今月のニュースレター

 

<PDF版>

PDF版(写真入り)は☞こちら

 

ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

2025年5月 第23 巻 第5号

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

かく語りき

 

憎しみの中にあっても、喜びと愛をもって生きなさい。

苦しんでいる人の中でも、喜びと健康に生きなさい。

困難の中にあっても、喜びと平安のうちに生きなさい。

輝く人のように、何も所持せず、喜びにいきなさい。

…お釈迦様

 

彼は確かに、史上最も偉大な人物であった。彼は自分のために休息することなどなかった。何よりも礼拝を強要しなかった。彼は言った。「仏陀とは人ではなく、状態である。私は扉を見つけた。皆、入ってきなさい!」

…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

 

心の平静さを養いなさい。あなたは常に賞賛や非難を受けるだろうが、どちらにも心の落ち着きを崩されてはいけません。静けさ、高慢でないことを追求しなさい。

…お釈迦様

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

・2025年7月の生誕日

・「ギーターにおけるトリグナのメッセージ」 (パート3)

スワーミー・メーダサーナンダ

・「シュリー・ラーマクリシュナについての話」 

スワーミー・メーダサーナンダ

・「われらの住家に帰ろうではないか!」

スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ

・バガヴァッド・ギーター勉強会のノート

・忘れられない物語

・今月の思想

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

お知らせ

・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

2025年7月生誕日 

スワーミー・ラーマクリシュナーナンダ    7月22日(火)

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

2024年夏季リトリート 善通寺

「ギーターにおけるトリグナのメッセージ」 (パート3)

スワーミー・メーダサーナンダ

 

それでは、ギーターの中で最も重要な節をいくつか見てみましょう 。これらを読み、自分のものにすることで、私たちは完全に変容するでしょう。まず、第6章「瞑想のヨーガ」(ディヤーナ・ヨーガ)から2つの節です。

 

第6章第5節

ウッダレード アートマナートマーナン ナートマーナン アヴァサーダイェート/

アートマイヴァ ヒ アートマノ ― バンドゥル アートマイヴァ リプル アートマナハ // 

 

人は自分の心で自分を向上させ、決して下落させてはいけない。

何故なら、心は自分にとっての親友でもあり、かつまた同時に仇敵でもあるからだ。

 

第6章第6節

バンドゥル アートマートマナス タッシヤ イェーナートマイヴァートマナー ジタハ/ 

アナートマナス トゥ シャットルットヴェー ヴァルテータートマイヴァ シャットルヴァト//

 

自我心を克服した人にとって、心は最良の友であるが、

それが克服できない人にとっては、心こそ最大の敵となる。

 

心は最良の友であると同時に、最悪の敵でもあります。心は影のように私たちを追いかけるので、逃れる術はありません。ですので、私たちはそれをコントロールすることを学ぶしかないのです。聖典は最良の友です。なぜなら、聖典は私たちが自分の状態に気づくのを助けてくれるからです。賢者は次のように言って、聖典を称賛します。聖典は私たちの真の母です、なぜなら、この世の母は、この世での私たちの幸福だけを考えますが、ホーリー・マザーのような理想的な母は、私たちのすべての人生での、霊的な幸福を常に考えてくださるからです。

 

同じ章にさらに二つの節があります。

 

第6章第34節

チャンチャラン ヒ マナハ クリシュナ プラマーティ バラヴァッド ドリダム /

タッシヤーハン ニッグラハン マンニェー ヴァーヨール イヴァ スドゥシュカラム // 

 

おお、クリシュナ様!私の心は絶えず揺れ動き、すぐ荒れ狂い、力強く、そして実に頑迷です。ですから、私にとってこれを制御することは、風を意のままに支配する以上に難しいのです。

 

第6章第35節

シュリー・バガヴァーン ウヴァーチャ:

アサンシャヤン マハー・バーホー マノー ドゥルニッグラハン チャラム/

アッビヤーセーナ トゥ カウンテーヤ ヴァイラッギェーナ チャ クリヒャテー // 

 

至高者が語られます。『大いなる勇者よ! 確かに絶えず動く心を制御するのは難しい。

だが、クンティー妃の息子(アルジュナ)よ! 不断の修練と離欲によってそれが可能となるのだ』

 

心は風のように、あるいはそれ以上に制御が難しいものですが、クリシュナは私たちに、無執着(ヴァイラーギヤ)と霊的実践(アビヤーサ)を通して、馬を調教するように、最終的には心を「調教」し、制御下に置くことができると説いています。ここでのヴァイラーギヤとは、神や永遠なる真理を除いて、他のすべては一時的なものであると知ることです。私たちは非実在から実在へと向かわなければなりません。この事実を理解したら、それを何度も何度も心に繰り返し唱え続けなければなりません。そして、継続的で厳しい実践を意味するアビヤーサを始めてください。

 

さまざまな宗教が楽園からの堕落について語っていますが、それは一体何を意味するのでしょうか?それは、道徳的で純粋な霊的状態から、不道徳で不純な世俗的な状態への堕落を意味します。今日の世界では、誘惑が溢れているため、状況はさらに悪化しています。それらを克服するのは非常に困難ですが、最高の目標は私たちに最高の褒美、つまり絶対的な至福を与えてくれます。

 

ですから、悪い習慣、世俗的な人々、有害な環境、そして私たちの霊的進化を妨げるあらゆる否定的なものを手放しましょう。否定的な習慣を、瞑想、神の御名(ジャパ)の復唱、神への祈り、常に神を覚えておくこと、自己分析、自分を制する実践、といった肯定的な習慣に置き換えるべきです。

 

これらの修行を積まなければ、私たちの人生は完全にゼロになってしまいます。世俗的な楽しみと最高の悟りを両立させることはできません。私たちの多くがその両方を組み合わせたいと思っていますが、現実には、どちらか一方の道を選ばなければなりません。自分自身を欺くことはできても、神を欺くことはできません。そうすると、私たちの多くは、頭は地面に隠しているが、体は捕食者に無防備なままになっている野ウサギのようになります。私たちは、プレーヤ、すなわち、今は蜜のようだが後に毒となるもの(短期的な満足と長期的な苦しみ)、もしくは、シュレーヤ、すなわち、今は毒のようでも後にアムリタ (不老不死薬)になるもの(霊的な意味での長期的な利益のための短期的な犠牲)のいずれかを選ばなければなりません。霊的成長のために、長い目で見たら有益であるシュレーヤを常に選びましょう。

 

野ウサギのように自分を欺いてはいけません。また、後回しにすることも避けましょう。なぜなら、後になってからでは、正しく実践する機会がなくなるかもしれないからです。「神は、私の唯一の避難所であり、私の唯一の友であり、私の唯一の真の親である。生まれてから死ぬまで、今生でも来世でも」と常に思いましょう。そして、「永遠の友よ、どうか私を見捨てないでください」と神に祈りましょう。

 

それでは、何を避けるべきか、そしてどのように良く生きるべきかについて、他の節を見ていきましょう。第16章「神性と魔性を識別する道」(ダイヴァースラ・サンパッド・ヴィバーガ・ヨーガハ)にあります。

 

第16章第21節

トリ・ヴィダン ナラカッシイェーダン ドヴァラーン ナーシャナム アートマナハ/

カーマハ・クローダス・タター ローバス タスマード エータト トラヤン テャジェート//

 

人間の魂を堕落させてしまう地獄への門が三つあるが、肉欲、怒り、貪欲がそれである。

それ故、正気の人間は、この三つを捨てなければならぬ。

 

この詩節を学び、理解したとしても、実践しなければ、学んだことはすべて無駄になります。この三つの要素のせいで、私たちの潜在能力は発揮されません。ギーターは第6章で、節制を通してこの三つの要素から解放される、つまりヨーガへの道を教えています。

 

第6章第16節

ナーッテャシュナタス トゥ ヨーゴースティ ナ チャイカーンタム アナシュナタハ/

ナ チャーティ・スヴァプナ・シーラッシヤ ジャーグラトー ナイヴァ チャールジュナ //

 

アルジュナよ!ヨーガを行ずるには、多く食べてもいけず、食べなさ過ぎてもいけない。

また眠り過ぎてもいけず、寝不足であってもいけない。

 

第16章第17節

ユクターハーラ・ヴィハーラッシヤ ユクタ ・チェーシュタッシヤ カルマス /

ユクタ・スヴァプナーヴァボーダッシヤ ヨーゴ バヴァティ ドゥフカ・ハー // 

 

適度に食べ、適度の体を動かし、適度に仕事をし、適度に眠り、適度に目覚め、そしてヨーガを実践すれば、苦悩はすべて取り除くことができる。

 

私たちが直面するもう一つの問題は、神を忘れてしまうことです。クリシュナは第8章「不滅の至高者(ブラフマン)に至る道」(アクシャラ・ブラフマ・ヨーガハ)でこう説いています。

 

第8章7節

タスマート サルヴェーシュ カーレーシュ マーム アヌスマラ ユッデャ チャ /

マイ アルピタ・マノー・ブッディル マーム エーヴァイッシヤシ アサンシャヤハ//

 

故に、君はいつも私のことを想いながら戦いなさい。

心も頭も私にしっかと結び付けておきさえすれば、君は疑いなく私の元へと到達する。

 

この詩節の真意は、私たちはパートタイムの霊的求道者であってはならない、つまり、中途半端な気持ちで物事に取り組み、望むなら、いつでもすべての責任を投げ出すような存在であってはならない、ということです。そうではなく、私たちはフルタイムの霊的求道者であり、義務や仕事をしている間、旅行中、入浴中、料理中、洗濯中、起床時や就寝時、水を飲んでいる間なども常に神のことを想うべきです。だからこそ、私たちは昼食と夕食の前に次の言葉を唱えるのです。

 

第4章第24節

ブラフマールパナン ブラフマ ハヴィル ブラフマーグナウ ブラフマーナ フタム /

ブラフマイヴァ テーナ ガンタッヴィヤン  ブラフマ・カルマ サマーディナー // 

 

供養者としての大実在(ブラフマン)が、供物としてのブラフマンを、火としてのブラフマンの中に注ぎ入れる。こうした意識をもって供養する人は、必ずやブラフマンと一体となる。

 

私たちが食べるもの、行うことはすべて、神への犠牲供養として捧げるべきです。一日を通して、特定の機会に神の御名を10回唱えることを忘れないでください。家を出る時10回、職場に着いた時10回、仕事中10回、職場を出る時10回、家に着いた時10回、お風呂に入る時10回、などです。

 

このように、ゆっくりと、こうした小さな断続的な習慣が空白を埋め、ついには一日中、途切れることなく継続的に神を思い出せるようになります。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

2025年3月16日シュリー・ラーマクリシュナ生誕祝賀会 逗子別館

「シュリー・ラーマクリシュナについての話」 

スワーミー・メーダサーナンダ

 

今日はシュリー・ラーマクリシュナについてお話します。シュリー・ラーマクリシュナは無限ですが、無限について話すことは不可能です。なぜなら、私たちの話は条件によって限定されているからです。スワーミー・サーラダーナンダジー・マハーラージはかつてこうおっしゃいました。「シュリー・ラーマクリシュナの弟子の中で、スワーミー・・ヴィヴェーカーナンダは非常に特別で、私たちから何千マイルも離れたところに住んでいたかのようでした。しかし、シュリー・ラーマクリシュナと比較するとき、シュリー・ラーマクリシュナはスワーミージーから何百万マイルも離れたところに住んでおられました」 スワーミージーの悟りは非常に高度なものであり、彼は七聖者の一人であると信じられています。スワーミージーの生涯の終わりに近づいたとき、ある人が彼に尋ねました。「シュリー・ラーマクリシュナについて、あなたはどのように理解しておられますか?」 彼は大きな理解力を持っていたにもかかわらず、自分はまだシュリー・ラーマクリシュナの輪郭のまわりを動いているだけだとコメントしました。「私はまだ、シュリー・ラーマクリシュナの姿をとって実際にあらわれたのが誰なのか理解できない」とスワーミージーはよく言っていました。さて、私たちはシュリー・ラーマクリシュナの人格を理解しようと努めるべきではないでしょうか? 私たち自身の能力に応じて、シュリー・ラーマクリシュナの人格を理解しようと努力しましょう。

 

知識人の中には、シュリー・ラーマクリシュナを信仰心だけで、理論というものはない、として拒絶しようとする人もいます。しかし私は、シュリー・ラーマクリシュナは最も偉大な科学的精神の持ち主だったと信じています。インドでは、土製のドゥルガー女神像やカーリー女神像を礼拝しています。そのような像に神性が宿っているという深い確信を私たちは持っているでしょうか? 私たちの信仰は往々にして非常に表面的で脆弱です。しかし、シュリー・ラーマクリシュナの霊的実践は、「この像はただの石なのか? それとも、像にはカーリー女神が本当に宿っておられるのだろうか?」という問いから始まりました。科学者も同じような疑問から探究が始めるのではないでしょうか? そして、そのような疑問の後には、さらに次のステップに進むための仮説が続くことがあります。12年間の霊的修行の後、シュリー・ラーマクリシュナは、その像は単なる土像ではなく、実際には神聖なる母ご自身が像の中に存在しているという確信に至りました。

 

自らが選んだ神のヴィジョンを得た後、シュリー・ラーマクリシュナは他の宗教や信仰の霊的修行を実践し始めました。彼はイスラーム教も実践なさいましたが、その期間中はバヴァターリニ寺院への参拝をやめ、代わりに近くのモスクを訪れて祈りを捧げました。さらに、イスラーム教は神の無形の側面のみを信じていることから、彼は部屋からすべての神々と女神の絵を取り除きました。シュリー・ラーマクリシュナはまた、バイブルを聞き、主イエスについて瞑想することがお好きでした。彼はイスラーム教とキリスト教両方の実践者が求める最高の悟りに達し、その後、さまざまな宗教の人々が瞑想し祈るのは、唯一かつ同一の神であると結論づけました。ある者は神、ある者はアッラー、ある者はバガヴァーンと言います。しかし、それらはすべて同一の神を指し示しているのです。水のことをベンガル語でジャル、ヒンディ語でパニ、英語でウォーターと言いますが、これらの言葉はすべて同じH₂Oを意味するのと同じです。

 

さて、一つの重要な問題に至ります。平安を得る道とは何でしょうか? 私たちは日々の生活の中で、趣味に没頭したり、娯楽を楽しんだりすることに時間を費やしますが、そこから得られる喜びはごく短命で表面的なものです。しかし、ウパニシャドは「ナンニャ パンタ ヴィディャテー・アヤナヤ(他に道はない)」と言います。人々は恐れ、混乱します。問題は、私たちが日々の生活、物質的な生活にあまりにも集中しすぎて「永遠」を見失っていることです。私たちは時間と空間によって制限のあるもの、永遠ではないものに執着し、集中しています。私たちは皆、自分と家族が永遠に生き続けることを願っています。しかし、突然、自然は私たちの愛する人たちを奪い去ってしまうのです。

 

では、あなた方の生活や家族の世話をしてはいけない、とアドバイスしているのでしょうか? いいえ、そうではありません。 「絶対なるもの」「永遠なるもの」にも焦点を当てるようにアドバイスをしているのです。私たちは「永遠なるもの」と「永遠ではないもの」を調和させるよう努めなければなりません。現代において問題なのは、人々が「永遠ではないもの」にばかり焦点を当てていることです。ですから、家族や職業のために働くことに加え、「永遠なるもの」にも焦点を当てれば、真の平安が得られるでしょう。それは、表面的な平安ではなく、真の平安です。これはシュリー・ラーマクリシュナの教えの一つでした。

 

シュリー・ラーマクリシュナはまた、教義にこだわってはならないともおっしゃいました。教義にこだわるとはどういうことでしょうか? 私の宗教、私の聖典、私の預言者だけが真実である。他の宗教の預言者、聖典、神は真実ではない、ということです。そしてこれが、さまざまな宗教の人々の間にこれほどの亀裂がある理由です。最近では、組織化された宗教のメンバーになりたくないという人がますます増えています。ある学者が、なぜこのようなことが起きているのかを研究したところ、異なる宗教グループの間で多くの争いがあり、そのために多くの人が宗教への信仰を失っていることがわかったのです。 だからこそ、シュリー・ラーマクリシュナは、自分自身の聖典と預言者を敬いながら、同時に、他の預言者や聖典も尊敬しなさい、と助言なさったのです。神は無限なのですから、自分の理解で神を限定してはなりません。私たちの知性は自分の能力によって制約されているのですから、自分の限られた知識で神を理解できるなど期待できません。

 

シュリー・ラーマクリシュナは次のような例え話をされました。「アリは砂糖の山に近づき、そこから一粒の砂糖を取る。巣に戻りながら、 次は砂糖の山全部を取ってやろう、と考える。だけど、もちろんそれは不可能だし、そんなことは起こりっこない。 同じように、私たちも限られた知性しか持っていないにもかかわらず、神の無限の側面をすべて理解できると考える。しかし 、もちろんそれは不可能なのだよ」

 

シュリー・ラーマクリシュナのもう一つの特徴は、普遍的な視野と、あらゆる信仰を持つ人々を受け入れる姿勢でした。彼の門戸はすべての人に開かれていました。神の信者、神を信じない者、シヴァ派の信者、ヴィシュヌ派の信者、ヒンドゥ教徒、イスラーム教徒など、誰もが歓迎されました。当時、彼が暮らしていた社会環境にはカーストによる制限がありましたが、彼はそれらを気になさいませんでした。聖者も罪人も、貧乏人も金持ちも、男性も女性も、学者も無学な者も、あらゆる人々と自由に交流されました。彼のもう一つの特徴は、助言を求めて彼のもとを訪れる人々の性向、能力、そして現在の霊的レベルを理解し、それぞれに適した教えを与えたことです。 

 

ここで一つ、お話をしましょう。あるところに無神論者の王様がいました。彼はいかなる神も宗教も信じていませんでした。しかし、彼は神や宗教に興味を持っていたので、いくつかの質問を提示し、これらの質問に満足のいく答えを出せば多額の褒美を与えると言いました。王様の質問は次のようなものでした。

 

神は存在しますか?

神はどこにおられますか?

神を見ることはできますか?

どうすれば神を見ることができますか?

なぜ私たちは神を悟る努力すべきなのですか?

 

その国の一人の賢者がやって来て、これらの質問に納得のいく答えを出しました。王様は彼の話を聞いて大いに喜び、彼に十分な褒美を与えました。その答えは何だったでしょうか?

 

賢者は牛乳の壺を持って来るように頼みました。牛乳の壺が運ばれてくると、賢者は王に尋ねました。「この牛乳の壺の中にバターは入っていますか?」 バターは確かに存在しますが、目には見えません。同じように、神はこの世に存在しますが、この目を通しては見えません。さて、牛乳以外にバターの原料はありますか? いいえ、バターは牛乳だけから抽出できます。

 

次の質問は「神はどこにおられますか?」です。賢者は言いました。「この牛乳の壺の中に、バターの特別な場所はありますか?」 答えは「いいえ」です。牛乳のあらゆる部分からバターを作ることができます。同じように、神はどこにでもおられます。ある場所には神がおられ、別の場所にはおられない、ということではありません。

 

「どうすれば神を見ることができますか?」 牛乳の中にバターが入っていますが、大声で「バター、出てこい!バター、出てこい!」と叫んだら、バターは出てくるでしょうか? もちろん、出てきません。手順があるのです。まず牛乳を凝乳にします。そして、凝乳になるまでの間、かき混ぜてはいけません。凝乳ができたら、攪拌します。そうして初めてバターができます。同じように、神を悟るためには、ヨーガに頼り、明確に定められた霊的実践の手順に従わなければなりません。

 

 「なぜ私たちは神を見ようと努力するべきなのでしょうか?」 パンにバターを塗ると、バターなしのパンを食べるよりも大きな喜びが得られます。私たちはバターの味を味わいたいのです。同じように、神を悟れば、より大きな幸福が得られます。実は、それこそが真の幸福なのです。この真の幸福を得たいという思いこそが、神を見ようと努力する動機となります。 世俗的なさまざまなものから得られる幸福はとても短命ですが、神を悟ることで、永遠で絶対的な喜びを得ます。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

4月20日逗子 月例会

「われらの住家に帰ろうではないか!」

スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ

 

[注釈:講義は、まず、「われらの住家に帰ろうではないか!」(『ラーマクリシュナの福音』1086頁』)という詩の朗読から始まりました]

 

私たちが生きているこの世界は、本当に私たちの家なのでしょうか? この世界がどのようなものか考えてみましょう。この世界は二元的です。幸福と不幸、成功と失敗、洪水と干ばつ、平和と戦争、生と死、豊かさと貧困、私たちの人生はこうした二元性の間を揺れ動きます。悲しみと幸せは、あらゆる人の人生にさまざまな形で訪れ、程度に差はあれ、何度も繰り返し経験します。

 

私たちの聖典は、アディヤートミカ(Adhyatmika)、アディバウティカ(Adhibhautika)、アディダイヴィカ(Adhidaivika)という 3 種類の悲しみについて言及しています。

 

アディヤートミカ:体と心に起因する悲しみ。他者や親族などの死による悲しみ、物質や金銭などの喪失による悲しみ、など。

アディブーティカ: 動物[ヘビに噛まれるなど]や非友好的な人々との接触によって生じる悲しみ。

アディダイヴィカ:地震、洪水、干ばつ、山火事などの自然災害による悲しみ。

 

もしこの人生が悲しみと苦しみに満ちているなら、私たちはそれを感じているでしょうか? 本当にそこから抜け出そうとしているでしょうか? シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃいます。「砂漠のラクダは、サボテンやとげのある植物を好んで食べる。口から血が流れても、ラクダは諦めない。同じように、私たちも苦しみながらも、苦しみの中で生き続けたいと願っているのだよ」

 

シュリー・ラーマクリシュナは人間を四つのカテゴリーに分類なさいました。第一のタイプは、この世で常に束縛されている人々です。彼らは漁師の網に捕らわれた魚に例えることができます。魚の中には簡単に捕らえられるものもいますが、束縛の痛みを感じていないため、自らを解放しようとはしません。これは、常に束縛されている人間と同じです。彼らは、この感覚の世界こそが全てであり、永遠であると考えています。第二のタイプは、自分が束縛されていることを知って、自らを解放しようと試みますが、成功しない人々です。漁師の網の中には、何度も何度もジャンプして最善を尽くし、必死に自由になろうと試みる魚がいますが、成功しません。第三のタイプは、この世の束縛から自らを解放することに成功している人々です。同じ例えで、漁師の網から自らを解放し、水に戻る魚もいます。最後に、第四のタイプは、決して捕らえられない人々です。漁師の網に全くかからない魚もいます。彼らは常に自由です。この世界では、私たちのほとんどは捕らわれています。私たちはここを素敵な場所だと感じています。私たちは、人生の甘酸っぱく、苦い経験が好きなのです。

 

キサ・ゴータミーの息子はヘビに噛まれて亡くなりました。彼女が息子の命を取り戻そうとお釈迦様に近づいたとき、お釈迦様は彼女に、誰も死者を出したことのない家から米を少し持って来るように頼みました。ゴータミーは家々を回りましたが、無駄でした。ついに彼女は、誰もがいつかは死ぬことを悟りました。彼女はお釈迦様の弟子となり、解脱への旅を始めました。息子の死は、彼女のヴィヴェーカ(識別力)を生じさせる原因になったのです。彼女はこの世の空虚さを理解しました。このように、悲しみもまた神からの贈り物です。悲しみが訪れるとき、気づきがもたらされます。中には、世俗から心を離し、真剣に自由への旅を始める人もいます。

 

この歌[われらの住家に帰ろうではないか!]には、次のような歌詞があります:

 

まわりにいるこの生きものたちや五元素は、

お前にとっては全部他人、身内は一人もいないのだ。

なぜこのように自分を忘れ、

他人が好きになるのか、おおわが心よ。

 

『ラーマクリシュナの福音』には、グルと弟子の物語が記されています。ある弟子は、身近な人たちを自分のものだと思い込み、心から愛していました。

 

あるグルが弟子たちに説法をしていました。グルは言いました。「この世で、何一つおまえのものはない。神だけがおまえのものだ」 弟子の一人が言いました。「なぜそうおっしゃるのですか? 妻も母も子供たちも皆、私を愛し、よく世話をしてくれます」 グルは言いました。「わかった。この薬を渡す。これを飲めば、まるで死んだように見える。しかし、おまえには周りで何が起こっているかはわかるのだ」信者は家に帰り、食事を終えると横になって薬を飲みました。夕方になっても起き上がらないので、家族が診てみると、彼は亡くなっていました。皆、泣き出しました。その時、グルが医者を装ってあらわれ、家族たちにこう言いました。「薬を差し上げましょう。それを飲む者は死にますが、この人は生き返るでしょう」 家族の誰もが嫌がりました。皆、一人ずつ理由をつけて薬の服用を拒んだのです。死んだふりをして横たわっていた信者は、今、何が起こっているのかすべてを理解することができました。ついに弟子はすべてを理解し、すべての家族を捨ててグルに従いました。

 

私たちがこの世に夢中になり続けるのには、もう一つ理由があります。聖なる母が、遊びが続くことを望んでおられるからです。母親は幼児におもちゃを与えて楽しませます。子どもがおもちゃで、幸せで満足している間は、子どもは母親を呼びません。けれども、子供がおもちゃを全部投げ捨てて母親を呼んで泣くと、母親はやって来ますが、それまではやって来ません。

 

私たちの本当の家はどこにあるのでしょうか? そこにいるのはどんな感じでしょうか? 喜びと至福に満ちているでしょうか? もし私たちがこの世を去る前に何年も過ごすこの世界が本当の家でないなら、私たちの本当の家はどこにあるのでしょうか? その本性とは何でしょうか? 誰かが私たちに本当の家の本性、その栄光を説明してくれたときにのみ、私たちはそこへ辿り着こうとするやる気が大きくなります。実際には、「本当の家」とは、快楽や苦痛、喜びや悲しみによって心が乱されない心の状態を意味します。その状態はサットワの状態であり、そこで人は純粋な至福を体験します。その状態に達した人は、いかなる苦しみや痛みも影響を受けません。

 

バガヴァッド・ギーターの第6章には、次の二つの詩節があります:

 

第6章第22節

yam labdhva chaparam labham manyate nadhikam tatah

yasmin sthito na duhkhena gurunapi vichalyate

 

ラン ラブドヴァー チャーパラン ラバン マンニャテー ナーディカン タタハ/

ヤスミン スティトー ナ ドゥフケーナ グルナーピ ヴィチャーリャテー//

 

これに勝るものはないという至高の境地に達すれば、たとえいかなる困難に遭おうとも、

ヨーギーの心は少しも動揺することがない。

 

第6章第21節

sukham atyantikam yat tad buddhi-grahyam atindriyam

vetti yatra na chaivayam sthitash chalati tattvatah

 

スカム アーッテャンティカン ヤッ タド ブッディ・グラーッヒャム アティーンドリヤム/

ヴェーッティ ヤットラ ナ チャイーヴァーヤン スティタシュ チャラティ タットヴァタハ//

 

その境地にある人は、普通の感覚ではなく純粋の知性によってのみ感じ得る

最上の歓喜を味わうこととなり、真理から決して離れることはない。

 

また、第2章には次の節があります。

第2章第56節

duhkheshv-anudvigna-manah sukheshu vigata-sprihah

vita-raga-bhaya-krodhah sthita-dhir munir uchyate

 

ドゥッケーシュ アヌドヴィグナ・マナーハ スケーシュ ヴィガタ・スプリハハ/

ヴィータ・ラーガ・バヤ・クローダハ スティタ・ディール ムニル ウッチャテー//

 

苦難に遭っても心乱さず、快楽を追うこともなく、

執着と怖れと怒りを己の心から完全に捨て去った人こそ、

真の知識を獲得した聖者(ムニ)と呼ばれるのだ。

 

本当の家にたどり着くための道

 

その境地に到達したいと願うなら、聖典に定められた道を歩むべきです。その道とは、簡単に言えば、アビヤーサ(神を想う実践)とヴァイラーギヤ(感覚的快楽の放棄)です。

 

ゴータマ・ブッダが仏陀となる前の王子シッダールタとして過ごした生涯を見てみましょう。父のシュッドーダナは、ブッダが悲しみを少しも見ないように、あらゆる贅沢と娯楽に囲まれていることを望みました。しかしある日、シッダールタは外出すると、杖をつき、足を引きずり、骨ばかりの老人を目にしました。彼はお供の者に尋ねました。「チャンダカよ、この男はどうしたのですか?」 チャンダカは答えました。「彼は老いてしまったのです」 シッダールタは尋ねました。「私も、両親も老うだろうか?」 チャンダカは答えました。「はい」「人は皆、長生きすれば老いを迎えます。あなた様も、あなたのご両親も、私自身も、皆です」とチャンダカは答えました。

 

王子は深く心を痛めました。しかし翌日、再びチャンダカを伴って王国へ出かけました。しばらくして、彼らは病気で他人に看病されている男に出会いました。王子は宮殿で病人を見たことがありませんでした。当然、王子は驚き、それが何なのか尋ねると、チャンダカは「この男は何かの病気に罹っているのです」と答えました。「私もそうなる可能性はあるのかい?」と王子は尋ねました。「はい」とチャンダカは答え、「誰にでも起こり得ることです」と付け加えました。翌日、再び王子とチャンダカが歩き始めると、頭からつま先まで布で覆われた死体に出くわしました。チャンダカはシッダールタに「この男は亡くなりました。そして、死は私たち皆に訪れます。なぜなら、生まれた者は皆、必ず死ぬからです」と説明しました。そしてその翌日、彼らが歩いていると、黄土色の衣をまとい、何も持たず、澄み渡った表情の隠者を見つけました。チャンダカは「彼は僧侶です。彼はすべての世俗的な快楽を放棄したのです」と説明しました。これらの一連の場面は、王子シッダールタの心に一連の思いを残しました。そして、ある夜、妻が眠っている間に、彼は静かに王国を離れ、真理を求めて森へと旅立ったことが知られています。

 

バガヴァッド・ギーターには次の二つの美しい詩節があります:

 

第9章第32節

mam hi partha vyapashritya ye ’pi syuh papa-yonayah

striyo vaishyas tatha shudras te ’pi yanti param gatim

 

マーン ヒ パールタ ヴャパーシュリッテャ イェーピ シュフ パーパ・ヨーナヤハ/

ストリヨー ヴァイシヤース タター シューッドラース テーピ ヤーンティ パラーン ガティム//

 

プリター妃の息子(アルジュナ)よ! たとえ身分の低い生まれの人間であろうと、女、ヴァイッシャ、スードラ等であろうと、私に保護を求めてくる人達は、必ずや最高の境地に達するであろう。

 

第9章第33節

kim punar brahmanah punya bhakta rajarshayas tatha

anityam asukham lokam imam prapya bhajasva mam

 

キン プナル ブラーフマナーハ プンニャー バクター ラージャ・ルシャヤス タター/

アニッテャム アスカン ローカム イマン プラーッピャ バジャッスヴァ マーム//

 

ましてや心正しきバラモンを始め、信仰篤き聖人賢者達なら、なおさらのこと。

はかなく悲苦に満ちた物質界(この世)では、ただ私を信じ礼拝するがいい。

 

『ラーマクリシュナの福音』で、Mさんが神への愛をどう育むべきかと問いかけます。この質問に対して、シュリー・ラーマクリシュナはいくつかの方法を示されました。それは以下のとおりです:

 

神の御名と祈りをくり返し、

聖なる仲間(ホーリーカンパニー)を持ち、

実在と非実在を識別し、

時々、家族や友人から離れて孤独な場所に退き、神を思いながら時間を過ごす。

 

これらの点について簡単に説明しましょう。

 

神の御名を繰り返し唱えることは、さまざまな宗教のほとんどすべての聖者によって霊的実践として定められています。心は、私たちが繰り返し考えるものの形をとります。連想の法則により、私たちは神について考えれば考えるほど、神の特質を吸収します。さらに、神の名を繰り返し唱えることで、心は強く純粋になります。強く純粋な心があれば、人生の問題に対処し、立ち向かい、克服することができます。心が弱いと、私たちはしばしば心の乱れに流され、人生という海に溺れてしまいます。同じ理由で、シュリー・ラーマクリシュナは祈りを非常に重視なさいました。彼は繰り返し、「神は、信者の祈りが心のからのものであれば、耳を傾けてくださる」とおっしゃいました。

 

バガヴァッド・ギーターには次のような詩があります。

 

第7章第14節

daivi hy esha guna-mayi mama maya duratyaya

mam eva ye prapadyante mayam etam taranti te

 

ダイヴィー ヒ エーシャー グナマイー ママ マーヤー ドゥラッテャヤー/

マーム エーヴァ イェー プラパッデャンテー マーヤーム エーターン タランティ テー//

 

世の人びとが、これら三性質からなる私の幻象に、惑わされずにいることは非常に難しい。

だが私にすべてを委ねて帰依する人は、やすやすとその危機を乗り越えられるであろう。

 

シュリー・ラーマクリシュナは、聖なる仲間の必要性を繰り返し強調なさいました。聖なる仲間は、ヴィヴェーカ(識別)を育むのに役立ちます。それは悟りへの道を示してくれます。聖なる仲間は、私たちが望む目標に到達するための道しるべとなります。 

 

[「われらの住家に帰ろうではないか!」より]

 

サードゥたちとの交わりはお前にとって、

道ばたのありがたい休息所であろう。

そこでしばし疲れた手足を休め、もし何か疑いがあれば、

そこで見張りをしている人に、お前の道をたずねるがよい。

 

常に実在と非実在を区別すること。それはヴィヴェーカと呼ばれます。シュリー・ラーマクリシュナは例えを挙げられます。ジャックフルーツを切るとき、果物から出るべとべとで手にくっつかないように、手に油を塗ります。同じように、ヴィヴェーカとヴァイラーギヤを実践すれば、世界が糊のように私たちにくっつくことはなくなり、執着せずに自分の義務を果たすことができるようになります。

 

同じ歌の中に次のような一節があります。

 

欲と迷妄とが、おまえの富を盗もうと待っているぞ。

またかたわらにはつねにおまえを災難から守る護衛として、

心の静けさと自己抑制をつれて行け。

 

ですから、上記の指針に従い、熱意と信念をもって真剣に道を歩むならば、真の故郷に辿り着くのは時間の問題です。私たちは人生において真の自由を手に入れるでしょう。自由への旅を始めると、すべての聖人と師から祝福を受けると言われています。

 

さて、人が自由を獲得すると何が起こるのでしょうか? 

ムンダカ・ウパニシャドには、次のような美しい詩があります:

 

Bhidyate hṛdayagranthiśchidyante Sarvasaṃśayāḥ

kṣīyante cāsya Karmāṇi tasmindṛṣṭe parāvare

 

ビッデャテー フリダヤグランティ チッダンテー サルヴァサンシャヤハ 

クシヤンテー カースヤ カルマーニ タスミンドゥリシュテ パラーヴァレ

 

高い者と低い者の両方が見られるとき、心の結び目は解かれる。

すべての疑問は解決され、彼のすべてのカルマは消滅する。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

2025年5月3日 インド大使館

バガヴァッド・ギーター勉強会のノート

これは参加者による講義ノートです。これは授業の書き起こしではなく、講義の覚書であることをご承知おきください。  

 

授業は次の詩の詠唱から始まった。

 

オーム サハナー ヴァヴァトゥ サハノー ブナクトゥ サハ ヴィーリャン カラヴァー ヴァハイ 

テージャスヴィ ナーヴァディータマストゥ マー ヴィッヴィ シャーヴァハイー

オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ

 

オーム ブラフマンが教師と弟子の両方を導いてくださるように。

私たちが豊かな活力をもって、ともに働くように。

私たちの学習がたくましく実り多いものであるように。

愛と調和が、私たちの間に宿るように、どうか私たちを見守りください。

オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。

 

オーム アサトー  マー サドゥガマヤ  タマソー マー ジョーティル ガマヤ 

ムリッティヨルマー アムリタム ガマヤ オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ

 

オーム、神さま、非実在から実在へ導いてください。 無知の暗闇から知識の光へ導いてください。 死から不死へ導いてください。オーム。 平安あれ、平安あれ、平安あれ。

 

サルヴェー バヴァントゥ スキナハ サルヴェー サントゥ ニラーマヤハ サルヴェー バッドラーニ パッシャントゥ マー カシュチード ドゥッカバーグ バヴェット オーム  シャンティ シャンティ シャンティ

 

皆が幸せでありますように。皆が病気にならずに済みますように。皆が祝福を得ますように。誰も苦しみに遭いませんように。オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。

 

詠唱の後は数分間の瞑想が続いた。

次に、次のギーター・ディアナ・シュローカが朗唱された。

 

ヴァスデーヴァ スタン デーヴァン カンサ チャーヌーラ マルダナン/ 

デーヴァキー パラマーナンダン クリシュナン ヴァンデー ジャガッド グルン//

 

ヴァスデーヴァの息子、カンサとチャーヌーラの破壊者、デーヴァキーに至福の喜びを与えるお方、世界の導師であられる、主クリシュナを私は礼拝いたします。

 

ギーター第2章11節から20節までを全員で朗読した。最初はサンスクリット語で、次に日本語で朗読した。

 

これらの朗誦の後、マハーラージは前回の授業で議論された主なテーマは何だったのかと尋ねられた。ある人が「執着 対 愛」と答えると、マハーラージは次のようにおっしゃった。

 

執着があると本当の喜びを得ることはできない。

執着の源は何か? それは自我、つまり自己意識である。

私たちの体には3つのタイプがある。 

 

ストゥーラ:骨、肉、血など。

スークシュマ:心、知性、エゴ

カーラナ:原因体

 

体はサンスクリット語でシャリーラと呼ばれる。この語源は「衰えるもの」を意味する。

 

執着は、この体や他の物体といった永続しないものに対して向けられる。

この執着を取り除くには三つの方法がある。

 

1.   無私の意識(利己心のない意識)

2.   魂意識(魂の意識)

3.   神意識(神への気づき)

 

1. 無私の意識(利己心のない意識)

 

他人に奉仕しなさい。他人に奉仕すると、自分の悩みは減る。

心身ともに健康を保つには、他人の悩みをどう取り除くかを考える。

自分の問題を忘れる最善の方法は、他人の問題をどうすれば助けられるかを考えることである。

これは素晴らしいアイデアだ。とても前向きな方法である。自分の問題について考えないように。

上記のことを実践せよ: 

アームリテ :死ぬまで

アースプテ:毎日寝るまで

 

人が常にこの無私の意識を持ち、眠りにつくまで、死ぬまで常に他者に奉仕するならば、そうすれば、寺院に行くことや瞑想など、他の霊的な実践は必要ない。

これがセヴァ・ヨーガ(奉仕のヨーガ)である。

 

ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュは次の物語が好きだった:

 

村人全員がイスラーム教徒の村があった。モスクがあり、ムッラー(イスラム法師)もいた。金曜日になると皆がモスクに集まった。ムッラーが礼拝を司った。拡声器で「アッラー・フ・アクバル…」と唱えていた。これは礼拝の呼びかけだ。一人だけモスクに一度も行ったことのない人がいた。彼はアッラーさえ信じていなかった。彼は変わり者だった。村を通る道があり、川も流れていた。橋を渡って川を横切り、多くの旅人がその道を通った。

 

変わり者はその橋の上に座り、橋を渡る人々に「喉が渇いていませんか?お腹は空いていませんか?」と尋ねた。そして彼らを自宅まで連れて行き、飲み物や食べ物を振る舞った。

 

ある日、天使が天から降りてきた。天使はリストを持っていた。そこには、天国に行く人と地獄に行く人の名前が書かれていた。誰もがそのリストに興味津々だった。その変わり者もリストを見に行った。皆、あのムッラーの名前が天国のリストの一番上に載っているだろうと期待したが、そうではなかった。変わり者の名前がリストの一番上にあったのだ。人々があのムッラーの名前を探すと、天国に行く人のリストではなく、地獄に行く人のリストの一番上にあった。なぜなら、彼は人々を利用して私腹を肥やしていたからだ。

 

主は他人を助ける人を愛される。

 

ランティ・デーヴァ。彼はマハーバーラタとバーガヴァタムの両方で言及されている。

ランティ・デーヴァの物語。彼は48日間何も食べずに過ごし、その後少し食べ物を手に入れたが、空腹の客が次々とやって来たので、彼は自分の食べ物と水をすべて彼らに与えた。以下の詩はランティ・デーヴァに関するものである。 

 

シュリーマッド・バーガヴァタム (9.21.15)

ナ トゥ アハン カーマイェ ラージャム ナ スワルガン ナ プナール バヴァム

カーマイェ ドウッカ・タプターナーム プラーニナーム アールティ・ナーシャナム

 

私は王国も天国も解脱さえも望んでいません。

私はただ、苦しむものを助けたい、すべての生きとし生けるものの苦しみを取り除きたいのです。

 

シュリーマッド・バーガヴァタム(9.21.16)

コ ヌ スヤート ウパーイェ・アトラ  イェーネーハン サルヴァデヒナーム

アンタ プラヴィシャ サタタン バーベヤム ドゥッカ・バーラバーク

 

私がすべての生き物の心に入るための方法を知りたい。

その中に常にとどまり、彼らの苦しみという重荷を負うことができるだろうか?

 

スワーミー・アカンダーナンダは、私たちの僧院の中で他者への奉仕を始めた最初の方であった。インドの聖者たちのことを考えてみよ。彼らは弟子たちの重荷を引き受けたいのだ。

 

主イエスもまた、弟子たちに、彼らの重荷をご自分が担うことを約束なさった:

 

マタイ11:28-30:

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 

わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

最後に次の節を詠唱して講義は終了した。 

 

オーム・プールナマダ・プールナミダム プールナートゥ・プールナムダッチャテー

プールナッシャ・プールナマーダーヤ プールナメーヴァーヴァシッシャテー

オーム シャンティ・シャンティ・シャンティヒ

 

オーム。あれ(ブラフマン)は完全です。これ(宇宙)も完全です。完全なものから、完全なものが生まれました。完全なものが完全なものから取り去られても、完全なものは依然として残ります。

オーム、平安あれ、平安あれ、平安あれ。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

忘れられない物語

 

「ナリニ・ディディの汚染恐怖症」

 

ナリニ・ディディ(ホーリー・マザーの姪)は、儀式上の清浄さに異常なほど固執していた。彼女は常に不浄なものに触れてしまうのではないかと恐れていた。誰がいつ彼女に触れたのか、常に心配していた。しかし、ホーリー・マザーは触れること、触れられることに全くこだわっておられなかった。ナリニ・ディディはよく「ピシ・マー(叔母)は、食事の後に捨てられた不浄な葉っぱの皿を踏んでも全く気にしないのよ」と愚痴をこぼしていたものだ。ホーリー・マザーは、ナリニ・ディディのこの恐怖症のために、多くのからかいを受けなければならなかった。

 

ある冬の夜、ナリニ・ディディはホーリー・マザーのもとを訪れ、「し尿に触れてしまったの」と、深く悲しみながら告げた。その寒い夜に沐浴することは不可能だった。儀式的な清浄さを重んじるあまり、彼女は食事をすることも、部屋に入って眠ることもできなかった。そのため、その冬の夜は玄関ホールの外で座って過ごさなければならなかった。ホーリー・マザーはさまざまな方法で彼女をなだめようとなさった。ガンジス川の水を体に振りかけるか、着替えて手足を洗えば十分です、と提案なさった。しかし、ナリニ・ディディはこれらの提案をどれも受け入れなかった。清潔になるためには、全身を沐浴しなければならないのだ。

 

彼女は悲しみながら、自分の部屋のベランダに座り続けた。夜が更けても立ち上がろうとしなかった。すぐに悲しみの涙を流し始めた。ホーリー・マザーと数名がナリニを説得しようとしたが、すべては無駄に終わった。そこで、皆は食事を済ませ、床に就いた。ナリニ・ディディの悲しみは増すばかりで、彼女はわっと大きな声で泣き叫んだ。「誰も私の世話なんてしてくれないの。夫の家では歓迎されなかったので、父の家に行きました。しかし、父は再婚したので、継母のせいでそこにも居場所がなかったわ。私を愛し、自分の子として引き取ってくれているピシ・マーがいます。でも、ここにいる他の人たちが嫉妬しはじめたので、ここで暮らし続けるのも難しいわ。だから私の人生はすべて、悲しみの中で一人で過ごすことになっているの」 それから彼女はしばらく黙っていて、また嘆き始めた。

 

家の中の誰もが眠りに落ちていた。ホーリー・マザーは起き上がり、ナリニに優しい声でこう言った。「娘よ、よく聞きなさい。なぜあなたは不必要な苦しみを味わうのですか?手足を洗って中に入って、食事を済ませて眠りなさい。」 やがてホーリー・マザーご自身も嘆き始めた。「ああ、なんて可哀そうなの!ナリニは若すぎるので、心が未発達なのです。だから些細なことでかんしゃくを起こすのよ」 ホーリー・マザーは何度も何度も悲しげな声で言いました。「なんて可哀そうなの!ナリニの知性は未発達なのです。だから彼女は感情的になり、怒り出すのです。」

 

マザーのある「息子」は、これらすべてを聞いて考えた。「私たちが他人に怒るとき、私たちは相手がわざと厄介なことをしていると考える。でも、マザーご自身が、問題児の行動を正当化し、彼女を弁解しようとしていらっしゃる。その少女が問題行動を起こすのは、彼女の心が未発達だからで、強情によるものではないということだ!つまり、彼女のせいではない。彼女は結局のところ、年齢的には大人でも、未発達の子供なのだ。子供が悪いことをしたと非難されるだろうか?」

 

それからマザーはナリニの近くに来て、甘い言葉で彼女をなだめた。ナリニも答えた。彼女の悲しみは去り、彼女は服を着替え、食べ物を取り、眠りについた。マザーも幸せを感じておられた。マザーは、その最高度の忍耐と思いやりによって平安と調和をもたらされたのだ。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

今月の思想

 

自分の心をコントロールしなさい。人生のはかなさを常に意識することで、貪欲や怒りに抵抗し、あらゆる悪を避けることができるであろう。

 

心が誘惑されたときは、その誘惑を抑えて制御しなければならない。つまり、自分の心の師となるのだ。

 

互いに尊重し合い、争いを避けなさい。共に学び、共に習得し、共に私の教えを実践しなさい。怠惰と争いに心と時間を浪費してはならない。悟りの花が咲き、正道の果実を摘む季節を喜びなさい。

 

…お釈迦様の最後の説教より

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  

発行:日本ヴェーダーンタ協会

249-0001 神奈川県逗子市久木4-18-1

Tel: 046-873-0428  Fax: 046-873-0592

ウェブサイト:http://www.vedanta.jp  email:info@vedanta.jp