今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

202112月 第19巻 第12

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かく語りき――聖人の言葉

 

自らの思いを裏切ってはいけません。

誠実でありなさい、自分の思いに従って行動するのです。そうすれば必ず成功します。

心を込めて純真な気持ちで祈りなさい。そうすればあなたの祈りは聞き届けられます。

…シュリー・ラーマクリシュナ

 

朝な夕なに神に祈り、一日中、自分の仕事をしなさい。

…預言者ムハンマド

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

20211月、20222月の生誕日

202112月逗子例会

「シャンカラーチャーリヤの賛歌 バジャ・ゴーヴィンダム」 第 3

スワーミー・メーダサーナンダ

・忘れられない物語

・今月の思想

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~お知らせ~

コロナウイルスの影響のため、引き続きライブストリーミングやズームなどの配信を中心に、皆様にお届けいたします。 ズームに関するお問い合わせ、お申込みは下記にメールをお送りください。

zoom.nvk@gmail.com

 

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20221月、2月の生誕日

 

スワーミー・サーラダーナンダ    202218日(土)

スワーミー・トゥリーヤーナンダ         116日(日)

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ        125日(火)

スワーミー・ブラフマーナンダ          22日(水)

スワーミー・トリグナティターナンダ        24日(金)

スワーミー・アドブターナンダ           216日(水)

 

 

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

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202112月逗子例会

午後の講話

シャンカラーチャーリヤの賛歌 バジャ・ゴーヴィンダム」 第 3

スワーミー・メーダサーナンダ

 

2部のおさらい

この節は第2部の時にお話ししました。

 

ナリニイダラガタ ジャラマティララム

タドヴァッジヴィタマティシャヤチャパラム

ヴィッディ ヴャーダビマーナグラスタム 

ローカム ショカハタム チャ サマスタム

 

蓮の葉の上の雨粒のように、人生は不安定なものだ;

全世界は、病気、エゴ、悲しみにさいなまれていると知れ。

 

前回の講義の時に、人生とは不安定なものであるというシャンカラーチャーリヤの言葉を分かりやすく説明するために、蓮の葉の上の水滴がいかに不安定か、という簡単なデモンストレーションを行いました。また、私たちは皆死ぬ運命なのに、いつ死ぬかは誰にも分からない、ということについてかなり詳しく説明をしました。誰もが自分は確実に死ぬことが分かっているにもかかわらず、それは今日ではない、明日でもない、来月でもない、多分、来年でもない、と思っています。私たちは死を避けられないものとして受け入れてはいるものの、それはいつか将来のことだと思って、普段どおりの生活を続けています。しかしもし次に目が覚めた時に死ぬと分かっていれば、なるべく眠らないように努めますね。お話ししてきたように、完全に確実に私たちは死にます。誰も死から逃れることはできません。

 

私たちは、死が訪れるのはずっと後のことだと信じていて、死に至る病も、致命的なコロナウイルスのようなパンデミック(感染症や伝染病が世界的に大流行)も、予知不能な地震や津波などの自然災害の発生も考慮に入れていません。たとえ友達や親戚など自分の仲間内以外の人が死んでも、大きな不安は起きないでしょう。しかし突然、友達や親戚や同僚が亡くなると、その死に危機感を覚え、死は恐ろしいものとなります。マスコミやインターネットが多くの死を伝えても、それは単なる情報に過ぎませんが、身近な人が死ぬと、私たちは単なる傍観者ではなく当事者になるのです。

 

前回は次のような話もしました。死神が自分のところに来るのを見た王の側近は、死神から逃げるために王から早馬を授かった。側近は馬を駆けて宮殿から100キロも離れた場所までたどり着き休憩しようとした。しかしそこには黒いマントを着た死神が待っていた。死神は、側近はここで死ぬ運命なのに先ほどはなぜまだ王宮にいるのか不思議に思った、と語った。「ついに絶好のタイミングでちゃんとここに来たな」

 

私たちは死からは逃れられません。ではどうすればいいでしょうか? シャンカラーチャーリヤは言います。バジャ・ゴーヴィンダだけが、唯一私たちが勇気、智慧、平安をもって死に立ち向かう方法だ。愚か者よ、ゴーヴィンダ(ヴィシュヌ)に避難しなさい、ゴーヴィンダを礼拝しなさい、ゴーヴィンダを瞑想しなさい。なぜなら、ゴーヴィンダだけが唯一の方法なのだよ、と。

 

不愉快な真実

前回に引き続き、バジャ・ゴーヴィンダムの節の意味を説明します。

バジャ・ゴーヴィンダムが語る現実を自分のものにするのは難しいかもしれません。日本語では「耳が痛い」と言います。なぜなら私たちにはそのような厳しい現実を聞く心構えがないからです。私たちはこれらの真実に向き合いたくないし、受け入れたくもありません。そのような議論の場からは、思わず逃げ出したくなります。現実に直面するのを恐れて、自分が創った空想の世界に住みがちです。私たちは希望、願望、想いを込めて、世界を心に描きます。私たちはその世界に住むのが好きで、依然として現実と向き合うことを恐れています。

 

シャンカラは、偉大な恩人、本当の友、先生、父親です。シャンカラは私たちに実際の状況を気づかせたいのです。そうすれば私たちは自分の現実に向き合う心構えができるからです。もし私たちが現実と向き合う準備がなければ、現実に直面したときに私たちはすっかり当惑するでしょう。シャンカラは私たちに気づかせるために、「これが君の置かれた状況だ、これが現実だ! さあ、それに直面できるように準備せよ」と言います。本当の支援者、友は、このようにするのです。父、母、先生、グルは「気をつけなさい。これがあなたが直面するであろう現実です」と教えるでしょう。シャンカラはあなた方の真の支援者として義務を果たすべく、私たちに現実を気づかせます。ではシャンカラの目的は何でしょう? それは私たちに気づかせることです。サディスティックで私たちを怖がらせて喜んでいるわけではありません。本当の支援者としてシャンカラは真実をオブラートに包むようなことはせず、私たちに真実を明かします。これが人生の事実、これが人生の真理だと。

 

例えば、子供や青少年は、バラ色でロマンティックな未来像をたびたび抱きます。しかし、誠実な両親やグルは自らの義務を果たすために、「人生はいいことずくめじゃないよ」と子や弟子に注意喚起します。そう、バラにはトゲがあるのです! バラを摘みたいなら、見えないトゲに気を付けなければなりません。

 

これからシャンカラの節を読み上げてその意味を説明しますが、シャンカラが節の中で警告している内容を、自分には関係ない、と考える人が今日の参加者やライブストリーミングの参加者の中にいるかもしれません。しかし関係ない人などいません。今は自分には降りかかっていなくても、十中八九、いつかは起こることなのです。

 

前置きはこれくらいにして、シャンカラの次の節を説明します。

 

ヤーヴァドゥヴィットーパール ジャナンサカタハ

ターヴァンニ ジャパリヴァーロー ラクタハ

パシュチャーッジーヴァティ ジャルジャラデーヘー

ヴァールターム コーピ ナ プルチチャティ ゲーヘー

 

元気な時、家族は親切にも、幸福ですか、と問うてくる。

私が健康で家族を支えている間、周りの人は皆、愛情を示してくる。

しかし、年を取り、足元がおぼつかなくなれば、家族の誰も声をかけてくれない。

 

牝牛が乳を出せる間だけ世話をし、牡牛が畑を耕せる間だけ世話をする。乳が出せなくなった牝牛、鋤を引けなくなった牡牛のことなど、お構いなしです。同じように、家の主人がお金を稼ぐ間だけ主婦は主人の世話をしますが、年を取って稼ぎが悪くなると、世話はおろそかになります。もちろんこれが歳を取った家族の典型でしたが、今日はこのパターンが変化しています。以前は、両親、息子、息子の妻、孫が一緒に暮らしていました。

一つ話をします:

 

若い夫婦と小学校低学年の息子とおじいさんが一緒に住んでいました。おじいさんはとても年を取っていました。食事の時、若い夫婦と息子はダイニングテーブルを囲むのに、おじいさんは別の小さな机で食べました。ダイニングテーブルの料理は陶器の皿に盛られるのに、おじいさんの食事は木の皿に盛られました。夫婦は自分たちのテーブルで会話に興じ、誰も別のテーブルのおじいさんに話しかけようとしない。おじいさんは一人ぼっちで食事をし、若奥さんはおじいさんがちゃんと食べているかどうかさえ気にかけません。それが日常でした。しかし、孫は思いやりがあり、周りの出来事に敏感でしたので、おじいさんが部屋の隅の机で木の皿で食べ、誰もおじいさんに話しかけたり注意を払わない、ということを気にかけていました。

 

ある日、子供が小さな木片で遊んでいるのを見た父は「何をしているんだい?」と尋ねました。

 

「お父さん、僕ね、木のお皿を二枚作っているの」

 

「どうして?」

 

「お父さんとお母さんが年を取ったときに、このお皿で食べてもらうんだよ」

 

このことから、若夫婦もいつか年を取ると同じような目に遭うだろう、ということが分かります。これはその可能性をあらわす物語です。

 

核家族

 核家族の時代に入って状況は変わりました。今日では、家族は両親と子供だけで構成され、祖父母は老人ホームや介護施設でお世話を受けることが多いです。祖父母と一緒に暮らせない現実的な理由もあります。そのひとつは経済的理由です。両親が共働きで通勤にも時間がかるので、祖父母の面倒をみる者が家にいないのです。

 

次の考察は、老人ホームに「入ってもらう」のか、それとも「放り込む」のか、です。私は「入ってもらう(putting)」という言葉と、「放り込む(dumping)」という言葉の二つを使いましたが、他にふさわしい言葉があるのかどうか、ちょっとわかりません。両親に老人ホームに「入ってもらう」という言葉のニュアンスと、「放り込む」という言葉のニュアンスは違いますね。老いた親を老人ホームに「放り込む」人は、老人ホームの介護の質など気にかけず、親の生活状況を問い合わせることもほとんどありません。放り込むとは、老いた親を追い出すことであり、置き去りにすることです。さよならと手を振り、自分たちの人生を楽しむために親を無きがごとくの存在にするのです。あるランチ・プラサード(お供えものをいただく)の際、私は信者たちに日本の老人ホームの状況と、お年寄りとその子供との関係について尋ねました。中には報道で得た情報を教えてくれる信者もいましたが、それも含めて、私が抱いた印象があります。老人ホームに親を入居させている子供にはいくつかの種類があるようです。まず、一つ目は、老いた親を定期的に訪問してコミュニケーションを取る人。二つ目のグループは、めったに親のもとを訪れず、数か月に一度くらいの人。三つ目は、年に一、二度しか訪れない人。さらには、まったく老いた親のもとを訪ねない人もいるようです。残念ながら、子どもが定期的に親を訪問したり、困ったことがないか尋ねたり、定期的にコミュニケーションを取っているケースは少しずつ減っています。これが今の状況です。残念な状況が増えているのは日本だけではありません。西洋でも多くの人はせいぜいクリスマスか誕生日くらいしか老いた親の自宅を訪ねない、ということを聞いたことがあります。もちろんそうではない人も多くいるでしょうが。

 

惑わされるな、予期せよ

 

 シャンカラの言葉、「しかし、年を取ったら家族の誰も気づかいの言葉をかけてくれない」を検証するためにこの話をしています。例会の通訳者であるレオナルドさんは、自身の研究の実修として日本の老人ホームの入居者と面会する機会がありました。レオナルドさんによると、お年寄りは口をそろえて「さびしい、さびしい」と言うそうです。老人ホームでは食事の心配をする必要はないし、医療などの世話もしてもらえます。しかしそれだけで十分と言えるでしょうか? お年寄りの皆さんが欲しいのは、同情心、慈悲心、愛の感情です。シャンカラは同じこと、お年寄りのさびしさについてこの節の中で語ります。お年寄りが家族と同居していたとしても、誰も話しかけません。場合によっては、弱った祖父母と孫を一緒にいさせない、ということもあるようです。

 

ですので、シャンカラのアドバイスは「バジャ・ゴーヴィンダム バジャ・ゴーヴィンダム ゴーヴィンダ バジャ ムーラマテ」です。あなたはまだ若くて元気です! あなたがお金を稼いでいるから、皆あなたの世話をします! しかし皆、あなたが病気になれば稼ぎがなくなることを知っています。その時皆は大きな問題に直面するでしょう。もちろんそこには幾らかの本当の愛情も存在しますが、それは試されねばなりません——そしてその試練のとき、人は現実とは何かが分かるでしょう。シャンカラは私たちにこの現実に立ち向かえと言っているのです。

 

 それだけではありません! これは真実でもあるのです。もし家長が、家族がこの先生活できるだけの十分な財産を残さずに死んだら、残された家族は文句を言うでしょう。家族は家長が責任を果たさなかったことをとがめます。家長を亡くした悲しみなどどこへやらです。しかしこれは世界中のとてもとても厳しい事実です。甲斐性があるうちは家族に愛され優しくされますが、財産を残さずに死ねば、途端に家族は手のひらを返して不満をこぼしたり批判したりするのです。「お父さんが亡くなって私たちはどうなるの? お父さんが残したこの惨状を見てよ」と皆嘆くでしょう。たくさん預金を残せば家族は喜びますが、それほど残せなければ、家族の悲しみは苦情に変わります。このことも厳しい現実です。それは事実です「バジャ・ゴーヴィンダム バジャ・ゴーヴィンダム ゴーヴィンダ バジャ ムーラマテ おお、幻惑された人々よ、ゴーヴィンダを思いなさい」。 空想の世界で空想の生活をしてはいけません。これからは厳しい事実という現実に立ち向かう準備をしてください。

 

微笑みながら死ぬ

 

詩人で聖者であるトゥルシーダースの短い詩があります。

 

生まれたとき、あなただけが泣き、

周りのみんなはあなたの誕生に微笑んでいる。

死ぬとき、あなたは微笑みながら死に、周りの人はあなたを思って泣く、

そうなるように今から生きよう。

 

そうなるために、「バジャ・ゴーヴィンダム バジャ・ゴーヴィンダム ゴーヴィンダ バジャ ムーラマテ」という主ゴーヴィンダへの礼拝は助けとなります。「バジャ・ゴーヴィンダム」という主への礼拝と、微笑みながら死ぬ、とはどのような関係があるのでしょうか? 

 

私たちの万物との関わりは一時的で儚いものです。唯一、主ゴーヴィンダとの関わりだけが永遠です。主ゴーヴィンダは永遠の友、永遠の仲間、永遠の避難所、永遠の親です。もし神との関係を築き上げ、いつも神を覚えていれば、私たちが生きている間中、神は私たちとともにあります。困ったとき、ゴーヴィンダがともにあります。さびしい時、ゴーヴィンダがともにあります。病気の時、ゴーヴィンダがともにあります。『ラーマクリシュナの福音』の著者であるMさんは次のように記しました。重病にかかると始めは多くの同情者が訪ねてくるが、病気が長引くにつれ訪問者は次第に減り、最後にはほとんど誰も来なくなる。しかし、病気にかかった時、死の床についた時、実際は誰もいなくても、神は私たちとともにある、ということを覚えておきなさい。死んだ後も、ゴーヴィンダは私たちとともにいてくださる。もし私たちがそれほどのしっかりした信仰と信念があれば、勇気をもって、平安に、微笑みながら死ぬことができます。

 

バジャ・ゴーヴィンダムは何を示唆していますか? ゴーヴィンダを礼拝しなさい! ゴーヴィンダに祈りなさい! ゴーヴィンダの御名を唱えなさい! そうすれば私たちはゴーヴィンダとの関係を築くことができます。そして、いつも、つねにゴーヴィンダとともにある、と言うしっかりした信念を持つようになります。あなたは決して無力ではありません! あなたはいつも護られています! ゴーヴィンダは常にあなたとともにあります。たとえ皆があなたものもとを去ったとしても、ゴーヴィンダはいつもあなたとともにあります。眠っているとき、私たちはどうやって平安を得ているのでしょう?私たちが眠っているときに平安を得ているのは、ゴーヴィンダの視線が常に私たちに注がれているからです。ゴーヴィンダは目覚めていますから! この世のすべてが眠りについたとしても、ゴーヴィンダは目覚め、私たちを見守り、保護してくださっています。

 

ラビンドラナート・タゴールが歌った素晴らしい録音を少し聞きましょう。

歌詞の内容は「主は私たちの永遠の仲間、だから主に祈りましょう」というものです:

20211219月例講話の13515あたりでその録音が聞けます]

 

おお、神様! 永遠の友よ! 

どうか私を見捨てないでください、見捨てないでください、いつも一緒にいてください。

この世は深い森のようです。恐れないようにしてください、私はあなたにすべてを委ねます、

誰もそばにいなくても、あなたは私と共いいてください。

おお、神様、絶対に私を一人にしないで、一人にしないでください。

 

シャンカラーチャーリヤのこの詩がゴーヴィンダ、つまりシュリー・クリシュナに捧げられているように、シュリー・ラーマクリシュナの信者である私たちも同じように唱えることができます。シュリー・ラーマクリシュナに祈りましょう、「おお、シュリー・ラーマクリシュナ! 永遠の友よ! あなたは私の永遠の避難所です。あなたは私の永遠の支援者です。どうかいつも私とともにいてください」。

 

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[メーダサーナンダ・マハーラージの講義に続き、アニルヴァン・マハーラージがバジャ・ゴーヴィンダムを歌われた。歌の前にバジャ・ゴーヴィンダムについて以下のように話をしてくださった]

 

アニルヴァン・マハーラージ 「これからバジャ・ゴーヴィンダを歌います。バジャ・ゴーヴィンダは多くの節からできていますが、今日はその中から10節を選びました。マハーラージもおっしゃったようにバジャ・ゴーヴィンダにはさまざまなメロディーがあります。インドにはラーガ(rāga)と言う音階があるのですが、ラーガを日本語に翻訳するは難しいです。例えば皆さんご存知の「プラクリティム・パラナム」は、朝に歌うので朝のラーガでできています。「カンダナ・バヴァ・バンダナ」は、夕方のラーガ、というように一日のうちにさまざまなラーガがあります。また季節によってもラーガは異なります。つまり、朝の音階、夜の音階、夏、冬、雨期、等それぞれに音階があるのです。

一般的に、ひとつの歌には一つのラーガです。例えば「カンダナ・バヴァ・バンダナ」は一つのラーガで歌います。一つの歌に別のラーガがあるのを聞いたことがありませんが、これから披露するバジャ・ゴーヴィンダムは例外で、節ごとによって異なるラーガで歌います。MS・シュブラクシュミというインドの有名な歌手がこの歌を歌いました。彼女はある特別な理由で彼女が歌ったバジャ・ゴーヴィンダムの版権をラーマクリシュナ・ミッションに捧げました。彼女は皆さんご存知のシュリー・ラーマクリシュナへの祈り「オーム スタッパカーヤ チャ ダルマッスヤ サルヴァ ダルマ スワルーピネ」を唱えてからこの賛歌を歌います。

この賛歌はとても難しいので練習を重ねました。できる限り最高の賛歌をお届けします」

 

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—忘れられない物語

 

「生死の法則」

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

 

 誕生と死をどう免れるか──これは天国に行く方法ではなく、どのようにして天国に行くのを止めることができるか、ということだが──それはヒンドゥ教徒の探求の目標である。

 

 孤立しているものはない──全ては因果関係という、終わりなき連鎖の一部分である。もしも人間より高い存在があるのなら、彼らもその法則に従わなければならない。生命はまさに生命から生まれる。思考は思考から発する。物質は物質からつくられる。宇宙は物質からは創られ得ない。それは絶えず存在してきたのだから。もし自然の摂理によって、人間が新たに創られたものとして世に生まれ出たとしたら、何の印象も持っていないはずであるが私たちはそうではない──これが、私たちは生まれ変わるという証拠である。では人間の魂が無(nothing)から創られるとして、無に帰するのを妨げるものは何だろうか? もし私たちが未来永劫生きるのだとしたら、過去も絶えず生きてきたはずではないか。

 

 魂は心でも身体でもない。それがヒンドゥ教徒の信じるところである。常に在るもの──つまり「私は私」と言えるものとは何か? それは身体ではない、身体はつねに変化するものだからだ。心でもない、心は身体よりも速く変化し、数分でさえ同じ思いを持ち続けることはない。だが不変の実在(identity)──川にとっての土手のような、人間にとっての何かがそこにはあるに違いない──土手はその不変性、不動性によって、絶えず動く流れを私たちに認識させる。同じように、人の身体の背後、心の背後には、人を統一する何かがあるに違いないのだ──それが魂である。心というものは魂、つまり心の主人が、身体に働きかけるための精妙な道具にすぎない。インドではあなた方が「死ぬ」(give up the ghost)というところを「肉体をすてる」(give up the body)と言う。ヒンドゥ教徒は、人は魂であり、今のところは肉体を持っていると信じているが、西洋人は自分は肉体であり、魂を所持していると信じている。

 

 死は全ての複合体に起こるが、ほかの何からも構成されていない単一の要素である魂は、死ぬことなどあり得ない。まさにその性質が、魂の不滅性を示しているではないか。身体や心や魂は、法則という輪をくり返し回り続け──何ものもそれから逃れられない。太陽よりも星よりも、その法則を超越することはできない。なぜならそれが最高最大の宇宙の法則だからだ。そのカルマの法則とは、遅かれ早かれすべての行為は結果を生む、というものである。五千年前のミイラの手から取り出したエジプトの種子を植えてそれが芽を出すというのは、人間の行為の影響が果てしなく続くことを示す一例である。行為は行為を生じない限り終わることはない。だから、私たちの行為が存在のこの局面に適切な結果をもたらしても、私たちは皆、因果の連鎖を終わらせるためにまた引き返し、それが続いてゆくのだ。これが輪廻転生理論である。私たちは法則の奴隷であり、行為の奴隷であり、渇望の奴隷であり、欲望の奴隷であり、無数のものの奴隷である。ただひとつ、輪廻転生から逃れること、それのみによって私たちは奴隷状態から解放される。神のみが自由であられる。神と自由とはひとつである。それらはまったく同じものである。

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの講演の記事

190037日カリフォルニア州オークランド トリビューン誌 掲載) 

 

※この原稿は田辺美和子さんが翻訳してくださいました。

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今月の思想

 

生は夏の花のように、死は秋の葉のように、美しくあれ。

…ラビンドラナート・タゴール

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発行:日本ヴェーダーンタ協会

249-0001 神奈川県逗子市久木4-18-1

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