今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

20243月 第22 巻 第3

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かく語りき――聖人の言葉

 

神が本当の代理人であり、自分自身は何をする力もないということを知っているなら、人はここで肉体を持った状態にあっても、真に自由なのだよ。

…シュリー・ラーマクリシュナ

 

すべての衆生は元来仏陀である。 

水と氷のようなもので、水がなければ氷は存在しない。

衆生の外(ほか)に仏陀はいない。

真実がどれほど近いのかを知らずに、私たちは真実を遠くに追い求める。何と残念なことであろうか!

…白隠禅師

 

優しさと愛はあなたに全世界を買うことができる。講義も本も哲学もすべて、優しさと愛よりも低い。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

 

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

202445月の生誕日

20231224日クリスマス礼拝

「主イエスと聖母ホーリー・マザーの教え」

レオナルド・アルバレス

202411

「カルパタル・デーのメッセージ」

スワーミー・メーダサーナンダ

2024217日スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭

「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダとマヤヴァティ・アドヴァイタ・ アーシュラム」

スワーミー・シャマーナンダ

・忘れられない物語

・今月の思想

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お知らせ

・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

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202445月生誕日 

 

シュリー・ラーマ                    417日(水)

シュリー・シャンカラーチャーリヤ         512日(日)

お釈迦様                        523日(木)

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20231224日クリスマス礼拝

 

「主イエスとホーリー・マザーの教え」

レオナルド・アルバレス

 

主イエスの母マリアについては、あまり情報がありません。私たちが知っているのは、彼女が非常に純粋な女性であったこと、古代の伝統によると、彼女も聖霊から生まれた、とされていること(ラテン語では「Regina sine labeoriginali Concepta」)、また、キリストの母となることで彼女はすべての罪から清められたことです。しかし全体として彼女は、神の御子を産み、人類の救い主の母となるという神からの特別の役割を与えられました。彼女は非常に謙虚な心でそれを受け入れ、生前は穏やかさ、謙虚さ、揺るぎない信仰、忍耐力、寛容さを体現しました。これらすべての特質はホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィーに非常に似ています。「ヨハネの福音書」では、主イエスは十字架上で母親と最愛の弟子ヨハネにこう言いました。「ヨハネ、こちらはあなたのお母さんです」その時以来、使徒たちは主イエスの母の世話をし、彼女は誕生したばかりのキリスト教運動の指導と支えとインスピレーションの源となりました。後の伝記によると、彼女は福音書の詳細の源でもあったそうです。今日、少なくともラテン・カトリック教徒にとって、彼女は神の母として知られ、主イエス・キリストと同じレベルにあり、罪人の救いに関してはおそらく主イエスよりも強力で慈悲深いでしょう。彼女は、主イエスから助けを得る望みがないときに祈られます。それが彼女が「Mary Auxiliatrix(マリア 手助けする者)」と呼ばれる理由です。この信念はカトリック教徒の間で非常に広まっています。ベネズエラでは、キャンパス内の教会にMary Auxiliatrixの大きな絵があり、そこでは彼女が地獄に行く運命にある男の足を掴んでその運命から救う姿が描かれています。彼女は原罪をもたらした誘惑の象徴である蛇の上に立っており、幼子イエスを腕に抱いています。

 

私は、ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィーは、神の救いの力、ヴィディヤ・シャクティの同じあらわれであり、すべての母性の特徴である、サットワ、慈悲、寛容、救済、解脱の、同じ体現だと信じています。彼女は、非常に敬虔で寛大な男性ラーム・チャンドラ・ムコパダイエと、同じく非常に敬虔で寛大な不屈の精神を持つ女性シャマースンダリ・デーヴィの間に生まれました。家族は貧しかったのですが、できる限り他者を助け、地域全体から非常に尊敬されていました。ホーリー・マザーは、両親の優れた資質のおかげで、自分はそのような家庭に生まれたとよく言っていました。

 

主イエスの両親も貧しいながらも非常に敬虔な人々でした。主イエスに実際にホーリー・マザーやシュリー・ラーマクリシュナのような兄弟姉妹がいたかどうかはわかりません。カトリックの伝統によれば、聖書の中で主イエスの兄弟について言及されているのは、いとこなどの主イエスの親戚のことを指しているそうです。それよりも、マリアの夫である聖ジョゼフは生涯禁欲主義で、自制心があり、純粋で素朴で敬虔な勤勉な人だったというイメージがあります。彼とマリアは理想的なクリスチャン家族を体現しているのです。

 

今日の話では、主イエスの生涯と教えと、ホーリー・マザーの生涯と教えの類似点を簡単に比較します。もし聖母マリアについてもっと詳しい情報があれば、二人の人類の母を比較できたことでしょう。主イエスとホーリー・マザーの生涯を見ると、苦しむ大衆に対する彼らの限りない同情心と、他者の罪を償うためには苦しみ、さらには死ぬことも厭わない姿勢が分かります。主イエスは人類の罪を贖うために十字架で亡くなりました。このことに関してホーリー・マザーも「シュリー・ラーマクリシュナは人類の罪を自ら引き受けられました」と述べています。ホーリー・マザーは慈悲深く何千人もの人々にイニシエーションを授け、彼らの罪を引き受けました。そのために起こった痛み、発疹、その他の病気が原因で、最終的には死に至りました。

 

彼ら二人の心は全人類に対して開かれていました。主イエスは弟子たちだけでなく、ローマの兵士、同様の信仰であるユダヤ教の宗派とは異なる宗派のサマリア人、ギリシャ人やシリア人、その他周辺諸国の人々にも教え、祝福しました。ホーリー・マザーもまたインド人だけでなく、娘を治すために祝福を求めに来たインド在住のイギリス人女性や、ポーランドから来た神智学者の女性などのヨーロッパ人、さらにはシスター・ニヴェディタ、シスター・クリスティーン、サラ・ブロックなどスワーミージーの西側諸国の弟子たちも受け入れました。

 

二人とも、堕落した人々や貧しい人々を救い出すためにやって来ました。主イエスは罪人たちと一緒に食卓につくことがよくありましたが、その理由を尋ねられると、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えました。ホーリー・マザーもまた、人々の罪を引き受けるとホーリー・マザーの健康状態が悪化するので、人々にイニシエーションを与えることを僧侶たちが阻止しようとしたときに、こうおっしゃいました「シュリー・ラーマクリシュナはラサゴラを食べるためだけにお生まれになったのでしょうか?」「この体はいつか死ぬにます。他の人に解脱を与えることのために私の体を差し出します。この目的のためだけに私は生まれてきたのですから」

 

さて、ホーリー・マザーの教えと主イエスの教えの類似点をいくつか見てみましょう。

ホーリー・マザー「いっさいのことは人の心にかかっています。心が清くなければ何一つ成し遂げることはできません」 「求道者はたとえグルの、神様の、そしてその信者たちの恩寵を受けても、『一つ』のものの恩寵がないと失敗する、と言われています。それは『心』です。求道者自身の心は自分に対して恩寵を示さねばなりません」

これに関して主イエスはおっしゃいました。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイによる福音書5:8)、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイによる福音書721

つまり、努力しなければ、心は自分に対して慈悲深くならず、神の恩寵も受け入れられません。

 

自分の霊的な実践を公にしてはいけません。個人的な実践は心と人格を構築するのに役立ちます。

ホーリー・マザーはおっしゃいました。「ひと気を離れた場所で霊性修行を行うことは大切です。木が若いうちは柵で囲む必要がありますが、大きく成長すると牛は害を及ぼすことができなくなります」

主イエスはおっしゃいました。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイによる福音書 6:6

 

世俗的なものへの執着を放棄する必要性。

ホーリー・マザーはおっしゃいました。「心が神以外のものを追い求めたときは、それをはかないものであると考え、神の聖なる御足に心を委ねてください。夫も、息子も、体も、それが何であれ、すべてはマーヤーです。これらはすべてマーヤーの束縛です。束縛から解放されない限り、人は自由にはなれません」

主イエスはおっしゃいました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない;自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

(マタイによる福音書10:3739)。

 

心の平安についてホーリー・マザーはおっしゃいました。「世間への執着が少なくなればなるほど、

 

心の平安を得られます」

主イエスはおっしゃいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう;わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる;わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 (マタイによる福音書 11:28-30)

 

「祈り」は、自分のカルマの影響や人生の困難を軽減するのに役立ちます。

ホーリー・マザー「人は過去のカルマの影響から逃れることはできません。しかし、祈りの生活を送っている人は、深い切り傷を負うところを足にとげが刺さるだけで済みます」

聖書「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」こうして、主のもとから慰めの時が訪れるでしょう。(使徒行伝 3:19

 

ホーリー・マザー「危険や困難が起こらないと期待しても無駄です。それらは必ずやって来ます。しかし、信者にとって、それらは水のように足元を流れ去るでしょう」

主イエス「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカによる福音書21:1718)。

 

他人の欠点を見ないでください。

ホーリー・マザー「他人の中に欠点をみると、まず自分の心が汚れるのです。他人のあら探しをして何の得があるのでしょうか?自分自身を傷つけるだけです」

主イエス「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである; あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカによる福音書6:37-42)

 

「他人の欠点に気づくのは、自分の欠点を修正する努力をしていないからだ」という格言があります。自分自身の欠点を直そうとするなら、他人の欠点を見る時間もエネルギーも残されていないでしょう。

 

心を仕事とポジティブな思考に集中させ続ける必要性。

ホーリー・マザー「人は仕事をしなければなりません。仕事を通じてのみ、仕事の束縛が打ち砕かれ、無執着の精神が身につくのです。たとえ一瞬でも仕事を休んではなりません」 「仕事は心を迷わないようにしてくれます」

主イエス「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」 (マタイによる福音書 12:43-45)

 

宗教上、怠惰は良くありません。スワーミージーがおっしゃったように、ある人々は怠惰になり神(ダイヴァ)に依存し、自分はサットワ的になったと言いながら、実際には極度にタマス的になり、ほとんど死んでおり、臆病です。聖者の静けさの裏には、世界を動かし行動を起こす巨大な意志が潜んでいます。一方、「タマス的」な鈍さは無力です。

 

祈りの必要性。

ホーリー・マザーはおっしゃいました。「間違いなく働くべきです。しかし、祈りと瞑想も必要です。少なくとも朝と夕方に一度は座って瞑想しなければなりません。それが船の舵になります。夕方に座って瞑想するときは、その日に行った仕事について自省してください」

 

聖パウロはおっしゃいました。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」 (エフェソの信徒への手紙 6:18)。

「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……」 (コリントの使徒への手紙2.13:5

 

霊的な戦いを続けることの重要性について、今回はシュリー・ラーマクリシュナの言葉を引用します。

「武器を取れ!武器を取れ!おお人よ!死が戦列をなして、お前の家を襲うぞ!

知識の矢筒を負い、信仰の戦車に乗り、

愛の弦を張ったお前の舌なる弓に、

母カーリーの清き御名なる矢をつがえて、

彼に向かって放て。

この戦いに一つの策略がある。それには戦車も御者もいらない。

ガンガーの堤に立って敵を迎えよ、彼はたちまち殺される。

神の聖なる御名という武器で死神と戦わなければいけない」 

 

聖パウロはおっしゃいました。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、

平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

(エフェソスの使徒への手紙6:10-17

主イエスはこうもおっしゃいました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイによる福音書10:34

 

霊的実践のしるしに関して、ホーリー・マザーは次のようにおっしゃいました。

「あなた方が霊的実践を進めていくと、私の中にあるのと同じ存在があなたの中にあること、そして最下層のカーストに属している人にも、すべての人の中に神が宿っていることが分かります。そうすれば謙虚さが身につくでしょう」

主イエスはおっしゃいました。「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書1030) 「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハネによる福音書17:20-21

 

34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し

36  裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

37  すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

39  いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイによる福音書 25:34-40 )

 

また、史上最も偉大なキリスト教神秘家の一人であるアビラの聖テレサは次のようにおっしゃいました。「この地球においては、キリストの体こそ私たちの体です。彼は私たちを通して祈ります。私たちを通して働きます。私たちの目を通して見ます。私たちの言葉を通して話します。私たちの手を通して働き、私たちの足を通して歩き、私たちの心を通して愛します」(アビラの聖テレサの言葉)

 

ホーリー・マザーは恩寵について次のようにおっしゃいました。「必要なのは神の恩寵です。神の恩寵を祈り求めてください。川の岸辺に座ってお祈りするのです。時が熟したら、向こう岸に連れて行っていただけるでしょう」

主イエスは、警戒することと祈りについて、「しかるべき時が来るまで待ちなさい」と同じようなことをおっしゃいました。

1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれ、ともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』

10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

(マタイによる福音書251-13

 

恩寵と解脱についてさらに詳しく。

ホーリー・マザー「神の悟りは、子供の手にあるキャンディのようなものです。子供に『分けてちょうだい』と頼んでも分けてくれませんが、子供は好きな人に向かっては、頼まれていなくてもキャンディを渡します。すべては神の恩寵にかかっています。彼は好きな人には誰にでも恩寵を与えます。大切なのは恩寵です」

主イエスはこうおっしゃいました。

1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

(マタイによる福音書 20:1-16)

 

アバターたちの教えの普遍性。

ホーリー・マザーはおっしゃいました。「シュリー・ラーマクリシュナは、偏狭な見方や一方的な見方をお持ちではありませんでした。ブラフマンはどこにでも存在します。預言者と化身は、人類の幸福への道を示すために来られました。彼らはさまざまな気質に応じて異なる教えを与えます。真理を悟る方法はたくさんあります。ですので、これらすべての教えに価値があります」

主イエスはおっしゃいました。「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(ルカによる福音書13:29

 

このようにして、神は宗教性が低下して悪が増大するときに何度でも来て人類を救います。ホーリー・マザーが語られたこの真理はギーターにも見られます(478節)。

 

ヤダー ヤダー ヒ ダルマッシヤ  グラニール バヴァティ バーラタ/

アッビュッターナム アダルッマシヤ  タダートマーナン スリジャーミ アハム//

正法(ダルマ)が実践されなくなり、邪法が世にはびこった時、バーラタ王の子孫(アルジュナ)よ!何時でも何処でも私は姿をとって現われるのだ。

 

パリットラーナーヤ サードゥーナーン ヴィナーシャーヤ チャドゥシュクリターム/

ダルマ・サンスターパナールターヤ サンバヴァーミ ユゲー ユゲー//

正信正行の人々を救け、異端邪信の者どもを打ち倒し、正法(ダルマ)を再び世に興すため、私はどんな時代にも降臨する。

 

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202411

 

「カルパタル・デーのメッセージ」

スワーミー・メーダサーナンダ

 

今日の集まりは小規模ですが、世界規模の集まりです。ベネズエラから 1 人、ドイツから 2 人、インド人、そしてもちろん日本人もいます。今日は非常に特別なので、多くの人が寺院を訪れてこの日を祝います。特にベンガルでは信者は、ドッキネッショルのカーリー寺院、カーリー・ガート、ベルル・マト、シュリー・ラーマクリシュナの信者は祝福を得るためにコシポルのガーデンハウスを訪れます。なぜなら1886年のこの特別の日に、シュリー・ラーマクリシュナは信者たちに特別な祝福を与えたからです。

 

私が日本に来たときに印象に残ったことの一つは、1231日にはバスや電車が夜通し運行され、人々がお寺に参拝できるようになっているということです。今日も多くの人が寺院、神社、教会などを訪れます。多くの人は年間を通して寺院を訪れることはありませんが、少なくとも1年に1日は寺院を訪れる人が多いと言えます。

 

私たちの組織であるラーマクリシュナ僧院では、この日はカルパタル・デーとされています。

カルパタルとは願いが叶うという伝説の木で、その木の下に来ると願いが叶うというものです。ご存知のように、シュリー・ラーマクリシュナはコルカタのコシポル・ガーデンハウスで晩年を過ごし、この日(1月1日)、そこにいた何人かの信者に特別な祝福を授けました。彼は、世俗的な欲望を持つ人々にはそれを実現できるように祝福し、信仰と知識を切望する人々には知識と信仰を得られるように祝福しました。シュリー・ラーマクリシュナに触れられたとき、彼らは皆特別な経験をしました。シュリー・ラーマクリシュナがその日にカルパタルになられたために、この日は毎年カルパタル・デーとされているのです。

 

その下に座ると願いが叶う木があったらいいなあ、と思っている人もいるかもしれません。しかし、それは危険をはらんでいます。そのことについて物語を交えて解説していきます。

 

ある旅人が、何も知らずに願いが叶う木の下に座っていました。彼は疲れていたので、木の下で休んでいました。 彼が「誰かが食べ物と水を持ってきてくれたらいいなあ」と考えるとすぐに、一人の人が食料と水を持ってやって来ました。彼はびっくりしました!とにかく、彼はそれらを食べて、喉の渇きと空腹を和らげました。それから彼は「長時間歩いて足が痛くなったので、誰かマッサージしてくれたらいいのになあ」と思いました。すぐに二人の人が来て、彼の足をマッサージし始めました。彼はとてもリラックスして快適に感じました。突然、ある考えが頭をよぎりました。「今、トラが来たら、何が起こるだろう?」するとすぐにどこからか虎がやって来て、旅人を食べてしまいました。

 

つまり、私たちの準備ができていなければ、願いが叶う木の下に座ると危険が伴うのです。私たちが神に熱心に祈ったことは何でも、神は叶えてくださいます。しかし、祈りが聞き届けられた後に、困難に陥る可能性もあります。ですから、「私のこの願いが私にとってよろしければ、どうぞかなえてください」と神に委ねるほうが良いのです。ベンガルの劇作家であり、シュリー・ラーマクリシュナの信者の一人であるギリシュ・チャンドラ・ゴーシュは、「神はお慈悲で私たちの祈りを叶えてくださるが、もっと大きなお慈悲で祈りを叶えてくださらない」と言いました。ですから、もし私たちが祈って、その祈りが答えられなかったことがわかったら、私たちが祈ったその願いが私たちに困難をもたらすのであったことを理解する必要があります。

 

このような特別な日には、私たちが祈るのは自然なことです。なぜなら、ほぼすべての人が生活の中でストレスや問題を抱えているし、身近で愛する人びとのために心配をしたり不安になったりするからです。ですから、私たちは祈らずにはいられません。神は祈りを聞いてくださるけれども、私たち自身の利益のためにそのすべてを叶えてくださるわけではないという事実も心に留めておきましょう。

 

今日は「祈り」と「決意」の日です。祈りについて話しましたが、今度は決意について話します。私たちは生活水準の向上だけでなく、生活の質の向上についても「決意」しなければなりません。多くの人がさまざまな種類の「決意」を持っています。怒りをコントロールしたい人、エゴや嫉妬などをコントロールしたい人、苦しんでいる人を助けたい人など、人によって決意の種類は異なります。

 

これらの決意はどれも素晴らしいですが、最高の決意はどれでしょうか?例えば、植物に水をやるとき、私たちは枝や葉に水をやるのではなく、植物の根元に水をやります。根に水をかけると木の隅々まで届くからです。

 

今回、私がインドを訪問した際、その帰りにニューデリーのラーマクリシュナ僧院の支部に数日間滞在しました。そこの一人の僧侶が、ある人物に連絡を取り、空港で私を手伝ってくれるように頼んでくれました。この人物はインド全土の空港の出店者組合の最高幹部です。彼は空港で私に会い、そこでさまざまな空港のカウンターを通過した後に、自分の問題のいくつかをシェアしたいと言いました。彼は「マハーラージ、私にはとてもすごいストレスがあります」と言いました。私は彼にいくつか助言をしました。彼はすでに私たちの教団のイニシエーションを受けた弟子であり、霊性の実践をしていたと私は信じています。

 

昨今、この種のストレスが一般的な問題になってきたので、このちょっとした経験を共有したいと思いました。さて、皆さんは私の前に座って、リラックスして聞いています。しかし、皆さんの職場と比較すると、状況は異なるでしょう。職場はクルクシェートラの戦場と何ら変わりません。

 

私たちの生活からストレスを和らげる方法についてお話したいと思います。ご存知の通り、「ストレスを解消したい」と願うだけではストレスは解消されません。お金を稼ぎたいときに、そのことがよく分かります。お金は空から降ってくるわけではありません。私たちは、好むと好まざるにかかわらず、気分の良し悪しにかかわらず、毎日働かなければなりません。しかし、残念なことに、私たちはストレスから解放されたいのに、そのために働く意欲がありません。

 

さて、私はとても簡単な実践について話します。それを毎日続けることを決意すれば、肉体的、心的、仕事、学び、人間関係において役立ちます。したがって、これらの 五つのレベルで役立つのです。ただし、毎日継続して実践することが条件です。その実践とは、できれば朝に、「体を動かさずに10分間静かに座って、例えば神のことなど神聖なことを考えること」です。それを継続的に続ければ、きっとあなたの人生に変化が訪れるでしょう。

 

結論として、私たちは今日、「祈り」と「決意」という 二つのことについて話しました。どちらも今日から始めましょう。そうすればあなた自身もその恩恵を実感できるでしょう。

 

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2024217日 スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭

 

「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダとマヤヴァティ・アドヴァイタ・ アーシュラム」

スワーミー・シャマーナンダ

 

マヤヴァティは、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダが訪れた唯一の支部です。それは当時、インドにはラーマクリシュナ僧院の支部センターが他に存在しなかったからです。マヤヴァティに支部センターを設立するという考えは、スワーミージーがスイスのアルプスを訪れていたときに始まりました。その訪問中に、彼はヒマラヤの山中に支部を立ち上げることを思いつきました。スワーミージーの英国人の弟子であるセヴア夫妻は呼びかけに応じ、アルモラでそのための場所を探し始めました。しかし、アルモラはあまりにもにぎやかだったので、彼らは他の場所で孤独になれる場所を探し始めました。彼らはアルモラから130キロ離れたところにその場所を見つけました。そこは茶畑でした。彼らはその土地を購入しました。 18993 月にアドヴァイタ・アシーュラムが始まりました。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、もう 1 人の兄弟弟子であるスワーミー・シヴァーナンダとともに 1901 年にマヤヴァティを訪れ、15 日間滞在しました。

 

なぜスワーミー・ヴィヴェーカーナンダはマヤヴァティのこのアーシュラムをアドヴァイタ・アーシュラムと名付けたのでしょうか?理由の一つは、彼がアドヴァイタ哲学を非常に好きだったことです。二つ目の理由は、アドヴァイタ哲学に完全に専念する支部センターを少なくとも一つ望んでいたからです。

もう一つの理由は、宗教的対立のない普遍的で純粋な真実を教えられる場所を望んでいたということです。スワーミージーはアーシュラムについて次のように述べています。「その目的は、真理の探究者を訓練することであり、そして恐怖も迷信も持たない子供たちを育てることだ。彼らはお釈迦様、主キリスト、シヴァ神、ヴィシュヌ神などのいずれについても聞くことはない。最初から、彼らは自分の足で立つことを学ぶ。彼らは子供の頃から、神はスピリットであり、スピリットとして礼拝されるべきであると学ぶであろう」

 

それが、アドヴァイタ・アーシュラムに外的礼拝もセレモニーも存在しない理由です。スワーミージーご自身は、「像や絵を崇拝したり、ヴィラジャ・ホーマ(出家の儀式の前に行われる犠牲)以外の宗教的儀式や儀式を実践することは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの哲学の原則に反することである」と言いました。ここで重要なことは、「アドヴァイタ・アーシュラムで教えを受ける人は初めから、自分の足で立つことを学ぶということだ。彼らは子供の頃から、神はスピリットであり、神はスピリットとして礼拝されるべきであるということを学ぶであろう。それが理想である」と言っている点です。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの「自分の足で立つ」とは自分自身への信仰です。その無限性、無限の力への信仰です。スワーミージーは、自分自身への信仰を何度も何度も強調しました。このテーマに関する彼の発言をいくつか引用します。

 

「人と人との大きな違いはすべて、自分自身への信仰があるかないかであることが分かる。自分たちへの信仰があらゆることを可能にするだろう」

 

「世界の歴史とは、自分自身に信仰を持った少数の人びとの歴史である。その信仰は内なる神性さを呼びだしたのだ」

 

「自分自身を振り返ってみなさい。アメーバの状態から人間に至るまで、いったい誰がしたのか?あなた自身の意志だ。そうだとすると、それが全能であることを否定できるのか?あなたをそこまで高くしたものは、あなたをさらに高くすることができる」

 

「真の宗教は、内なるスピリットの目覚めよりくる。人々の教えや本の読書で得られるものではない。その結果として純粋で英雄的な行動がある」

 

「まず自分自身に信仰を持て。それが方法である。自分自身に信仰を持ちなさい。すべての力はあなたの中にある。それを意識して外にあらわしなさい。私は何でもできる、と言いなさい」

 

「真の信仰、真の宗教とは、私たちの真の自己への目覚めより来るものです。自分のスピリットに目覚めた者だけが、自分の足で立っていると言えるでしょう」

 

スワーミージーの言葉の意味を完全に理解するには、何度も何度も読まなければなりません。そうすることで少しずつ真の意味を理解できるようになります。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはアドヴァイタ・アーシュラムについて次の言葉で語りました。

 

「誰の中に世界はあるのか、誰が世界の中にいるのか、誰が世界なのか。誰の中に魂があるのか、誰が魂の中にいるのか、誰が人の魂なのか。その魂を知り、それが私たちの自己(つまり宇宙)であることを知ることのみが、私たちのすべての恐れを消し、不幸に終わりをもたらし、そして無限の自由に導くものである」

 

「どこであれ個人または多数の人々の愛の拡大、または福祉の進歩は、永遠の真理、すべての存在のワンネスの認知、悟り、そして実践によるものである。依存は不幸である。独立は幸せである。アドヴァイタは、人に自分の完全な所有を与える唯一のシステムである。すべての依存とそれの迷信を取り去ることによって、私たちを苦しみに対して勇敢にし、勇敢に活動させ、そしてやがて絶対的な自由を得させるものである。

 

これまで、この崇高な真理を、二元的弱さから全く自由な環境で説法することは不可能だった。このことが、どうしてそれが人類全般に対して有効に働かなかったかという理由であると確信する。

 

人々の人生を向上させ、多くの人類を啓もうする上で、この『一なる真理 (ONE TRUTH)』をより自由でより広い範囲に与えるために、私たちはその最初の解放の地としてヒマラヤの高台に、このアドヴァイタ・アーシュラムを始める。

 

ここで望まれるのは、アドヴァイタがすべての迷信と弱くする影響から自由であり続けることだ。ここではユニティ(合一)の純粋でシンプルな合一の教義だけを教え、実践するだろう。他のすべてのシステムに全く同感するものではあるが、このアーシュラムはアドヴァイタ、アドヴァイタだけに捧げられたものである」

 

現在のアドヴァイタ・アーシュラムには多くの建物があり、アーシュラム本館や僧たちが住む建物などがあります。アーシュラム本館の正面向かい側には、プラブッダ・バーラタの建物があります。現在はこの雑誌の編集はマヤヴァティで行われていて、印刷や発行はコルカタで行われています。他にはゲストハウスや病院もあります。これらは木々の生い茂った山々に囲まれています。北側にはヒマラヤ山脈の山々が見渡せます。アーシュラムには農園と果樹園、そして池があります。アドヴァイタ・アーシュラムがなぜヒマラヤ山脈にあるのかについては先ほどお話しました。ある時、私はゲストの僧侶を山の上のある場所(ダルマゴー)に案内しました。登山道を登っていた時のことです。山道は両側に木々が生い茂っており、木の枝は道の上にまで伸びています。空には太陽が輝いていました。その時、僧侶は「ヴェーダには、まわりの木々や自然がすべて振動しているという表現がある。これがそのヴェーダの意味するところだ」と言いました。私たちがそれを感じるかどうかは別として、私たちは実際その影響を受けています。それは科学的にも証明されていて、私たちが木々に囲まれていて、自然の近くにいるとき、私たちの脳の一部が活動的になり、また私たちに安らぎをもたらすということが分かっています。だからアーシュラムが人里離れた山の中や自然の中にあると、心が安らいで瞑想によい影響をもたらします。シュリー・ラーマクリシュナも、霊的修行の初めには静かなところで修行することを勧めています。

 

チャーンドギャ・ウパニシャッドにはサッティヤカーマの話があります。物語によれば、サッティヤカーマは先生から痩せた牛400 頭を与えられ、その牛が千 頭になったら返すように言われました。彼は自然の中で牛が千頭になるまで何年も過ごしました。そして、突然一頭の牛が彼のところにやって来て、「私たちは千頭になりました。師の元に帰りましょう」と言いました。その牛はサッティヤカーマにブラフマンについて教え始めました。そして次の夜、彼らが暖炉にいると、火が彼に語りかけ始めました。私が皆さんに伝えたいのは、自然が人に話しかける、ということです。考えてみてください - 最初の聖者(リシ)たちは、どこからそんなに多くの知識を得たのでしょう?当時は書かれた聖典はそれほど多くありませんでした。彼らが学ぶ方法は二つしかありませんでした。一つは自然からで、二つ目は自分の中からです。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「誰もあなたに教えることはできないし、誰もあなたを霊的にすることはできない。あなた自身の魂以外に教師はいない」「真の知識は自然との交流から生まれる」と言っています。そのため、アドヴァイタ・アーシュラムは大自然の真っただ中にあるのです。同じようなアーシュラムを見つけるのはインドでも困難なことです。マヤヴァティ・アドヴァイタ・アーシュラムは、二年前から信者たちのためにスピリチュアル・リトリートをゲストシーズンに開いています。これらのリトリートは、ヒマラヤの大自然の中で霊的修行の機会を与えることを目的としていて、毎回、多くの人や信者が遠くからきて参加しています。それを見ると、インド人々の霊的生活に対する情熱を感じます。

 

大自然の中で何を学べるかは、信者たちの霊的進歩の段階によります。世俗性から心が清まるほど、人は自然とより交流ができ、そして自然は自ずとその本性をあらわします。シュリー・ラーマクリシュナは、純粋な心と純粋な知性は同じであると言いました。アドヴァイタ・ディーピカという聖典には、心の清らかさのみが悟りの唯一の方法であると述べられています。主キリストも「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と言いました。それゆえ問題は、どのようにして心を清めることができるかということです。これまで見てきたように、すべての宗教は心の純粋さの重要性について語っています。仏教で心を清める道を「八正道」といいます。それは、

正しく物事を見て

正しく考え

正しく語り

正しい行い

正しく生活をし

正しい努力をし

正しい念を持ち

正しく瞑想することである

 

と教えています。

 

正しい行いをし、正しい生活を送るなら、それが私たちの心を清め、私たちを神へと導き、やがて神が何であるかを悟る時がやってきます。人類がホモ・サピエンスから現代人に至るまでには200万年かかりました。

 

何が人間のそのような発展をもたらしたのでしょうか?その原動力とは何でしょう?外からの何かが発展を助けたわけではありません。それは人間の内側にあるものです。私たちの進歩とは、何か新しいものを獲得することではなく、すでに私たちの中にあるものをあらわしていくことです。それはちょうど、種から植物や花が生まれるのと同じです。種子の中にすべてが含まれています。それが植物や花としてあらわるとき、私たちは外側のあらわれを見ます。

 

進化の過程とは、人間の中に隠されている本性の発現を意味します。私たちにとって未知のものは何もなく、ただそれが段階的にこの世界にあらわれているだけです。霊的な問題とは、隠されているものを知る必要があるのに、それを言葉を使って明確に表現することができないことです。隠されたものは、単なる知性では認識できません。それは肉体的なものや物質的なものではありません。限定されたものは物質ですが、限定されていないものはスピリットです。無限なものには形がなく、形のないものは知ることができません。なぜなら、知識とは、物事を限定して、それによって私たちはそれが何か知ることができるからです。それゆえ、隠されているものをスピリットと呼ぼうと、アートマン、ブラフマン、神と呼ぼうと、それは知られることのないものなのです。シュリー・ラーマクリシュナが言うように、ブラフマンは表現不可能な唯一のものです。心でそれを知ることはできませんが、心の清らかな人はそれを悟ることができます。実際、多くの人がブラフマンを悟りました。それゆえ、私たちは正しい生き方をしなければなりません。なぜなら、正しい生き方をしなければ、心が清まることがなく、悟ることもできないからです。

 

正しく生きることができるということは、その人がその段階にまで進歩してきたということを示しているのです。意識的であれ無意識であれ、皆がこの神性さをあらわそうとしています。スワーミージーはこう言いました。「それぞれの魂は本来神聖なものである。ゴールは内と外の自然性を制御することによって、この内なる神性をあらわすことだ。このことを、仕事によって、あるいは礼拝、心のコントロール、哲学のいずれか、あるいは複数、またはすべてを実行することによって行い、自由になりなさい。これが宗教のすべてである」

 

彼はまた、「宗教とは、人間の中にすでに備わっている神性さをあらわすことである」とも言いました。このような理由から、宗教は神になることであって、ただ神を信じることではないのです。あなたが自分の中に神を実現したとき、宗教は終わります。

 

スワーミージーはまた、すべての宗教の終わりは魂の中に神を悟ることであると言いました。それができたとき、人は自由を得ます。私たちの真の姿は、進化の途上にある神です。この進化は、自分の中に神の本性を完全にあらわすまで続きます。神があらわれたとき、私たちは自分が神であり、この世界も神であることに気づくのです。

 

家住者にとっては、この世と神の二つの間をとってやっていくこと、自分の力にふさわしいことをやっていくことがいいでしょう。重要なのは、この探求を続けることです。霊性の探求は長い旅です。私たちをこの道に導いてくださるのは、私たちの内なる神です。目的地に達するまで歩き続けましょう。

 

インドに40年間住んで感じることは、インドの歴史は宗教の歴史であるということです。インドに人があらわれたときには、宗教はすでに彼らとともにありました。ヴェーダの時代とウパニシャドの時代というように、それは現在まで途切れることなく続いています。したがって、宗教的性質はインド人の心に深く根付いています。

 

ある時、南インドから若い女性がマヤヴァティに来て、数日間滞在しました。彼女の顔を見たとき、私は驚きました。なぜなら、彼女の顔には彼女が非常に宗教的であるということが刻み込まれていたからです。通常、そのような宗教的な顔になるには、長期に渡って霊的な修行をしなければなりません。しかし、彼女はすでに宗教的な顔つきをしていました。おそらく彼女は前世でそのような資質を培ってきたのでしょう。そのような顔は、インドの寺で多くの参拝者を見ていれば、時々見ることができます。このような宗教的性質を持った信者がインドに多数存在するからこそ、インドでは宗教的伝統がこれほど長く途切れることなく維持されてきました。

 

インドでは、在家信者は僧侶よりも偉大です。それは、在家信者の支援がなければ、僧院の組織を維持することができないからです。同時に、僧院や寺院がなければ、心の平安のために家住者はどこに行けばいいのでしょうか?ボラノゴルにできたラーマクリシュナ僧院の最初の僧院は、この理由から設立されました。両翼があってこそ鳥は飛ぶことができます。インドの多くの巡礼地に行くと、多くの僧院や寺院を見ることができます。これらの僧院組織は多くの信者によって支えられていることを覚えておかなくてはなりません。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは「宗教はインドの背骨である。宗教を忘れない限りインドは長く続いていくだろう」と言いました。

 

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忘れられない物語

 

「遠い遺産」

 

ものすごく貧しい男がいた。彼は大いに苦労しながら生活を送っている。彼がこの状態のとき、ある大富豪が旅行中で、どういうわけか通りすがりにこの男と接触した。その無尽蔵の富を持つ男は遺言書に「全財産をこの男に相続財産として残す」ということと、「この男が私の居住地まで来て身元を証明し、その財産を請求しなければならない」と書き残した。そして、財産贈与するその男がどこにいるのかも書き残した。

 

その後、金持ちは亡くなり、遺言書を手にした弁護士は貧しい男に、そこにいって財産を受け取らなければならない、という知らせを送る。 「あなたは世界で一番の金持ちです。あなたは無尽蔵の富と莫大な財産を相続しました」という知らせが男に届いた。今、その男は自分が大富豪であることを知っている。したがって、彼は何も欲しくないだろう。欲しいものは何でも買える。しかしこの瞬間、彼は実は無一文だ。彼は生計のために一生懸命働かなければならない。自分が一番金持ちだというだけで、現状はパンさえ手に入れられない。自分の富は使えないが、彼が最も裕福な人間であることは紛れもない事実である。私たちも皆、ニッティヤ・シュッダ・アートマンである。それなのに、蚊に刺されてマラリアにかかったら、病院に行ってキニーネを服用しなければならない。それでも、私たちがサッチダーナンダ・アートマンであることは本当の事実である。この事実はつねに真実だ。しかし私たちの現状がこのようなものだから、それを活用することができない。

 

さて、この男には何が必要だろうか?遺言を請求するために行く場所が5,000 キロ離れているとする。今、彼は旅費を工面するために一生懸命働かなければならない。彼が「私は世界で一番金持ちだ」と言ったからといって、誰も彼を信頼してお金を先払いしてはくれない。彼は一生懸命働いて運賃を稼がなければならない。半年、あるいは二年かかるかもしれない。それから彼は切符を買い、旅の途中での困難を引き受け、あらゆる危険と対峙しなければならない。そして、実際にその場所に着いて自分の身元を証明すると、彼が裕福であるという事実は、具体的で実用的で効果的で生きた事実に変わる。

 

事実は常に存在する。富を請求する場所に到達する前から、彼は最も裕福な男だ。同じように、今でさえ、私たちはサッチダーナンダ・アートマンであるという事実がある。しかし、自身のその同じ事実が、活気に満ちた、わくわくするような力強い経験となり、完全に効果的になるには、サーダナをしなければならない。サーダナとは、現場で富を請求することである。そうしない限り、裕福であるという事実は何の役にも立たない。それが、自分は最も裕福者であるという知識を完全に持っているジーヴァの状態だ。遺言書の条件が満たされるまで、そのような知識は役に立たない。

 

では、満たすべき条件とは何か?満たすべき条件とは、重労働をして運賃を稼ぎ、旅をしてそこに到達することだ。私たちの状況での条件とは何だろう?それは、ヨーガ、サーダナ、そしてヨーガが意味するすべて、である。

 

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今月の思想

 

私は独自で考えることが大切だと信じている。私は聖なる師から完全に自由になることを信じている。彼らに最大限の敬意を払うが、宗教は独自の探究だとみる。

私は私の光を見つけなければならない、彼らが彼らの光を見つけたように。彼らが光を見つけたからといって、私たちはまったく満足しない。

…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

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