ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)
日本ヴェーターンタ協会の最新情報
2024年8月 第22 巻 第8号
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かく語りき――聖人の言葉
礼拝中の障害のほとんどは外的なものではなく、内的なものです。師(シュリー・ラーマクリシュナ)の御名を唱え、瞑想をすると、障害は次々にだんだんと消えていきます。義務を果たしなさい。心の汚れが残っているかどうかに気をとられてはいけません。
…ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィー
自分が果たす巡り合わせとなった義務の性質について、ぶつくさ文句を言うのは、結果に執着している働き手です。無執着の働き手にとっては、全ての義務は同等なもので、しかも利己主義と欲望を滅して魂の自由を獲得するための有能な道具なのです。私たちはとかく自分を高く評価しすぎます。私たちの義務は、私たちが納得するよりはるかに自分たちの欲望をもとにして決定されています。競争は嫉妬を生み、嫉妬は心の優しさを失わせます。不平不満ばかり言う人にとってはすべての義務が不快であり、彼を満足させるものは何ひとつありません。そして彼の全生涯は失敗に終わるでしょう。義務として与えられたものは何でも引き受け、しかも喜んで自分の最善をつくしつつ、働き続けようではありませんか。そうすれば確実に私たちは、光を見るでしょう!
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
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目次
・かく語りき――聖人の言葉
・お知らせ
・2024年10月の生誕日
・2024年6月16日午前
「日常生活におけるヨーガ」
スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ
・2024年6月1日 スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会
スワーミージーの「力」の言葉
レオナルド・アルヴァレズ
・2024年6月1日 スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの励ましの言葉「弱さと強さ」
公的研究機関研究員 平野康之
・忘れられない物語
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お知らせ
・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。
・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。
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2024年10月生誕日
スワーミー・アカンダーナンダ 10月2日(水)
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「日常生活におけるヨーガ」
スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ
ヨーガと聞いてほとんどの人が思い浮かべるのは、体の運動と呼吸法です。「ヨーガ」という言葉は誰もが知るようになり、世界中で人気です。そして今では国際ヨーガの日もあります。しかし、それはヨーガの一側面に過ぎません。ヨーガ全体からみると、ごく一部にすぎないのです。
ヨーガの本当の意味は「合一」です。個々の魂と至高の魂、つまりジーヴァートマンとパラマートマンの合一を意味します。人は皆、永遠の幸福、永遠の命、知識を望んでいます。私たちがすることはどれも、この三つの欲望に突き動かされています。しかし、感覚という束の間の世界では、私たちは決して充実感を得ることはできません。人生の真の充実感は、自分がこの体と心とは別物であると理解した時に訪れます。私たちはアートマンです、常に純粋で、常に自由です。体と心からの解放、そしてアートマンとパラマートマンの融合という目標をヨーガ(合一)と言います。そして、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガなど、目標に達するためのさまざまな道もヨーガと言います。
このヨーガの目標に達するための重要なステップについて、これから説明します。
識別
自分の身の回りのものは一時的なものである、ということをはっきりさせましょう。私たちの体は衰え、最終的には死に至ります。どんな楽しみも喜びも、それがどれだけ魅力的であっても長くは続きません。ほとんどの人は、自分の中に純粋で、至福に満ち、不滅の存在があるということに気付いておらず、私たちの目標が、体と心の束縛から抜け出し、自分の本性を悟ることである、ということを知りません。私たちはこの目標をずっと心に留めておく必要があります。そしてこの目標に達するためには、どんなに心地よさそうな感覚からくる喜びも、あきらめなければなりません。そのためには常に識別してください。
私たちは日常生活でも、より大きな目標を達成するために小さな喜びを手放しています。例えば、まじめな学生は、睡眠時間やテレビなどの娯楽時間を減らし、試験で良い成績を取ろうと一生懸命勉強します。ビジネスマンは、顧客対応をしたり、製品のマーケティング、販売をして、朝から晩まで仕事に精を出します。何年もそうすることで出世ができるからです。彼は肉体的な快楽、娯楽、リラクゼーションなどを犠牲にします。それと全く同じように、ヨーガの道においても放棄が必要です。そしてその放棄とは、すべての肉体的、精神的な快楽を犠牲にすることです。
つまり識別だけでなく、放棄と実践も必要なのです。実践とは、毎日欠かさず神を想う実践です。そして、バガヴァッド・ギーターには、アビヤーサとヴァイラーギヤという二つの用語があります。アビヤーサは「実践」を意味し、ヴァイラーギヤは「放棄」を意味します。鳥が空を飛ぶのに両翼が必要なように、霊的求道者にとっての両翼とは、アビヤーサとヴァイラーギヤです。絶えず実践できるように、祈りやジャパなどを通して神を想う毎日のサーダナ[霊性の修行]のスケジュールを作ってください。それに加えて、自分の理想から私たちを遠ざけるものは放棄すべきです。
義務を果たす
次に肝に銘じなければならないことは、責任逃れはいけない、ということです。自分の立場に応じた務めを果たすと、強くなります。ハートを清らかにします。難しくて面倒だからという理由で仕事を辞め、義務を放棄することを神に向かうための放棄の一部と考えるなら、そのような放棄は「タマシカ・ティヤーガ(タマス的な放棄)」とみなされます。バガヴァッド・ギーターによると、どんな仕事にも何らかの短所があります。『ラーマクリシュナの福音』にプラタープ・チャンドラ・ハズラという信者のことが載っています。彼には村に家族がいましたが、ドッキネッショルで悠長な日々を過ごし、霊性の修行を見せびらかしていました。師はハズラの態度を好まず、村に戻って家族の面倒を見るようにとよく勧められました。
バガヴァッド・ギーターは、日々の義務をヨーガとしてどのようにやり遂げるかについて、数多く示唆しています。さらに、出家僧と家住者のどちらかが優れているのではありません。両者には、無執着の心ですべきそれぞれの義務があります。
注意してください、義務と執着とを区別するのは容易ではありません。執着はたびたび義務の仮面をかぶってあらわれます。義務は以下のようになされます:
a) 執着のため
b) 他者に対する義務を真に認識しているため
c) 神への信仰から
最初の二つはよく混同されます。ある思想家は次のように言います。「義務とは私たちの執着に対する罰です」 偉大なる化身であるお釈迦様、主イエス、ラーマ神、クリシュナ神に義務はありませんでした。その方々がなさったことはすべて、純粋に人類への愛が動機です。また、すべての人には「高次の自己との合一」というなすべき義務があります。この最高の義務を忘れないようにしようではありませんか。
神への愛
信仰の道(バクティ)は、霊的生活を進めるために師たちが定めた道の一つであり、大多数の霊性の求道者はバクティの道を歩んでいます。バクティとは、ひとえに神への愛を意味し、その愛は霊的生活を進めるための大きな推進力です。私たちは自分の体、親戚、家、仕事、所有物、その他多くのものに対して愛情があります。この愛が神に向けられたとき、その愛はバクティ(信仰)になります。
バガヴァッド・ギーターによると、次の四つのタイプの信者が神に立ち返ります:
a) 苦しんでいる人
b) 富を求める人
c) 知識を求める人
d) 神を知る人
彼らは皆、信者ですが、最後のタイプ、つまり神と常に交わり、ひたすら神を信仰する知者こそが、最高の信者です。最初の三つのタイプの信者は、神に何かを求めています。
自分自身を振り返ってください、そうすれば私たちは神に何かを求めるために神を呼んでいることに気づくでしょう。それは神への純粋な愛ではありません。真の信者は、神を愛するためだけに神を愛します。彼にはどんな欲望ももうありません。しかし、私たちが霊性の修行と放棄を実践し続けると、新たなる眼が開け、徐々に心は純粋になっていき、神に対する誠実で無私の愛を得ることができます。
神への信仰を育むには、私たちが選んだ理想神への明確な態度を培うことが大いに役立ちます。シュリー・ラーマクリシュナは神との個人的な関係を、父、母、友達との関係のように築きなさい、と繰り返し助言します。そうすれば道は容易になります。神が遠くにいるほど、近づきがたいものに思えます。『ラーマクリシュナの福音』で、あるシーク教徒が神についての考えを問われたときに「神は慈悲深いです」と答えると、シュリー・ラーマクリシュナは「神が私たちのつくり主なのだから、私たちに親切であったとて何の不思議があろう。両親が子供を育てるのが慈悲というのかね」と助言しました。ですから、むしろ神に遠慮なく要求すべきです。子供が父や母に近づくように、神に近づきましょう。
自分を信じる
自分を信じることは、神への信仰を厚くするのに役立ちます。神はすべての強さと力の源です。神の子である私たちも、内なる強さを集めなければなりません。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは「自分が強いと思えば強くなり、自分が弱いと思えば弱くなる」と言いました。自分自身に対する前向きな姿勢は、霊的生活で進歩するために絶対に必要です。強い人だけが誘惑に立ち向かうことができます。実際、ヨーガ人生には多くの奮闘があってしかるべきです。私たちは目標に対して真剣であるように見えますが、この旅に必要な代償を払う準備ができていないことがよくあります。ヨーガ人生における浮き沈みに立ち向かう心構えが必要です。だからこそ、強さと自分への信仰が絶対に不可欠なのです。ここで、スワーミージーご自身のバラナシでの体験についてお話ししましょう。スワーミージーがバラナシのドゥルガー寺院を通っているとき、突然、猿の一群が彼を追いかけ始めました。スワーミージーが走り出すと、猿が追いかけます。一人の僧侶がこれを見て「野獣たちと立ち向かえ!」と叫びました。すぐにスワーミージーはくるりと向きを変えて猿たちの前に立ちはだかりました。すると猿たちはスワーミージーを追うのをやめました。スワーミージーはこの出来事について「自分の中の敵と対峙したときは、逃げようとするのではなく、勇敢に立ち向かうべきだ」と後に述べました。
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スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会
スワーミージーの「力」の言葉
上智大学大学院博士後期課程
レオナルド・アルヴァレズ
主催者の皆様、主賓演説者、司会のグプタ氏、講演者の皆様、そして聴衆の皆様、これからスワーミー・ヴィヴェーカーナンダが語った「力」とそれについての感想を簡単にお話させていただきます。
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(以降、敬意をもって、「スワーミージー」と記載)は、真理にたどり着くために何一つを妥協しない、真理こそは「強さ」であるという、独特な理想を掲げた素晴らしい僧侶でした。彼はよくこう言われました: 「強さは生命であり、弱さは死である。人生における最良の指針は強さである。宗教においても、他のすべての事柄においても、自分を弱くするものはすべて切り捨てなさい。 私たちに罪を犯させるのはすべて弱さのせいだ。」 では、「罪人だ、罪人だ!」と何度も繰り返して、永遠に自責すべきなのでしょうか?そうではありません。スワーミージーが仰いました: 「弱さの薬は、弱さを思い続けることではなく、強さについてずっと思い続けることだ。自分たちの生まれながらの強さについて人々に教えなさい」。ヴェーダーンタ思想によると、私たちの本性は「Sat-Chit-Ananda」、即ち、絶対の存在、絶対の意識、絶対の至福です。但し、私たちがこの事実を悟るには途方もない力が必要であり、それゆえにシュリー・クリシュナは私たちに向かって、次のような励ましの言葉をかけてくださっているのです: 「友よ、雄々しくない弱気を捨てて、立ち上がって戦いなさい!」
私たちは真理を悟りたいと願うとき、自分たちの心、家族や友人、さらには社会全体が反旗を翻すかもしれない。そのとき、私たちはうずくまって負けを認め、平凡な人生を送り、酔生夢死の徒にもなってよいのでしょうか?とんでもない!立ち上がって、全宇宙を敵に回してでも戦いましょう!至高の目標を達するには至高の犠牲が必要です。そのような強固な覚悟があれば、必ず目標に達成します。
この中で、私たちは直面すべく最も熾烈な戦いは、自分の心との戦いです。輪廻転生を繰り返すことによって、動物的な衝動や悪い習慣、それに無知蒙昧など、数え切れないほど否定的な心の傾向/習慣(サムスカーラ)が形成し、それらを克服しなければなりません。しかし、心配することはありません。スワーミージーのメッセージは非常に楽観的であり、私たちはすべての否定的な習慣(サムスカーラ)を、新しい肯定的な習慣(サムスカーラ)に置き換えることができ、より良い性格を作り上げることがでると断言しています。西洋心理学とインド心理学を学んだ者として、私はここであえて自分の考えを共有したいです。つい最近まで、西洋心理学では、「人の性格は生まれたときから変えられない。なぜなら、性格はすべて遺伝子に依存しているから」と言われていました。即ち、運が悪くて、卑劣な遺伝子を持って生まれたならば、私たちにはもう希望がないという絶望的な理論です。それは訝しい話でしょう。近年では根拠をもってこの理論を裏返す科学の研究が登場しています。それは、適切な条件(環境や努力)があれば、私たちの遺伝子の発現を変えることができ、その結果、自分たちの脳や心、そして性格全体を変えることができると証明する「エピジェネティクス(後成遺伝学)」と呼ばれる新たな科学であり、スワーミージーの言うことを確かに根拠づけています。
聖書には、人は「神に似せて造られた」とあります。ヨーガの聖典には、人間は完全に神になることができると記載されています。ヨーガ哲学は、私たちの中には神聖力があり、それは人間のDNAに組み込まれており、生まれ持ってこの神聖な力を有すると確言しています。「見よ、天の王国はあなた方の中にある!」と、聖書に書いてあります。しかし、私たちのうちなる神性の顕現を妨げている障害を取り除く必要があります。その障害とは何でしょうか?貪欲、怒り、欲望などです。それらを取り除くためには、一つの道を選んで、必死に努力してその道を進まなければなりません。その道とは、瞑想と心をコントロールして精神統一を目指す「ラージャ・ヨーガ」の道、永遠なものと一時的なものを識別する「ギャーナ・ヨーガ」の道、無私の精神で人類と神様にお世話する「カルマ・ヨーガ」の道、そして、神を献身に愛し、信仰する「バクティ・ヨーガ」の道です。
インドのサーンキヤ心理学によれば、心には3つの状態(トリグナ =「三性質」)があると言われています。それは 「タマス」(暗質)、すなわち「鈍さ」、「無知」及び「破壊的」な心の傾向、「ラジャス」(激質)、すなわち「過剰な活動」、「執着」、「不安と苦しみ」及び「情熱的な」心の傾向、そして「サットワ」(純質)、すなわち「冷静さ」、「純粋さ」、「無私」、「幸福」、「安定した」心の傾向です。私たちの心を観察してみると、そのほとんどがタマスとラジャスで満ちており、否定的で不安なものです。多くの場合、心の否定的な傾向は、無意識と意識、両方のレベルで働いており、私たちが努力しても、その否定的な傾向に翻弄されてしまうことがあります。この力強い衝動をコントロールできない理由は?それは弱さです。衝動の波がやってきたら、私たちには止める力が十分ありません。ですから、私たちに必要なことが力強くなることです。体が弱いと心も弱くなると念頭に置いておきましょう。したがって、並行して身体と心を強くしなければなりません。「私たちには鉄の筋肉と鋼(はがね)の神経が必要です」。スワーミージーはしばしば、偉大な英雄ハヌマーンが発揮した「ラジャス」の力、それに謙虚さと完全な制欲の優れた性格の組み合わせを褒めたたえていました。私たちはこのような力と性格があれば、「タマス」を抑制することができ、精神的な力と心の安定性を表す「サットワ」を向上させ、最終的にこの3つのグナ(タマス・ラジャス・サットワ:暗質・激質・純質)を超えて、人生の目的である自由、至福、恐れのなさを達成するでしょう
では、この力は一体どのようなプロセスで得られるのでしょうか?スワーミージーのラージャ・ヨーガによれば、「チッタ」として知られる「身体」と「心」の複合体は食物からエネルギーを得ます。食物の粗大なエネルギーは体を、食物の精妙なエネルギーは心を働かせるために使用されます。精妙なエネルギーで、「思考」という「心」の働きが生まれるが、集中力によって「思考」を「意志」に変更することができ、また「意志の力」が強ければ、これが「電気」に似た動きをする「神経電流」に変わります。これらの「神経電流」の総合的な働きが道徳的実践と無私の精神によって適切に方向づけられ、強められます。すると、偉大な業や利他行動といった外面的な効果と、心の浄化といった内側の効果を生み出します。偉大な業を為し清らかな心を持つ聖人は、この精妙な力によって聖められます。従って、心の衝動に駆られることなく、それらをコントロール・抑制することによっては、初めて私たちがこの偉大な力を手に入れることができます。例えを用いると、馬を好きなままにさせるよりも、手綱を引いて馬を止める方がはるかに大きな力が必要で、馬を引き留めることができる人こそ力強いです。西洋の心理学者は「心を抑制してはならぬ、心を抑制すると、心の欲望が抑圧され、ノイローゼになり、苦しむぞ」と助言されるが、本当にノイローゼになるのでしょうか?いいえ、実は自己制御をすることで、抑制した衝動を昇華させることができ、巨大な力を生み出します。インド心理学では、この自制心で育まれた巨大な精力と生命力は「オージャス」と呼ばれています。この「オージャス」の力によって、喜びにあふれ、強大なエネルギー、熱意、及び正確さをもって仕事などに打ち込むことができるのです。この「オージャス」の力によって、私たちの神経は強く鋭敏になり、心身を容易にコントロールできるようになります。
インドのサーンキヤ心理学体系によれば、「心は精妙な物質」であり、粗大な物質と同じように作用するとされています。この道理を考えると、心の力の現れの過程をより理解しやすくなります。例えば、宇宙全体はある意味で巨大な物理の波の振動であり、宇宙の中にある物理の振動が速ければ速いほど、強ければ強いほど、より大きな力を顕します。スワーミージーはラージャ・ヨーガの中で、蜘蛛の巣をほぼ無限の速度で加速させることができれば、樫の木を切り裂くことができるほど、鉄網のように頑丈なると、述べています。もう一つの物理学の例を申し上げると、「音波」を加速させることにより、音波が「光」になり、光の周波数を高め、更にその光子を同じ方向に向かわせると、鋼鉄を切り裂くことができる強大な「レーザー光線」になります。同じように、注意散漫ではなく、強烈な集中力と自制心によって、心の無限の力が徐々に現れてきます。そのような強い心は、人生のあらゆる側面において成功するし、高い集中力をもって神を瞑想したり、自己実現に励んだりすることもできます。
現代社会のことを考えると、コンピューター、携帯電話、タブレット、インターネットなどの普及により、私たちの注意力を奪うものがはびこり、心の注意散漫を助長しています。最近の研究によると、我々の注意力は劇的に低下しています。例えば、2015年のマイクロソフト社の研究によると、デジタル社会に生きる現代人の集中力の長さは、なんと、「金魚」よりも短く、「8秒」にも満たないそうです!心理学の研究でも、「心ここにあらず」の状態が本質的に不幸な心の状態であると示されています。そのような長く集中できない心で、どうやって人生で成功するでしょうか?霊的な修行も、仕事も、家族や人間関係も、上手くいかないでしょう。したがって、心を正しく集中させることが非常に大切なことです。
理想的には、意志の力で心をコントロールし、完璧に集中させることができるはずです。しかし、これは私たちの多くにとって、最初のうちはほとんど不可能です。聖なるイメージだけに数分程度、集中して瞑想しようとすると、数秒ほど経たないうちには、雑念が入って別のことを考えてしまい、数分ほど経たないうちには居眠りをしてしまうでしょう。ですから、最初は、実現できる小さな目標達成に集中すればよいです。例えば、必ず毎朝早く起きて15分から25分の間瞑想をするとか、心の小さな衝動を自制するとか、毎日運動をするとか、等です。
こういうわけで、規律のある規律正しい生活を送る必要があるとわかります。スワーミージーはベルル・マトを設立したときに僧院に住む僧侶たちのための日課を作り、理想的な生活を送るように心がけました。歴史上の偉人はほぼ例外なく、規律正しい生活を送りました。規則正しい生活の内容を簡潔にいうと、朝から晩まで理想的な日課を守ることであり、早寝早起きをし、運動、瞑想、仕事、勉強、余暇に適切な時間を割き、深く集中しながらすべての仕事を完璧にこなし、挙動を慎み、言動を一致させ、欲望、怒り、貪欲をコントロールし、常に真実を語り、無私の精神で仕事や奉仕活動を行う等です。これらはパタンジャリの心理学体系と一致しており、即ち「ヤマ」と「ニヤマ」の規則、前者は「自制の道徳的指針」、後者は「心の安定を高める修行法」であり、これらを実践することにより、心の否定的な傾向を減らし、心をより安定させることができます。このように、一歩ずつ前に進み、やがて三昧の境地に到達します。
ここまでの話は合理的でロマンチックに聞こえるかもしれないが、前述した心の状態を育むプロセスは正に千里万里の困難な旅なのです。スワーミージーの励ましの言葉は、私たちが最後まで精神を高く保ち、耐え忍ぶための「強壮剤」のようなものです。ということで、最後に、スワーミージーの格言を引用しながら、短いコメントを付け加えて終わりたいと思います。
(1)『まず自分自身を信じ、そして神を信じなさい。世界の歴史は、自分を信じた僅かな数の人間の歴史である。その自信が内なる「神性」を呼び起こす。だから、私たちは自信があれば何でもきる!』コメント:エイブラハム・リンカーンやマハトマ・ガンジーのような偉大な人物の生涯を見ると、彼らは自分自身への限りない自信と絶え間ない自己努力によって偉人になったことが分かります。
(2)『失敗するのは、無限の力を発現させるために十分な努力をしないときだけだ。成功するためには、とてつもない忍耐力を持ち、とてつもない意志力を発揮しなければならない。「私は大海を飲み干すぞ!」「私の意志で山々は崩れ去るぞ!」と、忍耐強い魂の持ち主が固く言う』。コメント:したがって、規則正しい生活、自制心、緩まない覚悟が重要です。規則正しい生活を送ることにより、十分な精神的・身体的スタミナを持つようになり、この長い修行のレースを完走するよう、限りない努力の発現の源となります。「さあ、立ち上がれ目覚めよ、目標に到達するまで、立ち止まるな!」
※(固有名詞はニュースレターの統一フォームに変更させていただきました(担当者))
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スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの励ましの言葉「弱さと強さ」
公的研究機関研究員
平野康之
私は公的研究機関において機械工学の研究員をしています。1/1000mm以下の微細な加工や人工ダイヤモンドの加工に従事し、企業との新技術の開発に携わっています。また、学生の時からネパールの寺院におけるエコ発電や大地震で被災した寺院の再建を支援しています。しかし2018年までヒンドゥ思想を学ぶ機会は残念ながらありませんでした。2018年にヴェーダーンタ協会のリトリートに参加し、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(スワーミージー)とその言葉を知りとても印象に残りました。それ以来、度々その言葉を思い出しています。
その言葉とは「弱さの治療薬とは、弱さについて考える事ではなく、強さについて考える事だ。」という言葉です。
その後、スワーミー・メーダサーナンダ師から「ギャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)の本を読んで下さい」との助言を頂きました。「ギャーナ・ヨーガ」はとても興味深い本でした。
今回この発表の依頼を受けて、私は「ギャーナ・ヨーガ」を読み返し、同時にスワーミージーの言葉はどこから来たのかを調べました。この言葉が記されている「立ち上がれ目覚めよ」の冊子の出典を見ますと「ギャーナ・ヨーガ」である事が分かりました。「ギャーナ・ヨーガ」は、1896年のロンドンでの講演の聴衆による記録が主であり、スワーミージーがご存命の1899年に書籍として出版されました。この「弱さと強さ」に関する言葉は、連続講演の最後である「10章 魂の自由」で言及されています。
講演された1896年、今から約130年前はどんな時代だったのでしょうか。1893年にはディーゼル機関の特許が取得され、その原理は今もトラック等の大型貨物輸送を支えています。1895年には映像撮影とその写映装置が実用化され、人類は「動き」を記録できるようになりました。科学が社会において本格的に応用されてきた時代でした。同時にイギリスでは1897年まで20年以上の大不況のただ中でした。もしかすると今日よりも社会の変化は大きく、苦しんでいた人々は多かったのかも知れません。
私が感銘を受けた「弱さと強さ」についての言葉は、「ギャーナ・ヨーガ」では「立ち上がれ目覚めよ」と同じ言葉ではありませんが、同じ内容が詳しく記されています。「ギャーナ・ヨーガ」での該当箇所の抜粋をこれから引用します。
理想は、常に非常に厳しいものです。我々が、今すぐに真理を悟る事ができないからと言って、闇に入り、弱さと迷信に屈する事が、何かの助けになるのでしょうか。弱さを教え込むやり方には、ことごとく反対です。
真理だけが、力、強さを与えます。現実の真理に向かって、進む事以外に、我々を強くするものはありません。また、強くならなければ、人は決して真理に到達できません。従って、心を弱くする、迷信的にする、憂うつにする、また、あり得ない事や神秘や迷信を、追い求めさせるような考え方を、私は好みません。その結果が危険だからです。
力、強さは、この世界の病を治す薬です。力、強さは、貧しい者が、富める者に圧迫された時に用いなければならない薬です。
「私は天の栄光に満ちた者である。私は、美徳や悪徳にも、また幸福と不幸のいずれにも縛られない」これが、我々が唱えるべき唯一の祈りである、とヴェーダーンタは言います。我々は至福者である、と自分にも、また他のあらゆる人々にも、言ってきかせる事です。我々が、これを繰り返し続けて行くうちに、力、強さがやってきます。
ロンドンでのこの講演は、強弱の二元論の要素を用い科学技術が進展した近現代人に向けたもですが、そのメッセージの核は一元論であり、時代に関係なく普遍的です。科学技術は、物事を細かく分けて、数字の大小、優劣等を比較する事で発展してきました。科学技術を土台としている現代社会は、即ち、二元論によって構築されていると言い換える事ができます。また、私達は比較する二元論の考え方をする事が多いと思います。この二元論の世界では、分ける事や比較に、疲弊する事があります。科学技術の中にいる私はそれを避ける事ができませんし、皆様も同様ではないでしょうか。さらに、科学や社会とは無関係に、苦しみや悲しみは、突然訪れます。
それでは、私達は強さについての普遍的な考えを身に付ける事ができるのでしょうか。スワーミージーは、「そもそもあなたは何も失っていない」と言います。誰でも一元論の経験があると思います。海や山を見ている時、好きな音楽を聴いている時等、そこには比較はなかったのではないでしょうか。
ここで一つの質問をします。「弱さとは一体何なのか?」スワーミージーは、考える必要はない、と言われますが、私の回答は次の通りです。「私たちに弱さというものは存在しない。もし弱さを感じたら、それは幻である。この世界に唯一存在するのは、至福者としての私達である。力、強さを備えた私達である。」
時には二元論から抜け出し、一元論について考えてみませんか。心が軽くなり前向きになれると思います。もし、心が弱くなってしまった時には、この特効薬を皆さんは実はすでにお持ちである事を思い出して下さい!そして、この薬が効いたのなら他の人達とも是非シェアして下さい。
私は、ギャーナ・ヨーガから一元論というヒマラヤ山脈を目にする事ができました。ヒマラヤを見る方向やその登山道はギャーナ・ヨーガ以外にもあります。深い瞑想を主体としたラージャ・ヨーガ。誰しもが持つ見返りを求めない愛情の、その方向と優先順位を神仏に向けるバクティ・ヨーガ。私達一人一人の仕事、職業、役割は天から与えられたものだと信じ、どんな仕事にも、成果を求めずに全力で取り組むカルマ・ヨーガ。私は遠くからヒマラヤを見たに過ぎませんが、距離や時間を超越し、ただ存在するヒマラヤに安らぎを感じます。
最後に、一元論について、皆様と一緒に考える機会を設けて下さったスワーミー・ヴィヴェーカーナンダに深く感謝致します。
※(固有名詞はニュースレターの統一フォームに変更させていただきました(担当者))
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忘れられない物語
「神の生ける存在」
望んでいたサーダナの成果を得ることができなくて絶望したプラン・チャンドは、グルの元へ行った。
「無駄でした!ナーラーヤナの偶像を半年間礼拝しましたが、何の効果もありませんでした。どうか、もっと強力なマントラともっと強力な神をお勧めください」 グルはそれまでにプラン・チャンドにナーラーヤナ・マントラを伝授し、礼拝のためにナーラーヤナ神の小さくて美しい像を与えていた。プランは定期的に礼拝し、ジャパを絶え間なく続けた。なぜかは神のみぞ知るが、像が彼を祝福している様子はなかった。
グルはプランに微笑みかけた「息子よ、このシヴァ神の像を受け取りなさい。今からシヴァ・マントラ、聖なるパンチャクシャラをあなたに教えよう。シヴァ神を信仰と献身をもって礼拝しなさい。シヴァ神はボレーナート神だ。シヴァ神の機嫌をとるのは簡単である。シヴァ神はすぐにおまえを祝福してくれるだろう」 プラン チャンドは大喜びした。その後の半年間、プラン チャンドはジャパとシヴァ神への礼拝に没頭した。ナーラーヤナ像は彼の礼拝室の祭壇の上の埃っぽい棚に置かれた。
「こちらもダメでした。何の効果もありません。主よ、私を試さないでください。どうか、すぐに私を祝福してくださるマントラと神像を与えてください」とプラン・チャンドはグルに懇願した。グルは再び微笑んだ。悟りの機は熟したが、弟子が自ら経験を通じて得るであろう、とグルは感じた。
「よしよし、息子よ。この時代、マザー・カーリーが最も慈悲深い。カーリー女神のこの像を礼拝しなさい。ナヴァルナ・マントラを唱えつづけなさい。そうすればまもなくカーリー女神の慈悲が下るだろう」 今回、プラン チャンドは一ミリの疑いも持たず、完全に信じていた。カーリー女神の礼拝が始まった。シヴァ神はナーラーヤナ神と同じ棚の上に追いやられた。プランは深い信仰と感情で、マザー・カーリーの像の前で線香を振った。煙が立ち上る。プランは煙がシヴァ神とナーラーヤナ神が置いてある棚にまで届くのを見て激怒した。彼は線香を置いて立ち上がった。
「ああ、このシヴァ神は、私にあがめられることも私を祝福することも拒否したのに、線香の香りは嗅ぐってどういうことだ?私は今、マザー・カーリーを礼拝しているのだ。芳香がシヴァ神の鼻に入るなんて許さん。シヴァ神の鼻を綿で塞いでやる」 プランは実行に移した。錆びたシヴァ神の像を手に取り、その鼻に綿を詰め始めたのだ!
なんと! シヴァ神の像が消えた。プランの前に神がお立ちになり、慈悲と同情に満ちた微笑みを浮かべていた。プランはひざまずいた。
「プランよ、どんな恩寵も請うがいい。私はおまえの信仰に満足しておる」
「神様、まず教えてください。私は困惑していています。私があなたを熱心に礼拝し、パンチャクシャラ・マントラを半年間繰り返し唱えても、あなたは私を祝福してくださいませんでした。それなのに、私があなたの像を放り出して礼拝をやめたら突然姿をあらわされるなんて。これはどういうことですか?」
「我が子よ、何も不可解なことなどない。お前が私を単なる像、単なる金属として扱い、勝手放題、気まぐれに礼拝した挙句、棚の上に追いやったのだぞ。私が自分自身をあらわすことなどできるはずがなかろう。 だが、おまえが神像を生きた存在として扱い、線香が鼻に入らないように綿で塞ぎ始めた時、お前が像の中に私の生きた存在を認めたことが分かったのだ。そうなったらお前から身を隠すことなどできるはずがないではないか」
言葉を失い、悟りを得たプランは、シヴァ神に頭を下げ、シヴァ神の愛に没入した。プランはどんな恩寵も求めなかった。神の愛の中にすべてを見つけたのだから。
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今月の思想
なぜ努力するのか?
(ジッドゥ・クリシュナムルティとの対話より)
質問者「あなたは、努力こそが私たちを破滅させる、人生は闘いの連続である;幸福な人間は努力にとらわれない人間だけだ、とおっしゃいました。しかし、努力せずにこの世で仕事などできるでしょうか?」
クリシュナムルティ「なぜできないのですか? 努力とは何でしょう? 努力とはエネルギーの矛盾ではないですか? 一つのエネルギーがもう一つのエネルギーに反します」
質問者「それは一方向への着実な推進力になりませんか?」
クリシュナムルティ「では、もし一つの衝動、追求があるとき、矛盾はどこにありますか? エネルギーは浪費されていません。葛藤もありません。散歩に行きたいなら、散歩に行きます。でも散歩に行くべきなのに、何か他のことをしなければならないとしたら、矛盾が始まり、葛藤が生まれ、努力が生まれます。ですから、努力を理解するには、私たちがいかに矛盾しているかを見つけ出さなければならないのです」
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