ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)
日本ヴェーターンタ協会の最新情報
2023年02月 第21巻 第2号
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かく語りき――聖人の言葉
注意深く生きなくてはなりません。あらゆる行為には結果が伴うのですから。他者に対して厳しい言葉を使うのはよくないことです。もし使ったなら受け手の苦しみに責任を持ちなさい。
…ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィー
私たちは、自らの思考の産物だ。だから何を考えるかに注意しなさい。言葉は二次的なものだ。思考は生きていて、遠くまで行くのだよ。
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
シュリー・ラーマクリシュナとシュリー・マー・サーラダー・デーヴィーは、別々の形として顕現なさいましたが、本質的には一つでした。聖典は「主よ、あなたは男性です。あなたは女性です」と言っているでしょう? 師は幾度となく私に、師とマザーに違いはない、とおっしゃいました。
…スワーミー・ヨーガナンダ
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目次
・かく語りき――聖人の言葉
・お知らせ
・2023年1月15日生誕祝賀会 午後の講義
「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ ― 至福の権化」
スワーミー・メーダサーナンダ
・2023年1月1日挨拶
「新年において」
スワーミー・メーダサーナンダ
・忘れられない物語
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お知らせ
各プログラムに参加を希望される方はご一報ください。引き続き、マスク着用、ソーシャルディスタンス等のご協力をお願いいたします。
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2023年3月の生誕日
2023年3月
シュリー・ガウラーンガ 3月7日(火)
スワーミー・ヨーガナンダ 3月11日(土)
シュリー・ラーマ ナヴァミ 3月30日(木)
・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。
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「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ ― 至福の権化」
スワーミー・メーダサーナンダ
本日の講義のテーマは、「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ、至福の権化」です。これからお見せする写真を見れば、スワーミージーが至福の権化であることが分かるでしょう。彼は喜びと活力に満ちています。西洋で滞在中のある日、スワーミージーが数名の信者と森で過ごしていたときのことです。彼は寝そべって信者たちとおしゃべりをしていました。ある信者が彼に近づいて、写真を撮らせてください、と頼みました。スワーミージーは、最初は断っていましたが信者たちが何度も頼むので、さりげなく立ち上がった時に撮られたのがこの写真です。何の準備もせず、ポーズも取らずに自然体で撮られたので、この写真はとてもナチュラルです。
ウパニシャドの中に、「ブラフマンを知る者はブラフマンになる」という言葉があります。
ब्रह्म वेद ब्रह्मैव भवति
Brahmaved brahmaiva bhavati
ブラフマヴィド ブラフマイヴァ バーヴァティ
これには非常に深い意味があります。ブラフマンの本性は、「絶対の存在、絶対の知識、絶対の至福」です。ではなぜ、「絶対の」なのでしょうか? なぜなら、それとは別の種類の「相対的」な「存在、知識、喜び」があるからです。それらは、「相対的で、小さく、衰える」という性質があります。一方で、至高のブラフマン(サッチダーナンダ)は、「永遠、絶対、最高」です。「ブラフマンを知る者はブラフマンになる」というとき、実際は、ブラフマンンの本性、すなわち、絶対の存在、絶対の知識、絶対の至福と同化する、ということを意味します。
ところで、祭司や僧侶の一般的なイメージとはどのようなものでしょうか? 一般的に西洋で僧侶のイメージは、穏やか、静か、まじめ、厳粛、微笑みはするものの、大声では笑わない。話をしても軽い世間話はしない。これらが人々の僧侶に対する一般的なイメージです。ですので、西洋世界がスワーミー・ヴィヴェーカーナンダに出会ったとき、彼らはいささかショックを受けました。というのは、彼らは、喜びに満ち、心から大声で笑い、冗談を言い、可笑しいことが好きな僧侶を見たからです。ときどき彼らは「スワーミージー、あなたも真面目になる時があるのですか?」と尋ねたほどです。そうすると彼はまじめを装って「ああ、私だって、時には真面目になるよ。それがいつだか知っているかい? お腹が痛い時だよ」と言いました。
ここで、スワーミージーがいかに楽しいことが好きだったかを、たくさんの例を使ってお話します。主イエスも「花婿と一緒にいるときは、楽しむべきだ」と言いましたね。シュリー・ラーマクリシュナの人生を見ても、彼がどれほど喜びを感じていたかが分かります! シュリー・ラーマクリシュナが弟子たちをどれだけ笑わせたことか。これらの出来事はすべて『ラーマクリシュナの福音』に記録されています。それだから『ラーマクリシュナの福音』は読み飽きることが全くないのです。
シュリー・ラーマクリシュナについて、ホーリー・マザーは述べました。彼が肉体を去った後に、多くのシュリー・ラーマクリシュナに会ったことがない信者がやってくると、ホーリー・マザーはシュリー・ラーマクリシュナについて「私は、彼が喜んでいないのを見たことがありません。子供といようと、若い人、年配の人、女性、紳士といようと、誰といても嬉しそうでした。彼は喜びに満ちあふれていました。それが彼の性格の特徴の一つです」と言いました。
アスウィニ クマール ドゥッタは有名な教育者で社会改革者でした。彼は時々シュリー・ラーマクリシュナを訪ねました。彼はアチャラーナンダという僧侶について、シュリー・ラーマクリシュナと話をしたことがあります。アチャラーナンダは偉大な学者でした。ある日、シュリー・ラーマクリシュナはアスウィニに「私とアチャラーナンダのどちらが偉いだろうか?」と子供のように尋ねました。アスウィニ・ドゥッタは公正な人でした。彼は「アチャラーナンダは偉大な学者ですよ。あなたとは比較になりません。あなたは字もほとんど読めないのですから」と言いました。それを聞いたシュリー・ラーマクリシュナは、少ししょんぼりしました。しかしその後、アスウィニ・クマールは重要コメントをしました「でも、あなたは喜びにあふれています!」。シュリ・ラーマクリシャはこれを聞いてとてもお喜びになり、「そのとおり、私は喜びにあふれているよ!」と答えました。
大病を患った人のもとに、知人たちが尋ねたときのことを想像してください。どんな空気が流れると思いますか? 心配、悲嘆、悲しみ、という空気が流れるのが普通でしょう。しかし、シュリー・ラーマクリシュナの最後の数か月のことを考えてください。彼はコシポルのガーデンハウスで信者たちの世話を受けていました。重病でしたので、時々吐血もしました。それなのに、そこでの状況を思い出してください。それは驚くべき光景です! 苦しみや悲しみが蔓延することなどありませんでした。シュリー・ラーマクリシュナは喜びに満ちあふれており、他の人たちをも喜びで満たしたのです。彼の外側は病気でしたが、内側には途切れることなく安定した喜びがあふれていました。本当は、そのことが彼の周りの空気を変化させました。
しかし、この状況について間違ったイメージを持たないでください。いつも喜びにあふれている人は、浅はかな人だと思われがちです。しかし、シュリー・ラーマクリシュナの場合は違います。彼はある瞬間はサマーディ、神意識に没入し、次の瞬間には、普通のレベルに降りてきて喜びに満ちていました。つまり、彼の場合、これら二つの両極に触れていたのです。
スワーミージーの場合も同じです。西洋での滞在中、彼はたった一人で唯物論者や偏狭なキリスト教宣教師に立ち向かわなければなりませんでした。講義をするために遠路を旅することもたびたびでした。凍えるように寒いアメリカで、雪が降ることもありました。しかも、泊まる場所や食べ物があるかどうか、定かでないこともあったのです。しかし、そんな逆境にあっても、スワーミージーの内面は喜びに満ちていました。彼はそんな時でさえ信者への手紙に、「昨夜、私のハートは喜びに満ちあふれ、それを収めきれず、まったく眠ることができなかったのだよ」と書いたのです。想像してください。心配や不安で眠れない人はいますが、喜びがあふれて眠れない人がいるのですよ!
先ほど言ったように、スワーミージーは喜びに満ちていたし、冗談も言いました。特に講義の後の質疑応答の時の冗談は秀逸でした。彼が冗談を交えて聴衆の質問に反論した例は少なからずあります。覚えておくべきことは、当時、多くのキリスト教宣教師がキリスト教を布教するためにインドを訪れていたということです。宣教活動のために彼らにはお金が必要でした。そのお金は主にアメリカからの寄付金が頼りでした。彼らは寄付金を集めるために、とてもひどいインドのイメージを植え付けていました。ですので、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの講義の後、「スワーミー、インドでは子供は川に投げ捨てられワニに食われる、という子供の犠牲供養があると聞きました。それは本当でしょうか?」と尋ねられるほどです。するとスワーミージーは、「ああ、そのとおりです。私も赤ん坊のときにガンジス川に投げ入れたんですよ。でも丸々太っていたので、ワニも私を飲み込めませんでした。だから私はこうやって生き延びています」と返しました。また、別の人が同じような質問をしました「女児よりも男児を好むので、女の赤ん坊が生まれると、ガンジス川に放り込むって本当ですか?」。 スワーミージーの答えはこうです「本当です。だから、インドでは男性が子供を産むのです」。
別の例もあります。ある人が尋ねました。「スワーミー、僧侶(モンク)とサル(モンキー)の違いは何ですか?」 「そんなに違わないさ。ソット(Sot)とスコット(Scot)の違いくらいだよ」。ソットとは大酒飲みで、スコットとはスコットランド出身の人のことです。スワーミージーはその質問者が、スコットランド出身でしかも大酒飲みであることを知っていました。
スワーミージーはよく自炊をする必要があったので、小さな台所を持っていました。彼はインドの信者や友人に、スパイシーな料理ができるようにスパイスを送るように頼んでいたので、スパイスを入れる小さな瓶をたくさん持っていました。ある年配の紳士がたびたびキッチンに入ってきては、スワーミージーに瓶の中身について尋ねたり、時には瓶からスパイスを出して味見をしたりしました。スワーミージーは少しイライラしましたが、礼儀上、何も言うことができませんでした。さて、赤唐辛子が入っている瓶がありました。ある日、その紳士が赤唐辛子の入った瓶を指さして、「スワーミー、この中には何が入っていますか?」と尋ねました。スワーミージーは「インドのプラムだよ」と言って、すぐに台所から出ました。これを聞いた年配の紳士は、その瓶からいくつかの赤唐辛子を取り出して食べ始めました。するとすぐに、胃が焼けるように感じました。それからというもの、その年配の紳士はスワーミージーの台所に入ることはありませんでした。
スワーミージーの講義に出席していた別の紳士の話です(彼はハゲ頭でした)。スワーミージーの講義で、特にヴェーダーンタの講義では、ブラフマンの概念について何度も言及されました。その紳士は講義の後、ハゲ頭に手をこすりつけて、しばしばこう言いました、「スワーミージー、結論はこれですね、私たちは皆ブラフマンです」。ですから、その人が来るたびに、スワーミージーは「ブラフマンさんが来ました」と言いました。
スワーミージーが西洋から戻ったあと、彼は兄弟弟子たちとともにベルル・マトに滞在していました。彼は、兄弟僧侶たちも講義ができるように、彼らを訓練すべきだと感じました。そこで、順番にベルル・マトの僧侶たちが講義を行うように手配されました。ある時、スワーミージーはコカ・マハーラージ(スワーミー・スボーダーナンダ)に講義をするように頼みました。スボーダーナンダジーは恥ずかしがりやで聴衆の前で話をしたことがなかったので、とても嫌がりました。しかし、スワーミージーは耳を貸しませんでした。そこで、しぶしぶスボーダーナンダジーが立ち上がって話そうとしたとき、突然強い地震が始まり、激しく揺れました。もちろん、誰もが安全のために逃げ出しました。状況はだんだんと元に戻りましたが、スボーダーナンダジーの講義が行われることはなく、彼はとてもホッとしました。その後、スワーミージーはこの出来事をからかって、「コカは大地を揺るがすようなスピーチをした!」と言っていました。
ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュは偉大なシュリー・ラーマクリシュナの在家信者で、劇作家、俳優、詩人でもありました。彼は多彩な人だったのです。彼は無軌道な生活を送っていましたが、最終的にはシュリー・ラーマクリシュナの信者になりました。彼は、「シュリー・ラーマクリシュナは神の化身である」と強く信じていました。無限なるブラフマン、神がシュリー・ラーマクリシュナとして化身なさったと信じて疑わなかったのです。これは『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』の中にある話です。信者たちが、シュリー・ラーマクリシュナは神の化身である、と信じ始めても、初めスワーミージーはそのことを信じようとしませんでした。しかし後になって彼も信じるようになりました。ある時、スワーミージーはギリシュ・チャンドラ・ゴーシュを少しからかって、さらにはギリシュのシュリー・ラーマクリシュナへの信仰がどれほど深いものであるかを人々に示したいと思いました。スワーミージーはギリシュ・チャンドラのことをG.C.(Girish Chandraの略称)と呼んでいました。そしてある日、彼は信者たちの会合でギリシュに向かって議論を吹っ掛けました「ねえGC、シュリー・ラーマクリシュナが神の化身だなんてありえないよ。神は無限だろう? どうすれば無限なものが有限な人間の体としてあらわれることなどできるというのだ? そんなの不可能だよ」。 しかしギリシュ・ゴーシュは、それは可能であること、シュリー・ラーマクリシュナは神の化身以外の何者でもない、ということに100パーセントの確信がありました。そこで二人は激論を交わしました。どちらも鋭い知性の持ち主で討論の達人でしたので、議論はだんだんと白熱していきました。スワーミージーは穏やかで静かで落ち着いていましたが、ギリシュはだんだんと感情的になり興奮しました。スワーミージーは、わざとギリシュをもっと興奮させました。
とうとうギリシュ・チャンドラは自分を抑えられなくなり、テーブルを握りこぶしで叩いて言いました、「本当に君ってやつは。それは可能なのだ、私は見たのだから」。それを聞いたスワーミージーはすぐにギリシュ・チャンドラをぎゅっと抱きしめました。そしてその場に集まっていた人々に「わかったかい、ギリシュの信仰がどれほど深いものか」と言いました。本当は、スワーミージーはギリシュの信仰を試したかったので議論を始めたに過ぎなかったのです。
皆さんにシェアしたい最後の話をします。西洋である時、スワーミージーは彼の弟子や信奉者と旅をしていました。彼らは列車(汽船)に乗らなければなりませんでしたが、少し遅れていました。スワーミージー以外のみんなは早く着こうと急ぎましたが、スワーミージーだけは全く急ぐ素振りを見せませんでした。彼は自分のペースで歩いて移動しました。一人の信者が不平を言いました「スワーミージー、もっと急いでくださらないと、列車に乗り遅れますよ」。 するとスワーミージーは穏やかに言いました「列車(汽船)に乗り遅れても、次のに乗ればいい」。スワーミージーのその態度のせいで、彼らは本当に何度か列車や汽船に乗り遅れるという経験をしました。そこで少しうんざりした信者がある時言いました「あなたたちインド人には時間という感覚がない」。するとスワーミージーは「そのとおりだ。私たちは永遠のうちに生きているのだもの。君たちはいつも時間に束縛され、条件づけられている。それに比べて私たちは永遠のうちに生きているのだよ」と言い返しました。
スワーミージーの深い答えを考えてください。実際、スワーミージーの答えは不誠実なものでも思い付きの言葉でもありません。悟った魂は、本当に時間と空間を超越しているのです。彼はそれらに束縛されません。人が時間と空間を超越したとき、その人は永遠のうちに生きます。インドでは、永遠のうちに生きる、というコンセプトがあります。
今日の講義の目的は、私たちが時として遭遇する悲惨な状況、問題、トラブルの中でさえ、どうすれば喜びを得ることができるかを自問することです。
シュリー・ラーマクリシュナは、喜びには、ヴィシャヤーナンダとバジャナーナンダ、ブラフマーナンダの三種類があると言いました。ヴィシャヤーナンダは欲望を満足させて得られる喜び、バジャナーナンダは神の瞑想から得られる喜び、ブラフマーナンダとは神を悟った喜びです。ほとんどの人には、ヴィシャヤーナンダの経験しかありません。それは世俗的喜び、物質的喜びであり、有限で、さまざまな種類の反動に満ちており、ほとんどの場合、この種類の喜びは最終的には苦しみになります。しかし、それよりも良いのはバジャナーナンダです。その喜びは、例えば神の御名を歌う、瞑想、主について熟考する、などの霊的実践から得られるものです。しかし最高の喜びはブラフマーナンダです。その喜びはブラフマン、最高の至福を悟ったあとにだけ経験できるものです。バガヴァッド・ギーターはそのことについて言います:
バーッヒャ・スパルシェーシュ アサクタートマー ヴィンダティ アートマニ ヤット スカム/
サ ブラフマ・ヨーガ・ユクタートマー スカン アクシャヤン アシュヌテー// 5.21
外界の感覚的快楽に心惹かれることなく、常に内なる真我(アートマー)の楽しみに浸っている人は、常に至高者(ブラフマン)に心を集中し、限りなき幸福を永遠に味わっている。
これが私たちの人生の最高のゴールです。
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2023年1月1日
「新年において」
スワーミー・メーダサーナンダ
一般的に人びとは、元旦を「祝祭の日」、つまりたくさんの楽しみ、料理、外出の日として捉えています。
これは一般的なイメージです。しかし、私たちの信者の中には、そのような世俗的な喜びは求めず、ヴェーダーンタ協会に来る人もいます。インドで元旦と言えば、一般的にはピクニックに行って、ずっと前から考えた献立のさまざまな素晴らしい料理を食べたり、午後には歌を歌います。夕方になると疲れて、そして翌日からは通常の生活が始まるのです。
私たちは自分の人生について考えなければなりません。もちろん楽しみも必要ですが、仕事も必要です。また、私たちは徐々に歳をとります。私たちの人生は限られているのです。老後はすぐそこです。そして私たちは絶対に心の平安が大事です。深く考えましょう、心の平安を得るために私たちが何をしているか。そのために、新年の元旦に、誓いを立てましょう:
「私は、自分の仕事面だけでなく、価値観、心の平安、霊的進歩、という見地からも自分自身を豊かにする、そのための助けとなるような生活をします」と。
これが動物と人間の違いだからです。動物は肉体レベルで生きています。一方、人間は肉体レベルだけでなく、心的、知的、霊的レベルでも生きています。私たちは人間です。もし肉体的、心的、知的、霊的レベル、という全レベルで成長する努力をしないのなら、この貴重な人間としての人生が無駄になってしまいます。
さて、今日皆さんはヴェーダーンタ協会に来ました。ここでは常に人生全体についての話をします。それがヴェーダーンタ協会の特徴です。ですので、今申し上げた事実についての議論をしたいと思います。人生全体にわたる話をする場所は、他にほとんどありませんから。
まず、達成できる到達可能な目標を設定することが大事です。そして、自信がついたら、目標をより高く設定しましょう。最初に非常に高い目標を設定してしまうと、それに到達できず、欲求不満を感じるかもしれません。しかしながら、私たちの目標は、先ほど述べた全レベルを網羅すべきです。そうでなければ充実した人生は送れないからです。
充実した人生は、お金を稼ぐだけで得られますか? 名声を得るだけで得られますか? 素晴らしい家族と持つだけで達成できるでしょうか? いいえ、できません。充実した人生は、それらからは得られないのです。このことについて、私は『ナヤク』というベンガル語の映画を思い出します。その映画の全ての場面は列車の中での出来事です。映画は、ある有名な俳優が列車で旅をしており、記者が彼にインタビューをしている、という設定です。記者が映画の主人公に「あなたはとても有名人です。あなたの人生は充実していますか?」と尋ねると、俳優は「いいえ。私にはお金も名声もあるが、心が空虚なのだ」と答えました。私たちは、一人一人が熟考すべきです。どうすれば充実した人生が送れるのかを。多国籍企業で大きなポストを得ることによってでしょうか? 巨万の富を築くことによってでしょうか?
今日は特別な日です。新年であることとは別に、シュリー・ラーマクリシュナの弟子の間では、カルパタル・デーと呼ばれています。1886年のこの日、シュリー・ラーマクリシュナは数名の信者の霊的願望をかなえられました。カルパタルとは「願いを叶える木」を意味します。この木の下に座れば、その人の願いはすべて叶えられます。ですので、あなた方全員が充実した霊的人生を送るために、シュリー・ラーマクリシュナに祈ることが、私の願いです。なぜなら、シュリー・ラーマクリシュナは、ここにおられます、写真の中だけの存在ではありません、今、ここに生きておられるのです。そして祈ることで、あなた方が協会に来たことは、実り多いものになるでしょう。
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—忘れられない物語—
「仏陀の二つの物語」
仏陀以前でさえ、インドでは「偉大なる放棄」は新しいものではありませんでした。しかし、涅槃の後の詩をごらんなさい!
雨降りの夜、仏陀は牛飼いの小屋にやって来て、滴る軒下の壁に身を寄せる。
雨風が今にも吹き荒れそうだ。
そんな中、牛飼いは窓から顔をチラッとみて、「ハッハッ!黄色い衣の人!そこにいなさい!あなたにはそこがお似合いだ!」そして彼は歌い始める。「私の牛は家畜小屋、火は明るく燃えている。私の妻は無事で、赤子はすやすや眠る! それゆえ、雲よ、今夜、雨を降らすなら、降らせよ!」 。
すると仏陀は外から答える「私の心は統御されている。私の感覚はすべて刈り取られている。私のハートはぐらつかない。雲よ、今夜、雨を降らすなら、降らせよ!」 。
再び牛飼い「畑の収穫は終わり、干し草は納屋にしっかりとある。小川は満ち、道路は堅固だ。それゆえ、雲よ、今夜、雨降らすなら、降らせよ!」
牛飼いがやっと立ち上がるまで、そのようなやりとりが続きました。悔い改めと驚嘆、そして牛飼いは弟子となるのです。
もう一つ、床屋の話よりも美しいものがあるでしょうか? 床屋が仏陀の恩寵を受けて心を打たれる話です。
「祝福されたお方が、私の家、私の家、床屋の家の前を通り過ぎられました!」 「私が走っていくと、彼は振り返り私を待ってくださっていました。私を待っていてくださったのです、床屋の私を!」 「私は『尊師、あなた様とお話してもよろしいですか?』と聞きしました」 「すると『いいですよ!』とおっしゃいました。床屋の私に『いいですよ!』とおっしゃったのです」 「そして私は言いました『私のような者にも涅槃はおとずれますか?』」 「すると尊師は『ああ!』とおっしゃいました。床屋の私にさえも!」 「わたしは言いました『あなた様について行ってもよろしいでしょうか?』」 「するとおっしゃいました『ああ、いいとも!』と。床屋の私に!」 「私は言いました『尊師、あなた様の近くにいてもよろしゅうございますか?』」 「するとおっしゃいました『ああ、いいとも!』と。この私に、この哀れな床屋に!」
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
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今月の思想
一つの考えに夢中になる者だけが光を見る。あちこち少しずつかじる者は、何も得られない。彼らは、ほんのひと時、神経を興奮させるかもしれないが、そこで終わりだ。彼らは性質の管理下で奴隷となり、感覚を超越することはない。本気でヨーギーになりたい者は、きっぱりと、いろいろなものをかじることをやめねばならない。
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
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