真理を追究したい、という気持ちが高まり、やがて結婚して後継者である息子が生まれると、夜中に城を出て念願かなって出家したのです。

城を出たお釈迦様は修行をして心の境地を高めるために先生を探しに行きました。そしてまずはアーラーラ・カーラーマ、次にウッダカ・ラーマプッタという先生のもとで修業しました。当然のことながら、お釈迦様が仏陀(目覚めた人)となるずっと前から修行者はいて、高い境地に達している方もたくさんいました。これらの聖者は過去七仏といわれ、長い長い歴史の中で、ゴータマ・シッダールタという仏陀の前に、六人悟った方がいて七番目がお釈迦様である、もしくはもっと、目覚めた方は二十四人いた、という信仰があります。これは実際の遺跡に菩提樹の下で七人の仏陀が瞑想しているレリーフとして残っています。七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)という、いろんな世界、いろんな時代で仏陀となった方々の共通した教えがあります。その教えはものすごくシンプルで、「悪をなさず、良いことをする、自分の心を清らかにする」などです。

 

苦しみ

 

先ほど唱えた般若心経も、苦しみとは何なのか、という追及から始まります。苦しみは、人によっても違うし、苦しみ自体が変化するものです。このことから、「苦しみは外からやって来るのではなく自分の心で感じるもの」「苦しみは自分のものの捉え方、価値観、認識が作っている」ということが分かります。そうであれば、自分を見つめるということが必要不可欠になりますね。「自分の心を見つめてコントロールする」そして「集中力を高めて目をそらさずに、ひたすら訓練する」のです。そして「これは、避けられない苦しみに対してもっとも自分を強く育てる方法だ」と信じて修行していきます。その結果で自分の心が清らかになれば、偏見や偏りなくものごとが見えてきます。その心は「鏡のような智慧」と仏教でたとえられます。「不動心」という言葉もありますね。心の中に泉があると想像してください。風が吹いたり心が騒いでいると、水面が波立ちます。 しかし、呼吸も穏やかで、自分がイライラしたり悲しんだりしていないときは、水面がピタッと止まって鏡のようになります。そうなったときにはっきりと周りの風景すべてが見渡せる、これがひとつ、不動心の心です。心が動じない。その真実の姿を正しくありのままにうつしだす智慧は 「大円鏡智(だいえんきょうち)」、つまり「大きな丸い鏡のような智慧」 と言われています。本当に自分を確認して整えたければ、こういったさまざまな智慧や、ものの考え方、教えを、自分を調べるために、毎日必ず鏡を見るように繰り返し、繰り返し瞑想修行をすることは必要なことです。

 

【聞思修(もんししゅう)】(三慧)

 

メーダサーナンダジーが昨年「霊的な生活を身につける方法」についてお話された際に、「今まで聞いてきた教えを『聞く』『学ぶ』『覚えて何度も考えて気づく』という実践を通して身につけてください」とお話しされました。仏教では同じことを「聞思修(もんししゅう)」と言います。つまり「聞く」「思う」「修める」の実践をすることです。

「聞(もん)」は、「聞く」こと。これはすべてのスタート地点で、大変な恩寵、功徳があります。さまざまな正しい教えを聞く機会を得たならば、識別できるようになり、いろいろ自分で考えることもできる。教えを聞くことで得た智慧は、泥棒にも盗めない最高の財産で、死んだ後にも失われることがない、と言われます。ですから物質的なものを大切にするよりも、教えを聞くことで心の中に生まれた理解や智慧を大切にした方が良いのです。

「思(し)」は、ただ思うというよりは、 繰り返し何度も考える、認識する」という意味です。聞いた教えを自分ができているかどうか、今の自分にとってどういう教えだったのか、これを心に変化が出るまで繰り返し、繰り返し瞑想して自分に向き合う。そこまでを含めて「思(し)」という漢字一字にあらわされています。

「修(しゅう)」は 聞き、考え、瞑想したことによって生じた智慧や理解を心に定着させる、つまり身につけるために実践することです。 例えば、 悪口を言わない、困っている人を助ける、生き物を大切にする、生活を正しくする、ということを実行し、それらを習慣にするのです。習慣になれば、その教えが自分の一部になるということですから、知識として理解するのではなく、当たり前に実践できるようになりますね。それが、教えを身につけた、教えに沿った心に自分がなった、ということです。

 

苦しみを終わらせるための苦しみ

 

苦しみには大きく分けて二種類の苦しみがあります。一つは、「より多くの苦をもたらす苦しみ」。もう一つは、「苦しみを終わらせるための苦しみ」です。後者は苦しみを永久に終わらせるためには絶対に向き合わなければならない苦しみで、それをしない限り苦しみはなくなりません。例えば、ギャンブルが好きな人がギャンブルで楽しいのは一時的なことで、その後には金銭問題などの苦しみが生じます。しかしその人にとってはギャンブルをやめることも苦しいことです つまりギャンブルをすることもやめることもどちらも苦しいのですが、どちらかを選ばなければなりません。もしギャンブルをやめるという「苦しみを終わらせるための苦しみ」を選択したならば、それは生活を変える力を持っています 良薬は口に苦し、です。

 

【戒定慧(かいじょうえ)】(三学)

 

次に、「聞思修(もんししゅう)」と組み合わせて、「戒定慧(かいじょうえ)」(戒律・禅定・智慧)という言葉があります。

お遍路さんはお経の最初に「十善戒(じゅうぜんかい)」を唱えます。その内容は「生きものを殺さない」「盗まない」「嘘をつかない」「怒らない」「偏見・こだわりを持って見ない」など、 身体と言葉と心にまつわることです。出家も在家も関係なくこれを意識して自分の生活を直していきます。そうすると、心の悪い部分や問題から目を背けずに落ち着いて取り組む集中力がついていきます。その禅定ができるようになると、今まで聞いた教えが自然と身について理解されて智慧になります。この自然なシステムを三学「戒定慧」と言うのです。

「戒」とは 戒律を守ること、 自分を戒めることです。 戒律を守るというと厳しいイメージを持つかもしれませんが、すべての土台でありスタート地点なので、心や社会の調和、自分のために大事なことです。戒律は瞑想の土台にもなるのでもう少し詳しくお話します。不摂生な生活や不規則な生活は、瞑想を育む土台としては少し難しいです。ですので寝る時間や起きる時間、食事の時間は規則正しくしましょう。また、思いやりを心がけてください。好き嫌いで物事を判断したり、気分次第で行動をするのではなくて、常に調和を心がける。そういう教えが自分に身についていくと内面のバランスが整います。本当はこの心の問題が一番難しいですね。

仏教の修行でも「懺悔」というのはとても大切です。自分を反省して直す、という気がないのでは、進めないからです。自分をよりよくするために 自らを反省して悪かったところを懺悔して直す、という決意も「戒」に含まれます。

「定」は 心が安定することを意味します。禅定(ぜんじょう)や、メディテーション、サマーディに近いですが、集中力をもって安定した状態、その境地にいることです。

「慧」は「智慧」で恩寵です。

これらは悟りを目指すのに必要なステップです。

 

ここで心について、面白い体験を聞いたのでシェアさせてください。あるサットサンガで大きな鍋で豆腐を作るのにぐつぐつ煮えた鍋をかき回す、という熱くて大変な仕事を五人くらいが交代でしていたことがありました。あまりに大変な仕事なので、二人が途中で来なくなったんです。それで残りの人でしなくてはならなくて、これは大変だということになりました。そして辛い仕事だからと逃げた人たちに、ちょっと怒っていました。しかしある修行者は、 まったく気になりません。「来ないのには何か理由があるのかも。肝心なのはその時に自分の心の調和が乱れないこと。来ようが来まいが、やるべきことをやるし、来なかった人に怒りの気持ちを必要以上に持たない」と言いました。自分の心の調和を乱さず保ちながら集団で一緒に修行する。そこまでできてこそ戒律を保つ、という教えを実行している、ということになるのかな、と思いますね。世俗の生活、さまざまな仕事をしていると、実際に教えを実行するのは難しいかもしれませんが、大事なことは、自分のできることをする、ということです。そして、相手のことは神様仏様にお任せしするのです。そういった安心を得ながら、ルールと一緒に智慧を実行していく、ということを思い出していくと、実際に自分のために智慧が使われている、ということになりますね。生活が安定する、自分の心のパターンが安定すると、スムーズに瞑想に入っていけます。しかし、後ろめたさ、迷い、良心の呵責など、自分の心の乱れがあると深い禅定に入っていくのは難しい、ということを理解して実践する、ということが大切です。

 

お釈迦様の弟子に、サーリプッタ(舎利弗)という方がおられます。その方はお釈迦様の十大弟子の一人で、集団生活をしていても深い瞑想状態に入っている方でした。これからその方の智慧のあらわれについてお話します。

サーリプッタ尊者は素晴らしく知識がある方で、とても性格が良く、誰よりも謙虚でまったく目立たない方でした。ある時、仏教徒ではない人が、そんなに素晴らしい性格の人でもいきなり殴られたら怒るだろうと思い、サーリプッタ尊者を後ろからすごい勢いで殴ったんですね。殴って反応を見たら、サーリプッタ尊者はそのままゆっくり歩いて行きました。あれ?と思って後ろからついていっても、それも気にしていない。殴った方は、この人は本当に殴られても気にならないということが分かり、大変なことをしてしまったと思って、「大変申し訳ないことをしました。私を許してください」と言ったんですけれど、サーリプッタ尊者は「なんでしょうか? 何をしたのですか?」と言いました。つまり、誰かに殴られた、とは考えず、痛いということも問題にしていなかったのです。なぜかというと、サーリプッタ尊者は、「一瞬一瞬の無常に完全に気づいている」という深い瞑想状態だったからです。 一瞬一瞬の無常に気づく、ということは、全てのものは変化し続けている、だから自分も実体は特にない、ということを理解し「私」という執着やこだわりがないことです。殴られたとしても、誰が殴ったとか、憎しみも怒りも沸かず、痛みは痛みとしてのみとらえる。何かが何かにぶつかった。それくらいの深い瞑想状態です。ちなみにサーリプッタ尊者を殴った人はお釈迦様の教えに帰依して仏教徒になった、という話が残っています。「聞思修」を重ねて、「戒定慧」の生活の中で「私」というこだわりを持たない境地に達したサーリプッタ尊者は、一つの智慧をありのままに生きているお姿だと思います。

 

呼吸を使って身につける

 

瞑想は、まず姿勢を正して呼吸を整える、というのがとても大事です。そして呼吸にこういった信仰の気持ちを結びつける、というのもよい方法だと思います。呼吸を意識するだけでも効果的です。 吸って吐いて、吸って吐いて、と息を吸うときに、「素晴らしいものを自分の身体の中に取り入れている」と深いところでイメージします。私たちは毎日太陽や地球のエネルギーの恵みを受けているし、どんなに腹が立っているときもずっと呼吸していますね。私たちは宇宙、世界とつながっている、大きなパワーとつながっています。ですから、「息を吸うときに力をもらう、吐き出すときに自分の中の要らないものを吐き出す」とイメージするのはとても良いのです。「昔々に傷ついた悲しい心」や「誰かに話せないもやもや」などを絶対に吐き出しきり、清らかな心で息を吸います。自分の心や身体が弱っているときにこのイメージを繰り返すことは、シンプルですけれど効果的です。

 

自分の心が落ち着いたときにはまた次の瞑想方法があります。 慈悲の瞑想です。今度は息を吸うときに「さまざまな苦しみを自分が吸い取ってあげたい」という気持ちを持ちます。そして吐き出すときに、「自分の行動が巡り巡って生きとし生けるものの助けになりますように」とイメージして吐き出します。私たちは寝ている間も息をしているので、このようにイメージすることは大切です。慈悲の心の準備ができている、ということにもなります。好きとか嫌いとか、苦手とか、状況や人間関係や仕事の内容によって、問題が出てくることはあると思いますが、それを切り替えるスイッチにもなると思います。呼吸を使って自分に身につける、というのも一つの訓練ですね。

 

慈悲

 

慈悲についてお話します。例えば、自分の足にとげが刺さったら、自分の手で抜きますね。手は痛くないが足の痛みの原因であるとげを抜くために手を使う。自分とすべての命を、この手と足の関係と同じように考えて、「私は痛くないけれど、取れる苦しみを取ってあげたい」という気持ちを持ちます。 これは大きな布施の心ともいえます。そのような慈悲の心を自然に身につけるために、繰り返し、繰り返しさまざまな教えや瞑想で実践していく、ということが大切です。

 

苦集滅道

 

般若心経に説かれている四つの漢字でも、お釈迦様の教えをわかりやすく伝えています。「苦集滅道」という言葉がありますが、これは四聖諦、真理の教えのひとつです。その意味はすごくシンプルで 「苦しみ(自分の思い通りにならないこと)がある。その苦しみは原因や条件が集まって生じている。その苦しみは滅ぼすことができる。そのための道、方法がある」という教えです。

お釈迦様は瞑想修行や身体の苦行で得た真理として、「自分の苦しみはさまざまな原因が集まって生じている。その真理を知れば、 自分の心を変える、生活を変えるなどの実践によって、苦しみの原因や条件を滅ぼすことができる」と弟子に説いたのです。本当にヴェーダーンタ協会で日々学んでいる教えと共通することが多いですね。

 

【仏法僧】(三宝)

 

最後に「仏法僧」についてお話します。今日お話を始める前に、

ブッダン サラナン ガッチャーミー (仏に帰依します)

ダンマン サラナン ガッチャーミー (法に帰依します

サンガン サラナン ガッチャーミー(僧に帰依します)

という三帰依をお唱えしました。「仏法僧」 (三宝)は、仏教において基本的で重要な三つの要素です。 「真理に目覚めた方(仏)」「目覚めた方が説いた教え(法)」「それを体現して実行している集団(僧)」という三つの宝に帰依する、信頼して委ねるのです。帰依するとは、本当に全てを捧げること、教えを聞いて素直に実行する、ということです。本当に人として生まれたことは素晴らしい。さらに目覚めた方やその真理の教えに出会うことも素晴らしい。そして共に教えを信じ、実行しようとする仲間がいる、ということも素晴らしい。これは本当に三つの宝であって、お経を読むときとか、お遍路さんも一番最初に 「帰依仏、帰依法、帰依僧」とお唱えします。

 

私たちは今生を人間として生まれてきました。考えてみれば人間よりも虫やプランクトンやアリの命の数の方が比較にならないくらい多いにもかかわらず、人間に生まれることができ、この素晴らしい環境に置かれているのならば、すごく宝に恵まれている、という状況にあります(有暇具足)。ここの皆さんは、もう三つの宝を手にしているので、あとは教えを本当に実践するだけですね! 

私たちが病気になったとき、どんなにありがたい薬をいただいても飲まなければ治らない。自分で薬を飲み込んで変化を起こさないといけません。真理の教えについても同じです。「聞思修」を繰り返し、繰り返しやって、この繰り返しの生活の中で自分の「戒定慧」を見直していく。その環境として皆さん三つの宝「仏法僧」に出会うという条件がそろっているかもしれません。ですので、「聞思修」「戒定慧」の三学を実践して、必ず変化をさせて、自分自身が教えに沿った心になって、智慧そのものと一体となっていってください。そのためにお釈迦様の教えを実行していただきたいと思います。お釈迦様は、悟りを得て、そこからインド諸国をずっと布教して80歳まで教えを説き続けられました。お弟子さんにも素晴らしい方がたくさんおられます。「ブッダをめぐる人びと」という漫画などでもわかりやすく描かれているので、どうぞ親しみをもって皆さまもお釈迦様の教えとともにあっていただけたらと思います。

本日はどうもありがとうございました。

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忘れられない物語—

 

「蒔いた種は刈らねばならぬ」

 

 ある日お釈迦様が瞑想をしていると、非常に取り乱した若者がやってきた。お釈迦様が「どうしてそんなに取り乱しているのですか?」と尋ねると、若者は「父が亡くなり、その悲しみが収まりません。私は父が生前どんな善悪をしたにせよ、父の魂が天国に行けるように、最高の死後の儀式をしたいのです」「どうか父のために死後の儀式をしてください。そうすれば父の魂は天国に入ってそこで暮らすことができるでしょうから」と言った。

 

お釈迦様はおっしゃった。「分かりました。では土でできたつぼを二つと、つぼをいっぱいにするだけの小石とバターを持ってきてください」

 

若者はこれらのものが最後の儀式のための品だと信じて市場に行きそれらを買った。

 

お釈迦様はおっしゃった。「一つのつぼを小石でいっぱいにしてください。もう一つのつぼはバターで満たし、それを密封してください。それからつぼを近くの池に持って行って、どちらも池に落としてください」

 

 若者が言われた通りにすると、つぼは二つとも池の底に沈んだ。

 

 それからお釈迦様はおっしゃった。「今度は両方のつぼを壊して、棒で開けてください!」

 

若者は棒を激しく打ち付けて両方のつぼを壊すと、片方のつぼから出たバターは池の表面に浮かび、もう片方のつぼの中にあった小石は池の底に沈んだ。

 

お釈迦様はおっしゃった。「さて、やることはやりました。さあ、僧侶を全員呼んで、バターが池に沈み小石が表面に浮かび上がるように祈ってください、とお願いしなさい!」

 

若者はショックを受けて尋ねた。「そんなことはできません! 小石は水よりも重いので池の底に沈んだままでしょうし、バターは水よりも軽いので浮かび続けるでしょう。それの反対は自然の法則に反しています」

 

お釈迦様はおっしゃった。「若者よ、お前はよく自然の法則が分かっているではないか。しかしそれがすべての人々にも当てはまるということを忘れているようだ。君のお父さんが生前した悪い行いは、小石と同じで必ず沈む。そして誰も彼を救い上げることはできない。生前行った良い行いはバターと同じで上昇するが、誰も彼を引きずり下ろすことはできないのだよ」

 

今や若者は自然の法則を理解し、お釈迦様が自然の法則を教えてくださったことに感謝し、お釈迦様の御足にひれ伏した。

 

道徳の物語

自然の法則は、人生において、良いことであれ悪いことであれ、私たちが何をしようと、それは自分に返って来るということを明確に定義しています、それがカルマの法則です。どんな外からの力もそれを変えることはできません。私たちが生きている間、良いことだけを日々の生活の中でしなければならないのです。蒔いた種は刈らねばなりません。

 

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今月の思想

 

不放逸を楽しみなさい。

自分の心を守りなさい。

…お釈迦様 (法句経 23.327

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