今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

2021年 6月 第19巻 第 6

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かく語りき――聖人の言葉

 

純粋な知識と純粋な愛は同一物なのだよ。両方とも、求道者を同じゴールに導く。愛の道ははるかにやさしい。 

…シュリー・ラーマクリシュナ

 

この世や天国で生きることを追い求めてはいけません。もっと生きたいという思いは、思い違いです。生命とは一時的なものであることを知り、無知からくるこの夢から目覚めなさい。死があなたを奪う前に、知識と自由を得るように努力するのです。

…シュリー・クリシュナ

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

20217月、8月の予定

20216月逗子例会

お釈迦様生誕祝賀会

202166日スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕祝賀会in横浜

テーマ:スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ第158回生誕記念祝賀会

        ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュ第125回生誕記念祝賀会

・スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会 歓迎のあいさつ

スワーミー・メーダサーナンダ

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会 歓迎のあいさつ

駐日インド大使 サンジェイ・クマール・ヴァルマ閣下

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会 基調講演

「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダと日本」 パート1

谷口智彦博士 慶応義塾大学教授

・スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会 来賓講演

「ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュとインド独立運動を支えた日本人志士たち」 パート1

田中健之氏 岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員

・忘れられない物語

・今月の思想

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~お知らせ~

コロナウイルスの影響のため、引き続きライブストリーミングやズームなどの配信を中心に、皆様にお届けいたします。 ズームに関するお問い合わせ、お申込みは下記にメールをお送りください。

zoom.nvk@gmail.com

 

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20217月、8月の予定

 

8月の生誕日 

86日  スワーミー・ラーマクリシュナ―ナンダ   

 

8月の協会の行事

 

804日(水)8:309:30 ウィークリー・ウパニシャド・クラス

807日(土)10:3012:00 大使館バガヴァッド・ギーター聖典講義  

811日(水)8:309:30 ウィークリー・ウパニシャド・クラス

815日(日)14:0016:30  クリシュナ生誕祭

818日(水)8:309:30 ウィークリー・ウパニシャド・クラス

829日(日)14:0016:00 ラーマクリシュナの福音勉強会

 

<ホームレス・ナラ・ナーラーヤナへの奉仕活動>

日程:通常 毎月 第4金曜日

現地でのお食事配布など。

お問い合わせ:佐藤 urara5599@gmail.com

 

<ハタヨガ・クラス>

日程:通常 毎月 第1、第2、第4土曜日 10301200

 

※スケジュールは変更になることがあります。詳細はホームページをご覧ください。 https://www.vedantajp.com/

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逗子例会

お釈迦様の生誕祝賀会

ヴィシュッダ・シッダーンタ歴に基づくお釈迦様の生誕日は2021526日でしたが、日本ヴェーダーンタ協会の月例会は毎月第三日曜日のため、生誕祝賀会を6月の20日に執り行われました。日本ヴェーダーンタ協会のユーチューブにて、午後のプログラムをご覧いただくことが可能です。https://www.youtube.com/channel/UCACkMHPYx2CVLg7ZyrEDoSw

 

セッションはスワーミー・メーダサーナンダ(マハーラージ)の先導で、ヴェーダの祈りを唱え、数分間の黙とうから始まった。日本ヴェーダーンタ協会CD『マントラム』中の山下良道老師が唱える般若心経に合わせて参加者も一緒に唱えた。次にマハーラージは、毎年恒例の三帰依を唱えるようにおっしゃった。

 

ブッダン シャラナン ガッチャーミー  (私は御仏(ブッダ)に帰依します)

ダルマン シャラナン ガッチャーミー  (私は法(ダルマ)に帰依します)

サンガン シャラナン ガッチャーミー  (私は僧(サンガ)に帰依します)

 

続いてマハーラージは、『仏教聖典』という本の『実践の道』の章より次のような部分を英語で読まれ、日本語訳は参加者のひとりが読まれた。

 

「鉄のさびが鉄から出て鉄をむしばむように、悪は人から出て人をむしばむ。

経があっても読まなければ経の垢、家があっても破れてつくろわなければ家の垢、身があっても怠るのは身の垢である。

行いの正しくないのは人の垢、もの惜しみは施しの垢、悪はこの世と後の世の垢である。

しかし、これらの垢よりも激しい垢は無明の垢である。この垢を落とさなければ、人は清らかになることはできない。

恥じる心なく、カラスのようにあつかましく、他人を傷つけて省みるところのない人の生活は、なしやすい。

謙虚な心があり、敬いを知り、執着を離れ、清らかに行い、智慧明らかな人の生活は、なし難い。

他人の過ちは見やすく、おのれの過ちは見がたい。他人の罪は風のように四方に吹き散らすが、おのれの罪は、さいころを隠すように隠したがる。

空には鳥や煙や嵐の跡なく、よこしまな教えにはさとりなく、すべてのものには永遠ということがない。そして、悟りの人には動揺がない」

 

それからスワーミー・メーダサーナンダが皆さんにあいさつをされた。

 

「こんにちは、ナマステ! ラーマクリシュナ僧団の僧侶と信者は『宗教の調和』を信じています。もちろん私たちはシュリー・ラーマクリシュナ、ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィー、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダとヴェーダーンタ哲学を礼拝し、その教えに従っていますが、同時にキリスト教と仏教の教祖である主イエスとお釈迦様に対しても敬意を払っています」

 

「他の宗教や聖典を学ぶことで自分の宗教に対する信仰が減ると恐れることはありません。むしろ、他の宗教や預言者の大切な教えを学べば豊かさが増します。このことは私たちの選ばれた神であるシュリー・ラーマクリシュナとその一番弟子であるスワーミー・ヴィヴェーカーナンダが私たちに教えてくれたことです。ラーマクリシュナ僧団の創設当初から、私たちは主イエスの生誕をクリスマスイブにお祝いし、お釈迦様の誕生日も祝ってきました。インドの僧団本部ベルル・マトでは、クリスマスイブとお釈迦様の生誕日をお祝いする伝統があるのです」

 

「主に仏教の国である日本という国のラーマクリシュナ僧団の支部として、お釈迦様の生誕日を祝うことはとても意義深いです。毎年元旦に、私たちは鎌倉の大仏様にお参りします。毎週日曜日の朝には『仏教聖典』を読みます。毎年お釈迦様の生誕日をお祝いし、その際には仏教の僧や尼僧をお招きしてお話しをいただきますが、昨年からはコロナの影響でそれが難しく、控えめにお祝いしています。ですので、通常は多くの参加者にご参加いただけるように別館で祝賀会を行いますが、今年は本館で少ない参加者でお祝いしています」

 

「先ほどもお伝えしたように、今年は仏教の僧も尼僧もお迎えすることができませんでした。そこで、スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダがお釈迦様とその教えについて話をします。通訳はレオナルド・アルヴァレスさんです」

 

マハーラージのあいさつの後に、スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダによる「お釈迦様の生涯と教え」の講話がはじまった。(この講話の内容は7月号に掲載予定)

 

202166

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ第158回生誕記念祝賀会

ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュ第125回生誕記念祝賀会

 

 202166日、緊急事態宣言のため、日本ヴェーダーンタ協会はインド大使館の共催でスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生誕祝賀会を横浜にて開催した。本来は南大塚ホール(東京都豊島区)という大規模会場での開催を予定していたが、緊急事態宣言のためインド大使館(東京都千代田区)へ会場変更となったのだが、スワーミー・メーダサーナンダ・マハーラージと祝賀会委員会は、横浜で適切な会場確保に奔走し、最終的にTKPガーデンシティ横浜(横浜市神奈川区)での開催となった。

 

午後2時より、英語の司会:松井ケイティさん、日本語の司会:横田さつきさんが自己紹介をされ、スワーミー・メーダサーナンダとスワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ、レオナルド・アルヴァレス、泉田シャンティさんによるヴェーダの平安の祈りの朗誦により、祝賀会が始まった。

 

続いてスワーミー・メーダサーナンダは普遍の祈りで参加者を導かれた。

 

サルヴェー バヴァントゥ スキナハ

サルヴェー サントゥ ニラーマヤハ

サルヴェー バッドラーニ パッシャントゥ

マー カスチード ドゥッカバーグ バヴェート

 

すべてが幸せになりますように。

すべてが病にかかりませんように。

すべてが幸運に恵まれますように。

この世の皆ともに苦しみから逃れられますように。

 

サルヴェシャーム スバースティル バヴァトゥ

サルヴェシャーム シャーンティル バヴァトゥ 

サルヴェシャーム プールナム バヴァトゥ

サルヴェシャーム マンガラム バヴァトゥ

 

すべての人にとって、すべてのことが良くなりますように。

すべての人が平和でいられますように。

すべての人が願いを叶えられますように。

すべての人がおのおのの生活でよくなれますように。

 

オーム シャンティ シャンティ シャンティ

 

次に、マハーラージは参加者全員にしばらくの間、沈黙の祈りに参加するようにおっしゃった。「すべての人類の平安のために、特に現在のパンデミックで亡くなられた魂や犠牲者の平安のために、その方々の最愛の人々のために祈りましょう。神様の恩寵で、現在の危機がまもなく終わり、全世界が通常を取り戻せるように祈りましょう」

 

次に、駐日インド大使サンジェイ・クマール・ヴァルマ閣下がスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの特大写真に花束を捧げられた。そして大使は、協会の『不滅の言葉』誌の特別号とスワーミー・メーダサーナンダ著の新刊『India-Japan Relationship  Swami Vivekananda and Tenshin Okakura (インドと日本の関係 スワーミー・ヴィヴェーカーナンダと岡倉天心)』(洋書)の出版を発表された。

 

続いて、スワーミー・メーダサーナンダが歓迎の辞を述べられた。(今月号に掲載)

 

次に、ヴァルマ大使がスワーミージーとネタージ両者と日本との非常に特別な関係について、簡潔に述べられた。(今月号に掲載)

 

その後、谷口智彦博士が、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに対する日本の公の認識と、ヴィヴェーカーナンダが波乱の登場をされた第一回宗教会議における日本仏教代表団に関するデータについて語られた。(この講義の前半は今月号に掲載)

 

岐阜女子大学南アジア研究センターの特別研究員で作家でもある田中健之氏は、(仏教伝来以降交流のあった)インドと日本の古代からの関係史と、第二次世界大戦下のインド独立運動への日本からの安定した支援を確保するためのネタージ氏の取り組みを余すところなく語られた。(この講演は3部構成で、パート1を今月号に掲載)

 

次にスワーミー・メーダサーナンダは上記の新刊本のための調査で新たに明らかになった所見と情報を述べられた。(今月号に掲載)

 

毎年恒例の文化プログラムはコロナ予防措置のため行われなかった。代わりに事前に録画された日本在住のインドの信者たちの歌が上映され、その後に日本の信者がマスク着用で短時間のライブパフォーマンスをした。

 

最後に日本ヴェーダーンタ協会書記の鈴木敦さん、ヴィヴェーカーナンダ生誕記念祝賀会委員会書記で日本ヴェーダーンタ協会の運営委員であるジャグモハン・チャンドラーニ氏により謝辞が述べられた。チャンドラーニ氏は、持ち帰り用菓子を提供してくださった。

 

大きなイベントルームの入り口に面した狭いホワイエには受付を設け、販売のための協会の本を小規模に展示した。

 

祝賀会の翌日、スワーミー・メーダサーナンダは祝賀委員会のメンバーに「祝賀会は順調に進み、楽しいものでした。インド大使サンジャイ・クマール・ヴァルマ氏を含め全講演者が予定通りプログラムに出席でき、講演をしてくださいました」という内容のメールを送られた。

 

また、スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダは後日、「スワーミージーの祝賀会は素晴らしく、非常に濃厚な内容でした。谷口さんの話はとても面白かったですし、田中さんの話もとても有益でした。最後の文化プログラムのレオナルド・アルヴァレスさん、泉田シャンティさん、隅野ユミさんは素晴らしかったです。この祝賀会のすべてにおいて、圧倒されました」とおっしゃった。

 

歓迎のあいさつ

スワーミー・メーダサーナンダ

 

親愛なるそして尊敬するご友人の皆さま、こんにちは!本日の主催であるインド駐日大使館者と日本ヴェーダーンタ協会を代表し、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ第158回生誕記念祝賀会及びネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュ第125回生誕記念祝賀会に皆さますべてを心から歓迎いたします。また本日の特別の来賓として駐日インド大使のサンジェイ・クマール・ヴァルマ閣下、本日の基調講演者である慶応大学教授の谷口智彦博士、作家であり研究者の田中健之氏をお迎えしています。

ヴァルマ閣下は、本日のプログラムには計画段階から熱い関心をお寄せいただいております。また本日、観客席にいらっしゃるインド大使館のヴィヴェーカーナンダ文化センター所長のシッタールダ・シン教授も今回のプログラムの開催に関して熱心にあらゆる便宜を図らって下さいました。心から歓迎致します。

 

私共は、特別な状況下で取りやめた昨年を除き1994年以来ずっとヴィヴェーカーナンダ祝賀会を東京で開催してきました。今年はこのように謙虚な形ではありますが、神の恩寵と祝賀会委員会の会員、支持者、専属的に働いて下さったボランティアの皆さまのおかげで、たくさんの障害にも関わらず開催することができたことは大変喜ばしいことです。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、インドで生まれた現代の預言者であり、世界中の何百万人もの魂を鼓舞してきました。インドの理想主義者であり愛国者であるネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュのようにイギリスの支配に対してインドの独立と自由のために戦った人々はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダから大きな影響を受けました。ネタージは自身をスワーミージーの弟子だと考えています。日本ヴェーダーンタ協会が支部であるラーマクリシュナ・ミッションは、スワーミージーが創設したインドの霊的な博愛主義の組織ですが、ネタージとは密接な関わりを持っています。

 

ネタージはインドのイギリス政府に対し日本政府の積極的な支援を受けながら勇敢に戦いました。このことから、スワーミージーの生誕をネタージの生誕と共に祝うこと、異なる次元でありながら両者が深い関わりをもった日本という国でこの祝賀会を開催するということは非常に重要な意味があります。本日、谷口教授からヴィヴェーカーナンダについて、田中氏からはスバース・チャンドラ・ボシュについてお話を聞くのを非常に楽しみにしています。私たちは本日の講演のテーマについて多くのことを学べるはずです。

 

現在、私たちは日本を含めた全世界で歴史的に重大な局面を迎えていることを実感しています。さまざまな物質的な支援に加えて、勇気と智慧、希望と共に現状に効果的に対峙していくためには、精神的な霊的な支援が必要です。理想の生き方についての議論や人を鼓舞するメッセージ、スワーミージーとネタージの犠牲の精神は、まさにそのような精神的・霊的な支援を与えてくれるものだと確信しています。そこにこそ本日の祝賀会を開催する正当な理由があるのです。

           皆さますべてを本日の祝賀会に心から歓迎いたします。

           ナマスカール!ありがとうございました。 

 

歓迎のあいさつ

駐日インド大使 サンジェイ・クマール・ヴァルマ閣下

 

谷口智彦様、田中健之様、スワーミー・メーダーサーナンダジー、ご来場の皆様、こんにちは、ナマステ。

 

この度は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ生誕158周年・ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュ生誕125周年記念祝賀会に出席することができ、大変嬉しく思います。この記念すべき日に、皆様にご挨拶を申し上げます。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯は、インドのあらゆる階層の人々を鼓舞しました。 彼は平和と調和を促進するため、時代を超越したインド文化を研究し、独自の解釈を行い、圧倒的な功績を残しました。人間の価値観を深く理解していた彼は、インド国外でも人気がありました。彼は様々な社会に蔓延する無智に立ち向かい、これを振り払おうとしました。

 

非常に実践的な人物であったスワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、人類への奉仕は神への奉仕であるため、無私の奉仕であるべきだと信じていました。彼にとって宗教とは、単なる儀式や盲目的な信仰ではありませんでした。「哲学のない宗教は迷信につながり、宗教のない哲学は無神論になる」というのが、彼の重要なメッセージです。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、より良い社会の実現のため、たゆまぬ努力を続け、貧しい人々、困窮している人々に奉仕し、人生のすべてを国に捧げました。 グルデブ・ラビンドラナート・タゴールは、スワーミージーについて、「もしあなたがインドを知りたければ、ヴィヴェーカーナンダを学ぶべきだ」と語りました。ヴィヴェーカーナンダのすべては肯定的で、否定的な要素はひとつもありません。

 

マハートマ・ガンジーも、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダのインド文化と人間的な生き方との関わりについての考察に注目していました。ガンジーはベルル・マトを訪れた際、芳名帳に「私はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの著作を熟読しました。 私の愛国心はヴィヴェーカーナンダを読んで1000倍になりました」と記しています。

 

ヴィヴェーカーナンダは、「インドが自由になるためには、ヒンドゥー教やイスラム教だけの国になってはいけない。インドは、国家主義の理想に導かれた、様々な宗教が共存する、統一された国にならなければならない。そのためには、インド人は宗教の調和という福音を心から受け入れなければならない」という見解を示しました。インドの人々は、彼の教えから大きな自尊心、そして自己主張を得ました。「自由は魂の歌である」。スワーミージーの心の奥底から発されたこのメッセージは、全国民を魅了しました。この真実は、スワーミージーの仕事、生活、会話、演説に現れていました。

 

世界を変えるための彼のビジョンは、「心を変える」という哲学に集約されています。ヴィヴェーカーナンダは、「人間の本質が変わらない限り、悲しみはやってくる。世界のすべての悲しみは、肉体的な力だけでは取り除けない。この問題を解決する唯一の方法は、人間を浄化し、聖なるものにすることだ。私たちが目にするすべての悲しみや悪は、無智から生じている。人々に精神的教育を受けさせねばならない。そうしてこそ、世界から悲しみが消えていくのだ。私たちはこの国にたくさんの病院を建てることはできるが、人間の本質が変わらない限り、悲しみは無くならない」と述べました。 世界がパンデミックという危機的状況に直面する現在、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの見解は、あらゆる種類の課題を克服する道を示しています。彼はこう説きました。「自分を危険から救い出せ。自らを助けよ。恐れるな、苛立つな。務め、励め。進み続けよ。持てる力をすべて出すのだ。そうすれば光が差すだろう」

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、インドの人々、特にインドの若者たちの間に、進歩への新たな熱意を育みました。その結果、インドの全国民は彼の生誕記念日を「ナショナル・ユース・デー」として祝うようになりました。彼はこのように語り、若者を鼓舞しました。「若き英雄たちよ、自分は偉大なことを成し遂げるために生まれたのだと信じるがよい。目を覚ませ、起き上がれ。すべての悲しみや欠乏を取り除く力が、君たち自身の中にある。そう信じれば、君たちの力が目覚める。同胞のために働きなさい。同胞も又、君を助け、後ろから支えてくれる。勇気を持て。人は一度しか死なない」。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、日本の大阪から、インドの若者に向けて「人間になろう」というメッセージを送りました。彼は若者の能力についても言及し、人類に奉仕するために自らを鍛えるよう、若者に呼びかけました。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、精神的思想家、社会改革者であっただけでなく、教育者でもありました。ヴィヴェーカーナンダの教育的思想は、人格形成に効果を発揮します。もし教育が社会変革のための最も強力な手段であると考えるならば、教育思想に対する彼の貢献は最も重要な意味をもちます。彼は、教育を「人間の中にすでにある完全性の体現」と定義しています。

 

18935月末、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはボンベイを出発し、香港、日本を経由してバンクーバーへと船で向かいました。バンクーバーからは、1893911日に開催された「世界宗教会議」に参加するため、列車でシカゴに向かいました。後年、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、インドの聴衆に向け、日本人の良い性質について何度も言及しました。彼は、インド人、特に若者は日本で世俗的な事柄を学ぶことで利益を得るだろう、そして日本人はインドの霊性を学ぶことで利益を得るだろう、と述べました。

 

幸いなことに、今日はインドの大地が生んだもう一人の偉大な息子、ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュの生誕125周年を祝う日でもあります。この二人の偉大な人物は、日本と非常に特別な関係にありました。

 

ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュは、強力な愛国心、無私の奉仕、大義への献身、そして未曾有の逆境に直面した際の並外れた勇気という、最も崇高な特性を体現しています。カリスマをもったリーダーであり、先見性のあるナショナリストであったネタージは、これからも何世代にもわたり、インド人にインスピレーションを与え続け、母なる祖国への深い愛情を植え付けていくでしょう。

 

ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュの思想と行動もまた、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの理想に大きな影響を受けました。彼はその思い出を次のような言葉で語っています。"親戚が私の町に引っ越してきて、隣の家に住み始めたので、私は彼に会いに行きました。本棚を見ていたら、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの本が目に入ったんです。数ページめくったところで、これこそ私が探し求めていたものだと気付きました。私は親戚からその本を借りて家に持ち帰り、貪るように読み、骨の髄まで興奮しました。学校の校長先生は、私の美的感覚と道徳的感覚を刺激し、人生に新たな刺激を与えてくれましたが、私の全存在を捧げられる理想を与えてはくれませんでした。ヴィヴェーカーナンダはそれを私に与えてくれたのです。私は何日も、何週間も、何ヶ月も、彼の著作に熱中しました..」。スバース・チャンドラ・ボシュは、学生時代に初めてヴィヴェーカーナンダと出会ったときのことをこのように振り返っています。

 

その後、ネタージは自らの哲学の形成を経て、政治的・国家的な問題に対する見解を持つようになりましたが、ヴィヴェーカーナンダは、生涯を通じ、ネタージを導く光であり続けました。1914年の書簡から長い年月を経た19297月、彼はチンスラーの学生たちにこう語りました。「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、一方では、インドの男たちにすべての束縛を振り払い、真の意味で「人間」になることを大胆に求め、他方では、すべての宗教や宗派の本質的な団結を説くことで、インドにおける真のナショナリズムの基礎を築いた」。ネタージは、この「真のナショナリズム」という言葉の根底に「すべての宗教の団結」への思いが込められているという認識を、生涯にわたって持ち続けました。その後、ネタージは多くの人の哲学・思想に触れましたが、ヴィヴェーカーナンダの世界観は、常に彼と共にありました。

 

ネタージはヴィヴェーカーナンダを「近代インドの創造者」と表現しました。スワーミージーは、現代社会の人道的危機を解決するための道筋を最も実践的なやり方で示しました。そのため、ネタージは国家再建に関するスワーミージーの哲学に影響を受けました。ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュも、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダと同様に、カースト、肌の色、信条、国籍にかかわらず、すべての人間は至高の意識の現れであると信じていました。

 

改めて、この記念すべき日に、皆様に心よりご挨拶申し上げます。 

どうもありがとうございました。

 

基調講演

「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダと日本」 パート1/2

谷口智彦博士 

慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授、安倍晋三内閣参謀参与

 

みなさん、こんにちは。ご紹介をいただきました谷口智彦です。

 本日は、日本ヴェーダーンタ協会、インド・ラーマクリシュナ・ミッション日本支部に集う人々を前にして、ほかならぬ、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダについてお話をすることになりました。

 どうしてこのようなことになったのか、いえ、恐れを知らない、所業に及ぶこととはなったのか、われながら、頭をかいております。

 スワーミージーと、かのスワーミー・ヴィヴェーカーナンダのことを、呼んでもよろしいでしょうか。

 本日私は、スワーミージーと、その国際性について語ろうとしております。しかし、結論を先に言ってしまいますと、このテーマを論じることは、実のところ、意味をなしません。

 なぜなら、スワーミージーが、世界と、とりわけ欧米社会と出会って、国際性を身に着けたのではないからです。話は、アベコベなのでありまして、キリスト教を最上位に置き、その他もろもろの宗教を劣ったものと見ていた当時の西側世界が、スワーミージーに出会ってしまったと、そういうべきでありました。The Westが、スワーミージーと出会うことによって、初めて、自分以外の世界を知った、つまり国際性を獲得したのです。

1893年のシカゴで、それ以前、なんの用意もなかったキリスト教白人世界は、まるでアクシデントのごとく、スワーミージーに出会うのです。それをひとつの画期、分水嶺として、時代は2つに分けられます。スワーミージーがシカゴで口を開く前と、その後と。スワーミージーに出会ってしまったキリスト教世界は、それ以来二度と、まだスワーミージーを知らなかった昔に戻ることなどできなくなりました。

 そしていうまでもなく、これがキッカケとなって、スワーミージーは米国や英国に、ヴェーダーンタの教えを広めます。インドとは、もはや単なる、東インド会社や英国女王ビクトリアに支配されるだけの属領ではなくなりました。叡智の泉として、深遠なものをもつところだと、認められるようになります。

私は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダには、そのくらい、時代を画す力があったと思っています。世界を変えた人が、国際的だったかどうか。――愚問であります。聞かずもがな、言わずもがなだと言って、しかるべきでありましょう。

 しかもスワーミージーは、文字通り画期的な変化を、たった5つの言葉で可能にしています。時代が選んだ天才にのみ訪れる、数百年に一度、あるかないかの機会に、スワーミージーは、たったの5語で、世界を変えてしまったのです。

以上が、私が、結論として言いたかったことでした。もう一度、しばらく後に、ここを繰り返します。でもその前に、まったくの門外漢に過ぎないこの私に、どうしてスワーミー・メーダサーナンダ師は、本日のキーノートスピーチをさせようとしたのでしょうか。そこに、触れておきたいと思います。

 話は、2007年に遡ります。当時、結果としては1年で終る短い在任期間を過ごしつつあった安倍晋三総理大臣は、インドを訪れました。ときのインド首相、マンモハン・シン氏をはじめとする人たちは、日本と安倍総理に対する親近感からでしょう、安倍氏のため、特別な舞台を用意して待っていました。

 その特別な場所、機会とは、その年、2007年の822日に出現しました。安倍晋三総理は、インド国会のセントラル・ホールで、上下両院議員や、マンモハン・シン首相たちが居並ぶ中、重要なスピーチをしたのです。

 丸い、大きな球形の天井と、それを支えるエンタシス風の柱。壁には、ガンジーや、タゴールの、立派な肖像画が飾られています。

 かくも厳かな、民主主義の殿堂で、安倍総理が話した演説の題名が、多くを物語っていました。題して、「二つの海の交わり」。

 インド洋と太平洋は、いまやひとつにつながっていること。インドという世界最大の民主主義国と、日本というアジアを代表するもうひとつの民主主義国とが、共通の価値によっていよいよ深く結ばれることを、高らかに謳い上げたものでした。ちなみにこのフレーズは、ムガールの皇子だったダラ・シコーという人物が、その著作に使ったタイトルを、引っ張って来たものです。

 みなさま、このときの安倍総理のスピーチこそは、やがて、インドの人々によって、オーストラリア、米国の政治指導者たちによって、「インド・太平洋」という新しい地政学的コンセプトを生むキッカケとなったと、高く評価されるに至ったものです。そしてこの4か国に、強い協力の枠組みを生む契機となるものでした。

 かつて、1980年代から、つい最近まで、「アジア太平洋」という括り方が、一般的でした。けれども、この言い方ですと、インドが十分含まれません。

 台頭するインドの力に希望を見出し、強い日本は、インドにとって最大の利益であり、強いインドは、日本の国益に最も適う、と、そう考えた安倍総理は、インドを十分に招き入れ、海でつながる広大なエリアで、自由の旗を高く掲げよう、と、そう考えた。それで、「アジア太平洋」という言い方に換えて、「インド・太平洋」と呼ぶことにしたのです。

 インドには、マラッカ海峡を出てすぐ、ミャンマーの沖合に所有する島々があります。アンダマン・ニコバル諸島と、いいます。ですから、インドは、東南アジアの国でもある。

 それにインド洋は、アフリカ経済が伸びていくこれから、もっともっと、産業と、経済の、海のハイウエイになります。ですから、インド洋と、太平洋は、結びつきます。しかもこれを東西両方から、インドと、日本という、民主主義の両国が、しっかりと支えるわけです。

 そのことを打ちだした最初の、しかも、決定的な第一歩が、セントラル・ホールにおける演説でした。

 それほど重要な演説を始めるにあたって、安倍総理は、The different streams, having their sources in different places, all mingle their water in the sea という、海の交わりを強く示唆する言葉を引用しました。そして、こう言っています。

 「インドが生んだ偉大な宗教指導者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの言葉をもって、本日のスピーチを始めることができますのは、私にとってこのうえない喜びであります」。

 もはや、おわかりでしょう。どんな流れでも、大きな海に入ってしまえば、みな混じり合うではないか、というスワーミージーの言葉は、彼が、1893年、米国のシカゴで開かれた万国宗教会議にヒンズー教の代表として立ったとき、サンスクリットの古い祈りの言葉から引いて、用いたものだったのです。

 そして、はるばる日本からやって来た53歳の政治家が、スピーチの最初にこの言葉をもってきたことに、セントラル・ホールに居並ぶインドの指導者たちは驚き、次いで、感激して、割れるような拍手をもって、安倍総理を称えたのでした。

 このときから14年経ったいまでも、日本とインドの関係を画した重要な演説だったと、少なくないインドのリーダーたちは、折に触れ、口にします。

 そしていつからか、このスピーチを書いたのが、当時、外務省にいて、外務大臣や総理大臣の外交演説を書いていた谷口智彦という人間だと、デリーでも、東京でも、知られるようになりました。いつしか、私は、自分の素性を隠しておく意味を見出せなくなってしまいます。はっきり言って、バレバレ、になってしまったからです。

 ついでに言ってしまいましょう。このときのご縁が大きなキッカケとなって、私は、安倍第二期政権の78カ月、総理がお話しになる外交演説のうち、重要なもののライティングをになう栄誉に浴します。

 このことは、安倍総理が、いろいろな場所で、言及してくれています。また、自分が安倍総理について書き、出版した本の中でも、自ら暴露しています。『誰も書かなかった安倍晋三』という題名で、飛鳥出版というところから出ています。どうか、お買い求めください。

 押し付けがましい宣伝はともかくとして、それが、私と、インドが生んだ最も偉大な宗教的指導者のひとり、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダとの、ささやかな出会いでありました。やがてこの小さな機縁が、私と、スワーミー・メーダサーナンダ師とのご縁をもたらします。そして本日、皆さまを前に、このように、大それた所業に出ることとは、あいなったというわけであります。

 話を、シカゴ万国宗教会議の舞台へ戻しましょう。

 スワーミージーが、あの歴史的スピーチをしたのは、会議初日でした。日付に、ご注目ください。それは1893年の、9月、第2月曜だったのですが、日付は11日です。「911」です。

 そのちょうど108年後、ニューヨークとワシントンを、同時テロが襲いました。宗教的不寛容が、なかんずく、イスラム教過激派の、キリスト教徒を敵とみなす偏狭さが背後にあったことは、その後、常識となりました。

 そこで私は、驚いたのです。「911」の108年も前に、インドの宗教家が語った言葉は、私たちが生きるいま、むしろもっと痛切な響きを伴って、聞こえてきますことに。安倍総理のスピーチを、スワーミージーの言葉で始めようと思ったのは、そこに理由がありました。

 それは、会議の初日、午後のセッションにおいてだったと伝わっています。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、人々の眼を射るオレンジの衣に身を包み、頭をターバンで覆った姿で演台に現れると、こう、語り始めました。

 Sisters and brothers of America.

 もういちど。Sisters and brothers of America.

 どうして、ですか。どうして、Ladies and Gentlemenではなかったのでしょう。

 of America、と、言って、アメリカ中の人たちに語りかけようという、そんな野心が汲み取れますね。このとき、スワーミージーは、まだ、30歳。インド中を托鉢して回り、経験豊かな宗教家に成長していたとはいえ、最初から、アメリカ中に響けと、気迫を漲らせています。

 Ladies and Gentlemenでなかったのは、では、どうしてでしょう。

 それは、Sistersと発音したとたん、参加して会場にいた女性たちが、きっと雷にでも撃たれたような反応をするだろうということを、きちんと計算したうえでのことだったと思います。Ladiesなら、驚かない。いきなり、Sistersですから。

 そしてSisters とくれば、次は当然、brothers です。

 ここまできて、聴衆は、この、初めて見たインドの青年の意図したところを、一瞬で理解したのではないでしょうか。あなた方と、私とは、同輩である。そう言いたいのだな、と。

 人種間に、優劣は、ない。宗教と宗教の間にも、どちらが上で、どちらが下などという関係はない。スワーミージーは、スピーチの中で、もっぱらその点を訴えるわけですが、その主張を、たったの5語で、くもりなく、理解させることに成功したのだと思います。

 皆さま、スピーチとは、会場に、どよめきをもたらし、拍手を呼び起こしてこそ、後に語り継がれることともなるわけで、ひとつの立派な、音声芸術であります。

 例えば、矢沢永吉に、ロックのことをスピーチしてくれと頼んだら、きっとすばらしい演説をするのじゃないでしょうか。ステージから聴衆を動かそうとする点、スピーチもロックも、そう違いがないからです。

 では、スピーチが音声芸術なんだとして、このときの、Sisters and brothers of Americaという5語を、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、どんな声で、口にしたのでしょうか。

 

(パート1は以上です。パート2は7月のニュースレターに掲載いたします。)

※谷口智彦様から頂戴した原稿を掲載させていただきました。(固有名詞はニュースレターの表記に準じて変更しました。)

 

 

来賓講演

「ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュとインド独立運動を支えた日本人志士たち」 パート1/3

田中健之(たなかたけゆき)

歴史作家、岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員、

ロシア科学アカデミー、東洋学研究所、客員研究員

 

古代から交流があったインドと日本

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生誕祭、それに、今日はネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュ生誕一二五周年にお招き給わり誠に有難うございます。そしてこの、偉大な記念すべく日に、私の一族と御縁があった「ネタージ・スバース・チャンドラ・ボシュとインド独立運動を支えた日本人志士たち」について、インドの皆さまの前で、講演できることを講演が出来ることを光栄かつ心から感謝しております。

 私ことで恐縮ですが、私の曽祖父は九州・福岡の出身で、平岡浩太郎と申します。曽祖父は、地元の福岡に玄洋社という政治団体を結成し、明治維新後に徳川幕府に代わって、日本を支配していた薩長藩閥政府の独裁体制に反発して、自由民権運動を展開し、国会開設や憲法制定などを薩長藩閥政府に要求して来ました。

 曽祖父は、一八八九(明治二十二)年二月二十一日に大日本帝国憲法制定が公布されると、以前から行っていた、日本が欧米列強諸国と幕末に締結した不平等条約の改正運動に一層力を注ぐと共に、一八九四(明治二十七)年に、第4回衆議院議員総選挙で福岡県第三区から出馬し衆議院議員に当選し、一九〇五(明治三十九)年に逝去するまで、以後、第9回総選挙まで連続六回の当選を果たしました。

その一方、当時、欧米列強諸国の植民地となっていたアジア諸国の独立運動の支援を積極的に行っていました。

 特に、中国の革命家、孫文の亡命と革命を支援し、日本に亡命した孫文の生活費その他の費用の全額と革命活動資金の大半を提供しました。

 また、薩長藩閥による独裁政権を倒すために、自由民権運動の同志であった、板垣退助と大隈重信を一八九八(明治三十一)年合同させ、日本最初の政党内閣である隈板内閣を成立させました。

 この時、曽祖父は隈板内閣成立の中心人物であったにも関わらず、周囲の議員が閣僚になりたくその座の椅子取りゲームをしている姿を醜く思い、一切の役職を辞退しています。

 曽祖父は、その政治活動の資金を作るために、福岡の筑豊地方で炭鉱業の経営に着手して大成功を修め、一九〇一(明治三十三)年には、福岡県で一番の高額納税者となりました。

 今日、筑豊の炭鉱王として、平岡浩太郎の名前は、麻生、貝島、伊藤、安川と共に歴史に刻まれており、曽祖父が関係して創立した企業が、今日も尚、若築建設、安川電機、西日本新聞社、JR九州、九州電力、西部ガスなどの大企業として残っています。

 また曽祖父は私財を投げ打って、地元の農民に雇用を生み出すと共に、日本の近代化を実現するために、地元に殖産興業を起すべく、官営八幡製鉄所(現・新日本製鉄)を北九州に誘致したり、九州大学に医学部を設立する資金を提供したりすると共に、教育事業も熱心にやっていました。

 その曽祖父、平岡浩太郎と一体になって共に玄洋社を創立し、活動をしていたのが、その親戚である頭山満です。

 また、後にロシア問題を専門として活動するために黒龍會を創立した、内田良平は、曽祖父の甥に当ります。

 後にお話し致しますが、頭山満、内田良平を代表とする日本の民間の志士が中心となって、インド独立革命家でラシュ・ビハリ・ボシュの亡命を支援したことをご縁として、彼らはインド独立運動を支援することとなります。

 本題に入る前に、簡単に、インドと日本との関係史についてお話ししましょう。

 インドと日本との交流の歴史は極めて古く、六世紀のこと、仏教が日本に伝来したことで、交流が始まりました。

 七三六(天平八)年、仏教を広めるために来日したインドの僧侶菩提僊那(ぼだいせんな=Bodhisena)は、東大寺の大仏の開眼供養会の導師を勤めました。

 菩提僊那(ぼだいせんな=Bodhisena)は、

七六〇(天平宝字四)年に亡くなるまで、そのまま日本に在住していました。

インドから日本に伝えられた仏教を基礎にしたインド文化は、日本文化に大きな影響を与えました。

仏教によって結びつけられたインドと日本は、両国の僧侶や学者がしばしば互いの国を目指して航海の旅に出ています。インドの仏教僧は八世紀より日本を訪れています。

現在、破壊されてしまったインドのナーランダにある古い仏教の学院の記録には、日本から来た学者と弟子のことが書かれてあります。

日本からインド亜大陸への渡航者で最も有名な一人が、古代日本のインドを示す名称である天竺に因んで名付けられた、江戸時代前期の商人、探検家である天竺徳兵衛です。

 インドと日本の文化的交流は、両国の民話において多くの類例を生み出しています。 

今日の漫画やアニメなどの作品のような現代の大衆文化は、時には、インドと日本との共通の神(デーヴァ)や悪魔(阿修羅)が登場します。

ところで、インドの女神サラスヴァティラフマーは「梵天」、ヤマは「閻魔」として知られています。

また仏教の影響が普遍的にみられるインドと日本の社会では、現在の世界の他の国においては一神教が多いのに対して、アニミズムの宗教である神道と同様、ヒンドゥー教にもアニミズムの要素がみられます。 

ヒンドゥー教と仏教で使われている古典的な言語であるサンスクリット語は、日本に移り住んだ古代中国の僧侶によって伝えられており、それは尚、今日でも用いられています。

またインドでは既に用いられていない梵字は今でも、日本の寺院では使用されています。また、日本の神社の入り口にある鳥居は、インドの寺院の入り口にあるトラナと関係があるかもしれないという考えもあります。

 十六世紀、日本はポルトガル領となったインドと政治的関係を築きます。

当時の日本人は、ポルトガル人はインドから渡来し、キリスト教は新しいインドの信仰になったのだと考えていました。

これらの憶説は、インドの都市ゴアがポルトガルの東インド会社の中心的な拠点になっていたことや、ポルトガル船に乗っていたインド人乗員の大半がキリスト教徒になっていたためでした。

十六世紀から十七世の船員として、十八、十九世紀には、イギリス船の乗員として頻繁に日本を訪れていました。

 一五九六年にキリスト教徒の迫害が始まると、日本の多くのキリスト教徒はポルトガルの植民地だったインドのゴアに逃れて行きました。

十七世紀初頭、ゴアには日本人の取引商やポルトガル人によって買われたり捕えられたりした日本人のコミュニティーが存在していました。

 インドと日本との関係は、その頃から続いていますが、直接的に頻繁な交流が開始されたのは、日本の明治時代からです。

一九〇三(明治三十六)年には、日印協会が設立されました。

二〇世紀中頃には、インドと日本が共に「黄金時代」を迎えた両国の映画を通じたさらなる文化的交流が起こっています。

サタジット・レイやグル・ダット、ラジニカーントの映画は日本の映画に影響を与え、黒澤明や小津安二郎、清水崇の映画は同様にインドの映画に影響を大きな与えています。

そしてインドと日本の文化交流史の中で、特筆すべきは、アジア人初のノーベル分が賞を受賞した、詩人 、思想家、作曲家。詩聖として非常な尊敬を集めており、インド国歌とバングラデシュ国歌の作詞・作曲、およびの作詞したタゴール国際大学の設立者でもあったラビンドラナート・タゴールと日本の関係です。

タゴールは、早くから日本に対する関心が深く、一九〇二(明治三十五)年にインドを訪れた、「アジアは一つ」という名言を遺した思想家で、美術史家だった岡倉天心と親交を結び、その交友は一九一三(大正二)年に天心が逝去するまで続きました。

一九一六(大正五)年に初来日したタゴールは、岡倉天心の墓を訪れ、天心ゆかりの六角堂で詩を読んでいます。

彼はそれ以降、計五回来日しています。

彼は、岡倉天心をはじめ河口慧海、野口米次郎らとの親交があり、日本人の自然を愛する美意識を高く評価しています。

 

 

 ラシュ・ビハリ・ボシュの日本亡命

 

 一九一五(大正四)年六月、タゴールの親族だとして、一人のインド青年が来日しました。

この青年は、タゴールと同じインドのベンガル地方の出身でしが、タゴールの親族ではなく、実は、ラシュ・ビハリ・ボシュという、インド独立革命家でした。

 彼は、インド独立運動の精神的リーダーで、インドの伝統的な思想を求道したオーロビント・ゴーシュの思想的な影響を受けて、インド独立運動に身を投じた人でした。

イギリス植民地政府の官吏としてデヘラードゥーンの森林研究所で事務主任を務める一方、インド国民会議に参加すると共に、森林研究所の事務主任という立場はグルカ兵に革命思想を教唆したり爆弾製造のための薬品や部品を集めたりして、インド独立革命のための蜂起の機会を伺っていました。

 ボシュは、インド独立運動を徹底的に弾圧し、インド防衛法を制定によって、インド人の様々な基本的人権を剥奪したチャールズ・ハーディング総督の暗殺未遂事件で爆弾を投擲して負傷させ、また「ラホール蜂起」の首謀者だとされて、一万二千ルピーの懸賞金がかけられて、イギリス植民地政府から指名手配されていました。

 ところで、一九一四(大正三)年に第一次世界大戦が勃発すると、インド国内では、戦争の混乱に応じて、独立革命を起そうとする志士たちが、活発に活動をはじめました。

 これに呼応すべく、海外に亡命していたインド独立革命家たちは、本国の志士たちと活発に連絡を取り合い、独立革命の蜂起に備えていました。

 そこでインドと地理的に遠いアメリカに亡命していた志士たちは、本国との連絡に都合がよい日本に続々と来日し、東京に在留するインド人たちと、インド独立のための画策を練っていました。

 日露戦争で大国ロシアを討ち破った日本は、久しくイギリスの桎梏に苦しんでいたインド人たちに独立の希望と勇気を与えていました。

 日本に憧憬を抱くインド青年たちは、明治天皇を崇慕して御真影を掲げ、乃木希典大将や東郷平八郎元帥を求めて、室内に飾っていました。

 そしてインド青年の間には、日本への留学熱が盛んになり、大正期に入ると、多数のインド青年たちが日本に留学していました。

 彼らに対して、インド独立革命家たちは、インド独立革命の戦列に参加するように呼びかけ、多くの留学生たちが、実践的な独立運動に参加するようになりました。

 こうして東京は、インド独立革命の志士たちの策源地となったのでした。

 一九一五(大正四)年の秋、大正天皇ご即位の大典が行われる事に際して、在京のインド人たちは、上野の精養軒で、大正天皇御大典奉祝会を開催しました。

 この時に来賓として、アメリカから来日したラージパト・ライ、ヘランボール・グプタ、ラシュ・ビハリ・ボシュの三人のインド独立革命家を招きました。

 奉祝会の会場は日本人の来客も多く招かれていて、大勢の人々に賑わっていましたが、この中にイギリス大使館から送り込まれたスパイが、潜り込んでいました。

 後に、これらスパイの大使館に宛てた報告書によって、当時、指名手配されていた、ラシュ・ビハリ・ボシュがいることが発覚しました。

 イギリス大使館から報告を受けたイギリス政府は、ライ、グプタ、ボシュの三人の独立革命家を日本から国外退去させるように、日本政府に圧力をかけました。

 当時、日英同盟を締結していた日本政府は、いとも簡単に三人のインド人の国外退去命令を出しました。

 三人のうち、ライは国外退去命令が出される寸前に、アメリカに向けてすでに出国していましたが、残る二人には国外退去命令が出されました。

 国外退去の期限までには、アメリカ行の船舶はなく、いずれも英領香港かイギリスが租界地を持つ上海経由の船舶しかなく、これらの船に彼らが乗った場合には、当然、イギリスの官憲に捕えられることになり、よって二人は逮捕され、極刑に処されることになります。

 そこでボシュは、日本に亡命している孫文に相談したところ、彼は自分自身が亡命で世話になっている頭山満を二人に紹介し貰うと共に、救援を求めました。

 頭山は早速、日本政府に対して、二人の亡命を求めたが、日本政府は、

「今の日本はドイツと交戦中だ。あの二人はその敵国の軍事機関の協力者だ」

 と一方的に決めつけて、一切彼らの亡命について耳を傾けることありませんでした。

 日本政府の極めて冷淡な態度に、頭山は非常の決断をします。

 同年十二月一日午前二時、頭山は親戚で黒龍會の主幹を務める内田良平の所に電話を入れます。

「即刻来て貰いたい」

 内田が頭山邸に行くと、そこには玄洋社の先輩の杉山茂丸が先客としていました。

 内田が座に着くと、

「例のインド人が、ドイツと共謀している事実があるのかないのか確りとはわからない。しかしインド人として、彼らが祖国独立のために一切を捧げている精神は、これを援けてやらなくてはならない。政府には色々と交渉したが、合法的には話が着かない。

 ここは自分が、どんな汚名を浴びようとも牢に入ろうとも構わない。だからあのインド人二人を隠してやると決心した。俺は不器用だから、君で一切の方法を工夫してもらいたい」

 頭山の決意に同意した内田と杉山は、即座にその任に当たることを誓い、国際的に注目を浴び、日英官憲の追及を振り切って、二人のインド人を逃亡させ、隠匿する計画に着手した。

 強制退去の前日、頭山満の筋から何も知らされていなかったボシュとグプタが帝国ホテルで記者会見をしていると、

「赤坂の頭山邸で、日本人の同志が送別会をしたいと言って集まっているから来て欲しい」

 という伝言を受け、二人が頭山邸に行ったところ彼らは即座に和服に着替えさせられ、裏庭に案内され、二人の黒龍會の会員で柔道の猛者に守られながら地続きの隣家の庭を通って裏道に出て、用意されていた自動車に乗せられた。

 当時、自動車は少なかったが、それでも追跡された時には、それを振り切る速度で走ることが出来る最新式のパッカードが用意されていた。この車は、日本で極めて少ない車で、杉山茂丸が所有する車であった。

 二人のインド人にくっ付いていた警視庁の警察官は、頭山邸に入ったまま、一向に出て来る気配がないため、意を決して頭山邸の玄関に向かい、彼にインド人について尋ねたところ、

「直ぐに帰った。後の事は一切判らぬ」

 と言うだけであった。

 その後、二十数人の警察官が頭山邸の家宅捜査をしたが、何も出てこなかった。

 捜査関係者は、おそらく中華革命の関係者が隠匿したのであろうとの推測のまま、頭山邸の家宅捜査は終了しました。

 実は、二人のインド人は、東京・新宿でパン屋を営む中村屋に匿われていました。

 中村屋の主人相馬愛蔵、黒光夫妻は信州、安曇野出身の知識人で、大勢の画家や彫刻家などのスポンサーとして有名でした。

 彼らは、画家たちに提供していたアトリエを二人のインド人の隠れ家として、提供しました。

 二人のうちグプタは後に、大川周明の宅に移り住みましたが、ボシュはそのまま中村屋のアトリエにいました。

 二人のインド人の逃亡計画を計画、組織したのが、内田良平で、主に実行に任に当ったのが、内田の黒龍會創立以来の同志で、内田没後、黒龍會二代目主幹として活躍した葛生能久でした。

 後に植民政策史の専門家として、東洋の碩学と謳われた大川周明は、この事件をきっかけに、インド独立運動の支援に携わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』を執筆し、日本が日英同盟を重視して、イギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力しました。

 やがて頭山らの努力によって、同年中に日本政府はボシュの国外退去命令を撤回しました。

 そこでグプタは、元々拠点であったアメリカへと出国し、ボシュはそのまま日本に残りました。

 

パート1は以上です。パート27月、パート38月のニュースレターに掲載予定です。

※田中健之様から頂戴した原稿を掲載させていただきました。(固有名詞はニュースレターの表記に準じて変更しました。)

 

 

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—忘れられない物語

 

「信奉者」

 

 ナルキッソスが死んだとき、彼の喜びの泉が甘い水の杯から塩辛い涙の杯へと変わった。山のニンフであるオレイアスたちは、歌うことで泉を慰めようと、すすり泣きながら森を通って泉にやってきた。

 

泉が甘い水の杯から塩辛い涙の杯に変わったことを知ると、オレイアスたちは緑の髪の房を解き、泉に叫んで言った。「あなたがそのようにナルキッソスのことをお嘆きになるのも無理はありません。だってあんなにも美しかったのですもの」

 

「ええ? ナルキッソスは美しかったのですか?」と泉は言った。

 

「あなたが一番よくご存じでしょう」

とオレイアスたちは答えた。「ナルキッソスは私たちニンフには目もくれず、あなた(泉)を探し出し、あなたのふちからあなたをのぞき、あなたの水面を鏡にして、自分の美しさを映していたではないですか」

 

泉は言った。「でも私が彼を好きだったのは、彼が私のふちから私をのぞくときに、彼の瞳に映る私の美貌を見るのが好きだったからですよ」

 

オスカー・ワイルド

 

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今月の思想

 

目標のあるところには幸せもある。

…スワーミー・アベダーナンダ

          

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発行:日本ヴェーダーンタ協会

249-0001 神奈川県逗子市久木4-18-1

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