今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

2024年1 月 第22 巻 第1 号

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かく語りき――聖人の言葉

 

霊的意識が満ちてくると、自分のハートの中にお住まいの神が、抑圧されている人、迫害されている人、不可触民、アウト・カーストの人などの、他者のハートの中にもお住まいだと気づくでしょう。この認識によって人は本当に謙虚になります。

…ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィー

 

誰かのプロジェクトに冷や水を浴びせてはいけません。批判は一切やめなさい。彼らがうまくやっているとわかっている限りは皆を助けなさい、うまくいっていないようなら、間違いを優しく示しなさい。すべての間違いの源は、お互いを批判することだ。それが組織を崩壊させる主な原因である。

…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

・2024年3 月の生誕日

・2023年10月月例会

「スワーミー・プレーマーナンダ」

スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ

・2023年12月月例会

「瞑想をより深める方法」

スワーミー・メーダサーナンダ

・クリスマス・イブ礼拝のレポート

・2024年1月1日(月)カルパタル・デーのレポート

・忘れられない物語

・今月の思想

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お知らせ

各プログラムに参加を希望される方はご一報ください。

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

石川県能登半島の地震災害に対するご寄付はホームページをご覧ください。

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2024年3 月生誕日

シュリー・ラーマクリシュナ      3月12日(火)

シュリー・ガウラーンガ        3月25日(月)

スワーミー・ヨーガナンダ       3月29日(金)

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2023年10月例会 10月15日

「スワーミー・プレーマーナンダ」

スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダ

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはかつてシュリー・ラーマクリシュナについて、彼は「神聖なる愛(プレーマー)」の権化であると述べました。シュリー・ ラーマクリシュナの出家直弟子のそれぞれに、師の特徴が何らかの形であらわれていましたが、師の神聖な愛という側面は、スワーミー プレーマーナンダにあらわれていました。スワーミー・プレーマーナンダがマハー・サマーディ(入滅)に入った後、『ラーマクリシュナの福音』の著者マヘンドラナート・グプタ(Mさん)は、「シュリー・ラーマクリシュナの『神聖な愛』という側面が、神聖な僧団から去りました」とコメントしたほどです。 

 

初期

プレーマーナンダジーは、コルカタから約30マイル離れたアントプールという村で生まれました。彼の僧侶になる前の名前はバーブラーム・ゴーシュでした。彼の母親であるマタンギニ・デーヴィーもシュリー・ラーマクリシュナに会うという幸運に恵まれ、後には近しい信者の一人になりました。彼は若い頃から霊的生活に興味を示しました。先輩の僧侶と一緒に人里離れた場所に滞在し、質素で禁欲的な生活を送りながら霊的修行を行うことをよく夢見ました。  

 

シュリー・ラーマクリシュナの御前で 

バーブラームは村の小学校を卒業した後、高等教育を受けるためにコルカタに行き、Mさんが校長を務めるメトロポリタン・インスティテューションに入学しました。そこで彼はラカル(のちのスワーミー・ブラフマーナンダ)と出会い、親友になりました。当時ラカルはすでにシュリー・ラーマクリシュナのもとに通い始めていました。会話の中でラカルが師について話すと、バーブラームは是非ドッキネッショルに行ってみたいと言いました。

 

ラカルとバーブラームがドッキネッショルに到着すると、シュリー・ラーマクリシュナは二人をとても歓迎し、そこで一夜を過ごすことを許可しました。師は、新訪問者によくするように、(手の重さを測るなど)体のさまざまな部位をチェックして、良い兆候を見つけて満足しました。ちなみに、ドッキネッショルという場所は、バーブラームの少年時代の夢に出てきた場所に似ていたので、心の中で密かに憧れていた場所にたどり着いたことに驚いたそうです。バーブラームはドッキネッショルから戻った後、頻繁に師を訪ね、徐々に他の信者たちにも紹介されるようになりました。

 

次第に、彼の師とのつながりは今生だけのものではなく、もっと深いつながりがあることが分かるようになりました。シュリー・ラーマクリシュナも彼を内輪の弟子と認めました。シュリー・ラーマクリシュナは非常に純粋だったので、不純な人に触れることができませんでしたが、恍惚の状態の時にもバーブラームには触れることを許可しました。師はよく「バーブラームは骨の髄まで純粋だよ。どんな不純な考えも、彼の心をよぎることはない」と言いました。師との緊密な関係はバーブラームの心に偉大なヴァイラーギャ(放棄)をもたらし、彼の勉強への興味は失われました。バーブラームは大学の入学試験を受けましたが、合格できませんでした。しかしながら、シュリー・ラーマクリシュナは、その知らせを聞いて喜びました。なぜなら、試験や免状がしばしば人を縛る足かせになるとみなしていたからです。

 

シュリー・ラーマクリシュナはよくバーブラームを「ダラディ(魂の友)」と呼びました。初期に、シュリー・ラーマクリシュナがバーブラームの母マタンギーニに「私の側にあなたの息子を残しっていってくれ」と願うと、マタンギーニハは快く承諾しました。彼女は「子供との死別という悲しみを味わうまで生き永らえることがありませんように」と祈り、シュリー・ラーマクリシュナは彼女の祈りを聞き入れました。

 

兄弟僧として

シュリー・ラーマクリシュナのマハー・サマーディ(入滅)の後、バーブラームは世を捨ててボラノゴル僧院に滞在し始めた若者のグループに加わりました。ある十二月、バーブラームの母親がアントプールに若者たちを招待しました。ボラノゴル僧院にあつまった若者たちは全員列車に乗り、賛歌を歌いながらアントプールに行きました。アントプール滞在中のある寒い夜、若者たちは中庭で焚火を興し、そこに集まって瞑想しました。ナレンドラは、主イエスの話を始めました。放棄について説いたのです。それに鼓舞された彼らはそのドゥニの火の前でサンニャーサの誓いを立てる(僧衣をまとう)決心をしました。後に彼らは、それがクリスマス・イブであったことを知りました。サンニャーサの誓いを立てた後、バーブラームはスワーミー・プレーマーナンダになりました。

 

他の直弟子同様、バーブラーム・マハーラージも巡礼地を数か所訪れ、激しい霊的実践を行いました。スワーミー・ラーマクリシュナーナンダがスワーミージー(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ)の要請でチェンナイで教えを説くために旅立つと、スワーミー・プレーマーナンダはシュリー・ラーマクリシュナの礼拝を行うという役割を引き継ぎました。ある日、スワーミージーはプレーマーナンダジーを呼んでこう言いました「あなたは今まで写真の中のシュリー・ラーマクリシュナを崇拝していましたが、これからは人間の中に生きている神にも仕えてください。近隣へ出かけて行き、病人や苦しんでいる人たちに奉仕してください」。そこでスワーミー・プレーマーナンダは兄弟弟子の命に従って村へ行き、非常に貧しく衛生状態の悪い少年らをベルル・マトに連れてきて石鹸を使って沐浴させ、きちんとした食事を与え、その後、家に送り返すことなどをしました。

 

スワーミージーが肉体を離れる3日前のことです、スワーミージーはベルル・マトの敷地内を散歩し、ある場所を指差して、「私が死んだらここに火葬してください」と言いました。亡くなる日、スワーミージーはスワーミー・プレーマーナンダと共に朝食と昼食をとり、とても陽気な気分でさまざまな話をしました。彼はまた、ベルル・マトでヴェーダ・ヴィッディヤーラヤ(ヴェーダの勉強をする学校)を始めるという自分の考えをスワーミー・プレーマーナンダに伝えました。スワーミージーは彼に二つの指示を与えました。第一に、直弟子をとらないこと。第二に、ベルル・マトの諸事の管理をすることです。スワーミー・ブラフマーナンダが僧長だったとき、彼は発展を始めている各支部を調査するために数か月間ベルル・マトを離れることがありました。そんな時、スワーミー・プレーマーナンダがベルル・マトの諸事を管理しました。

 

スワーミー・プレーマーナンダは、祭殿でのシュリー・ラーマクリシュナへの毎日の儀式的礼拝、台所と食堂の世話、信者の毎日の食事、菜園の手入れなどをしました。また若い新人見習い僧を指導し教えました。実際、家庭のぬくもりから離れ、放棄の生活を始めた新人見習い僧の生活を築くことが、彼の大事な仕事の一つになりました。

 

僧団の母

スワーミー・プレーマーナンダのハートは、ベルル・マトの運営中に完全に花開きました。彼は真の愛(プレーマー)の権化となったのです。スワーミージーが説く「燃えるような無私の愛」がスワーミー・プレーマーナンダの人格に完全にあらわれました。何百人もの世俗の人びとが彼の愛に触れて信者になりました。彼の愛に惹かれて、何人かの若者がベルル・マトを訪れ、彼の口からシュリー・ラーマクリシュナについての話を聞きました。彼らの多くは、プレーマーナンダジーの深い愛と心を打つ放棄の言葉に感動して、あたたかい家庭を離れ、僧侶として僧団に加わりました。プレーマーナンダジーもまた、あらゆる方法で若者たちの生活を形作るために熱心に働きました。話し方、歩き方、野菜の切り方、祭殿の掃除、牛の世話、食事の配膳などのすべてを彼が教えました。彼はよく言いました。「中庭のとげのある茂みを取り除いてください。師(シュリー・ラーマクリシュナ)が中庭を散歩なさるときにけがをしてはいけないので」「キンマの葉を巻くときは、ライムを入れすぎないでください。師の舌が火傷してしまいますから」「礼拝用の白檀のペーストを作るとき、ざらざらした粗い粒子を入れないように」「師は温かい食べ物がお好きだったので、冷たい食べ物を供えないでください」「夜に蚊帳を張った後に、師の御足を心でマッサージしてください」「もし師が夜中に目覚めたら水を所望されるかもしれませんので、師のベッドの近くにコップ一杯の水を置いてください」。このようにして、プレーマーナンダジーは新人見習い僧たちに、あらゆる活動をシュリー・ ラーマクリシュナへの礼拝に結び付けるように教えました。

 

彼はとても愛情深い人でしたが、時には厳しくもありました。ある時、一人の新人見習い僧が牛の飼料を切っているとき、不注意で指を切ってしまいました。彼の手からは血がにじみ出始めました。たまたまプレーマーナンダジーはさまざまな部門の世話をした後に僧団を散歩しているときでした。彼が牛舎に近づいたときにその出来事を見て、慰めるどころか「飼料を切るように頼みました。指ではありません。君はとても不注意だね…」などと叱り始めました。それからその新人見習い僧を治療のために医務室に連れて行きました。

 

プレーマーナンダジーは公平な方でした。新人見習い僧の生活のあらゆる面において、平等に注意を払いました。彼は「(仕事、瞑想、学習などを)総合的に進めてください」と強調しました。彼はある時、庭仕事ばかりしている見習い僧を見て、「君は肉体労働をするためにここへ来たのかね」と即座に叱責しました。見習い僧が「私はサンスクリット語がよくわかりません」と答えると、プレーマーナンダジーはすぐにサンスクリット語の教科書を手配して、3か月以内にその本を読み終えるように指示しました。

 

プレーマーナンダジーは、シュリー・ラーマクリシュナが述べた三つのランクのお医者さんのうちの最高のランクのお医者さんでした。彼は新人見習い僧に、時には優しい言葉で、時には厳しく、時には愛をもって、時には厳しい叱責によって、時には耳をつまんででも彼らに教えました。しかし、叱った相手に対しては、余分に料理を出してくれることもよくありました。ですので、彼に叱られることはある意味、特権でした。新人見習い僧たちはプレーマーナンダジーの叱責や批判はすべて自分たちを高めるためであることをはっきりと理解していたので、プレーマーナンダジーの愛情深い御足に委ねました。プレーマーナンダジーも愛情深い母親のように、若者たちに対する責任を負いました。プレーマーナンダジーは、「信者への奉仕と神への奉仕に差異はありません」と教え、自らが行動で示しました。この精神に基づいて、彼のもとに来る誰とも行動を共にしました。彼の愛の流れによって世界は彼自身になりました。

 

当時、僧団には数人の若者が来ていましたが、中には昼食後や夕食後など、変な時間に来る人もいました。担当者が台所を掃除し終えて休憩している午後遅くに数人の信者が現れることがよくありました。そんな時は、バーブラーム・マハーラージ自身が料理を始めました。時々、彼は自分の食事を譲り、ご自身は空腹のままということもありました。 ある時、南インドから来た信者が2階のベランダで眠ってしまいました。プレーマーナンダジーはこれを見て、蚊帳を張り、扇ぎ始めました。ある裕福な家庭の若い信者(後に僧侶となった)がベルル・マトに来て、夜に泊まることがよくありました。プレーマーナンダジーは見習い僧に、毛布の代わりに柔らかい掛布団を用意するように頼みました。インドの毛布はざらざらしているので、育ちの良いその信者が不快に感じるかもしれなかったからです。彼はとても深い洞察力を持っていました。実際、プレーマーナンダジーは、非常に真心を込めて信者に奉仕していました。ある時、外で雨が降っていたので、信者たちの靴が濡れていました。一人の見習い僧が信者たちの靴を、足で中に取り入れていました。プレーマーナンダジーはこれを見て、「そんなことをしてはいけないよ。手で靴を高くかかげて運びなさい!」と言いました。バーブラーム・マハーラージの愛ある奉仕は、ベルル・マトの中だけにとどまらず、穀物や野菜などの食料を近くの家に配る姿がよく見られました。

 

当時、インドはイギリスの統治下にありました。独立運動に参加していた若者の中にも正式に僧院に入る者がいました。そのことから、政府はベルル・マトを監視し続けました。あるとき、上層部の指示を受けた私服の警察のスパイが僧団にやって来ました。暑い夏の日だったので、警察官は汗をかき、疲れ果ててベンチに座って休んでいました。するとどこからか僧侶がやって来て、彼を扇ぎ始め、コップ一杯の水を差し出しました。それは他でもないバーブラーム・マハーラージでした。

 

かつてある青年が若さの絶頂期に悪の仲間の影響でどんどん悪の道に迷い込みました。幸いなことに、彼は友人の一人を通じてプレーマーナンダジーと接することができました。プレーマーナンダジーは彼の悪行を知っていましたが、少しも厄介者扱いをしませんでした。それよりはいつもどおりに、とても愛情を込めて話しかけました。さて、この若者は、自分の倫理観の欠如のせいで、周囲のほとんどの人、最も親しい人たちさえもが、自分の仲間を避けて自分を見下していると感じていました。しかし、ここに自分の過去の行いを知りながらも、たくさんの愛を示した人がいました。バーブラーム・マハーラージの愛が純粋で無私であることを彼が理解するのに、それほど時間はかかりませんでした。マハーラージは彼の性質に関係なく彼を愛しました。聖なる交わりのおかげで、この若者の心は徐々に純粋になり、この世に対する客観性が芽生えたので、この世を放棄してラーマクリシュナ僧院の僧侶になりました。 

 

夕方にベルル・マトの客間で聖典の授業が行われることになりました。ときどきスワーミー・プレーマーナンダも参加することがありました。ある時、聖典の授業の時間にプレーマーナンダジーが客間に行くと、部屋は暗く、誰もいませんでした。彼は当然怒りました。彼は見習い僧たちを呼んで、なぜ欠席したのかを尋ねると、見習い僧の一人が、「在家信者がよくこの部屋に来て寝ています。だからそこで授業をするのが難しいと感じています」と言いました。するとスワーミー・プレーマーナンダジーは、「在家の信者たちは何百もの問題に悩まされています。彼らはこの神聖な雰囲気の中で悩みや問題を忘れ、眠りにつくことができるだから寝かせてあげなさい。しかし、あなた方は人々を無知の眠りから目覚めさせるためにこの世を放棄したのでしょう。あなたたちが起きているのを見て、彼らは起き上がるでしょう」と言いました。

 

プレーマーナンダジーは、新しく加わった僧侶の人格形成において重要な役割を果たしました。ある時彼は救援活動をしていた見習い僧に指示書を送りました。

1. よほどの緊急でない限り、会話を控えてください。

2. 静かにしていられない場合は、バガヴァッド・ギーターかスワーミージーの詩の一節を声に出して読んでください。

3. 常に良い考えと行動を心がけてください。

4. 肉欲、怒り、貪欲は地獄への道です。ですから絶対に避けてください。

5. 身の丈に応じて慈善活動に寄付してください。

6. 注目されることを望まず、他人の後ろで黙って働くことができる人は、本物のカルマ・ヨーギーです。認められないと働けない人は、そうではありません。

7. 病気でない限り、どんな食べ物もまずいと考えるべきではありません。何年も美味しいものを食べる習慣をつけ続けると、素朴なものを食べることができなくなります。

8. 何年にも渡ってお金持ちから寄付された高級寝具や衣服を使うと、それに慣れてしまいます。注意してください。

9. 病気のときは他人からお世話してもらっても、健康なときはそうしないように注意してください。

10. 機会があればいつでも他の人に奉仕してください。幸運にもあなたはスワーミー・ヴィヴェーカーナンダが説いた奉仕としての宗教を受け継いでいます。

 

プレーマーナンダジーの言葉

 

・ 誰もがタクールの子供であることを知り、万人を自分自身と見てください。すべての人に愛を与え、見返りを求めずに自分が持っているものは何でも与えてください。

・ 心は常に何かに取り組んでいる必要があります。ですので、神への思いと神の信者への奉仕に携わっていなさい。これがサーダナ、タパッスヤー、ヨーガです。あなた方皆がこの神の愛に酔いしれますように。

・ 「私」や「私のもの」という考えをすべて捨ててください。このちっぽけで狭い心の考え方をすべて捨て去ったとき、ハートから本物の霊性が目覚め、神聖な至福を味わうでしょう。

• 私たちの本性は愛することです。他者の強さや欠点をみてから人を愛することではありません。

• 愛によってこの世界全体を自分のものになさい。敵方も敵も存在しません。全世界が愛によって一つになりますように。

• あなたの人生を神殿にしてください。純粋さと愛をあなたのモットーとしなさい。

 

何度もプレーマーナンダジーは、瞑想をすることやシュリー・ ラーマクリシュナが説いた「私ではありません、あなたです(ナーハム トゥフー)」という考えを見習い僧や信者の心に沁みこませようと、努めました。低次の「私」がすべての問題の根本原因です。彼は信者たちに、「私の家、私の家族、私の子供たちではなく、あなたの家、あなたの家族、あなたの子供たちです」と言いました。

 

かつて、ある信者が彼に、「マハーラージ、シュリー・ラーマクリシュナはあなたを偉大になさいました!」と言ったときのことです。彼は言いました、「いいえ、シュリー・ラーマクリシュナは私たちを偉大になさったのではありません。師は私たちを何者でもない存在になさいました。あなたも何者でもない者にならなければなりません。心からすべての虚栄心を追い出しなさい。師はよく、エゴがなくなると、すべての問題はなくなる、とおっしゃいました」。

 

名前がプレーマーナンダであるように、彼は実際に愛の権化でした。彼はしばしば僧団の母と呼ばれました。彼は常に、「本当の偉大さは低次の自我を殺し、私たちの心の中にある神聖な愛を目覚めさせることにある」という考えを人びとの心に植え付けようとしていました。

 

宝石の価値は宝石商だけが分かる、と言われます。同様に、シュリー・ラーマクリシュナの出家直弟子たちは、お互いがどれほど偉大かを理解していました。かつて、長い間会わなかった後に、トゥーリヤーナンダジーがプレーマーナンダジーに会ったとき、プレーマーナンダジーにひれ伏してこう言いました、「兄弟よ、謙虚さという点ではあなたに勝るものはいません!」。ある時、ブラフマーナンダジーの前でプレーマーナンダジーは「兄弟よ、このゲルア(出家僧の着物)を脱ぎましょう。それは私たちが僧侶だと宣伝しているようなものです!」と言いました。彼は伝統的なゲルアでさえ虚栄心を消す障害になる、という気持ちだったのです。

 

プレーマーナンダジーが講演者として講義を行っていた時のことです。話の途中で、聴衆の一人が立ち上がって、「マハーラージ、神聖な愛(プレーマー)について何か教えてください」と言いました。マハーラージは話を続けました。するとその人はまた同じことを言ったので今度は、プレーマーナンダジーは少し興奮して「残念ながら、あなた方の中に神聖な愛を持つのに適した人は一人もいません。神聖な愛を得るためには、あなたの頭を捧げなければなりません。頭とは、「私」と「私のもの」のことです」。それを聞いてその人は黙り込みました。

 

以上、プレーマーナンダジーの純粋な愛についてみてきました。ミツバチが蜜の魅力に惹かれて四方八方からやって来るように、何百人もの若者が彼の愛の魔法に惹かれてベルル・マトにやって来ました。彼らの多くは僧侶になり、シュリー・・ラーマクリシュナへの奉仕に生涯を捧げました。彼の魔法の一振れで、無信仰者は敬虔な信者となり、罪人は清められ、一般の人は素晴らしい人になりました。この偉大な魂に、愛情を込めてご挨拶申し上げます。

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2023年12月月例会  12月17日

「瞑想をより深める方法」

スワーミー・メーダサーナンダ

 

はじめに

今日のテーマは、瞑想をより深める方法についてです。瞑想とは霊的な対象を集中して考えることです。今から少し瞑想をします。すでに瞑想の対象として選んだ神のある人は、その神に集中してください。そうでない人は、次のいずれかを瞑想のテーマとして選んでください。

① 澄み切った空の満月を心の中に想像。それは意識の象徴として考えてください。

② 安定した揺らがないろうそくの炎やオイルランプを瞑想。これも意識の象徴としてとらえてください。

 

では、6分間瞑想をしてみましょう。背筋を伸ばし、両手のひらを太ももか膝の上に置き、まっすぐに座ってください。そして目を閉じます。まずは深くてリズミカルな呼吸を3回行います。 6~8秒かけて息を吸い、深く吐き出します。 

 

(参加者が呼吸法の後にオームを唱え、瞑想をしました)

 

瞑想とは

それでは本題に入ります。深く考えることは、世俗的なことについても、霊的なことについてもできますね。しかし、世俗的なことと霊的な対象を深く考える結果は、大きく異なります!世俗的なことがら、たとえば科学技術、社会学などについて深く考えると、何かを発明したり、既存の問題に対する解決策を見いだすことができるかもしれませんが、心の平安を得ることはできません。一方、霊的な対象について深く考えると、継続的な平安と喜びを得ることができます。

 

瞑想に関する本はいくつかあります。例えば、『バガヴァッド・ギーター』の第 6 章、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの『ラージャ・ヨーガ』の序言、スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著『瞑想と霊性の生活』などです。瞑想に関する本は他にもたくさんありますが、上記に挙げた本は本当にとても役に立ちます。 

 

深い瞑想ができていることの例

良い瞑想を示す例をいくつか引用します。

バガヴァッド・ギーターの一つの例は「風のないところにおいた燈火(ともしび)は決して揺らぐことはない」です。よく引用されるもう一つの例は「深い瞑想に入っていると、ヘビは生き物の上を這っていることに気づかず、体もヘビの存在を感じない」というものです。また、「鳥が瞑想している人の頭の上にとまり、その人の髪をついばんでも、瞑想している人は鳥の動きに気づかない」という例もあります。 

 

シュリー・ラーマクリシュナの出家直弟子の一人で、後にラーマクリシュナ僧団長となったスワーミー・サーラダーナンダにある信者が、「マハーラージ、私たちは瞑想で座っているときに心を落ち着かせるのに長い時間がかかります。マハーラージはいかがですか?」と尋ねました。サーラダーナンダジーは、「いいえ、そのようなことは決してありません。私は瞑想のために座るとすぐに瞑想はとても深くなります」と答えました。

 

瞑想の目的

これから瞑想の目的についてお話しします。調べてみると、瞑想にはいくつかの目的があることがわかります。

・若さと美貌を保つため。特に俳優や女優は、そのような目的でしばしば瞑想を試みます。

・高血圧や心疾患、また心身症の患者への医師からのアドバイス。私は三鷹にある病院を訪問する機会があったのですが、その病院には瞑想のための部屋があるのを見ました。

 

瞑想のより深く現実的な目的は次のとおりです。

 

・心のコントロールするため。怒り、貪欲、欲望、エゴなどを抑制するため。

・心を浄化させるため。私たちは毎日、周囲から良くない刺激を受け取りますがが、瞑想は心を良くない刺激から浄化するのに役立ちます。

・集中力を高めるため。瞑想は、あらゆる種類の学びや仕事をより効率的にする助けになります。

・毎日の生活の中で起こる多大なプレッシャーと緊張を和らげるため。

・心の平安を得るため。 

・超能力を得るため。それによって名声を博し、その超能力を使ってお金を稼ぐこともできるからです。

 

しかし、瞑想のさらに高くて深い目的は、「私は誰か、私の本性は何かを知るため」「ブラフマン、神、最高の真理を悟り、輪廻転生から解放されるため」です。

 

このことから分かるように、瞑想はあらゆる心の病気といくつかの体の病気の万能薬でもあります。また瞑想は、逆境に知恵と勇気をもって立ち向かうために役立ちますし、自己成長を大いに助けます。瞑想をする人は、先ほど申し上げた一つか二つ、三つの理由ために瞑想をします。ヒンドゥ教、仏教、ジャイナ教では瞑想が非常に一般的ですが、イスラム教やキリスト教では瞑想ではなく祈りに重点が置かれています。しかし、熱心な祈りは瞑想につながります。 

 

現代、瞑想はグローバル化しています。世界中で多くの人が瞑想を実践しています。どうしてそうなったのでしょうか?スワーミー・ヴィヴェーカーナンダが西洋でヴェーダーンタを説き、瞑想について教えたことで、西洋の人々は瞑想とその実践方法を知りました。スワーミージーご自身が瞑想のやり方を実演なさいました。日本ヴェーダーンタ協会の祭壇に祀られているスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの写真は、彼がイギリスで瞑想をして深いサマーディに入っている時に撮影されたものです。こうして西洋の人々は深い瞑想とは何かを体験する機会を得ました。後に、パラマハンサ・ヨーガナンダやマヘーシュ・ ヨーギなども瞑想を教えたことで、西洋にさらに瞑想が普及しました。

 

これらの瞑想はすべて崇高な目的のために伝えられ、実践されてきましたが、今日では、人々は心の緊張を取り除くために瞑想を行うことが多いです。瞑想の目的はとても狭くて表面的なものになってしまったのです。その一例がヴィパッサナー瞑想です。それらの実践のためのトレーニングキャンプが開催されることもあります。しかし、そのような瞑想の実践のほとんどは、例えば、歩きながら、または食事をしながら心を観察するなど、体中心です。そのような瞑想にも間違いなく効果はありますが、その効果は長くは続きません。なぜなら、ほとんどのキャンプの参加者は家に戻ると実践をやめてしまうからです。

 

瞑想を始める前に明確にすべきこと

ここでは、神聖な形に集中して瞑想することについての話に限定しましょう。なぜなら多くの人にとって、神の形のない側面(アートマン、純粋な意識)を瞑想するのは難しいからです。

 

求道者が瞑想を始める前にいくつかのことを明確にしなければなりません。

・まず、瞑想の目的について。最初の目的は「心をコントロールし、平安を得ること」です。しかし霊的求道者にとって、それが最終目標であってはなりません。最終的な目的は、「神・ブラフマンを悟り、輪廻転生から解放されること」です。

・二つ目のポイントは、「規則的に心を込めて瞑想すること」です。そして、何があっても一日たりとも休まず、真剣に瞑想をしてください。

・三つ目のポイントは、「決まった時間に決まった長さで行うこと」です。

・瞑想の対象について。瞑想の対象が曖昧ではいけません。例えば、神、女神、聖者、意識の象徴など、師と相談して自分にとって最適な対象を選んでください。ヒンドゥ教では、瞑想の対象を自由に選ぶことができます。

・瞑想のとき、目を閉じ、体のどの部分も動かさず、手は膝の上に置いて座ります。それから、深呼吸を数回してください。これは心を落ち着かせるのに役立ちます。

 

心を瞑想の対象に集中させる方法

① 心の傍観者になる

次の質問は、どのように瞑想を始めるかです。一般的な人の心は落ち着かず、雑念だらけです。その心を、瞑想の対象に心を集中させるにはどうすればよいでしょうか?これは大きなチャレンジです。この問題を解決しない限り、瞑想の時間は心の戯れの時間になってしまいます。そこで、瞑想中に心を落ち着かせるための案がいくつかあります。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「心をさまようにまかせ、それを眺めなさい」と助言なさいました。そのためには心を二つに分ける必要があります。一つの部分でさまよい、もう一つの部分はそれを眺めます。そうすれば、心の中で映画が上映されていることがわかるでしょう。この映画と実際の映画の違いは、実際の映画には一貫性があるが、私たちの心の中で起こっている映画には一貫性がない、という点です。心の中の映画では、今この瞬間は東京にいて、次の瞬間にはインド、その次の瞬間にはレストランに入ったりします。またその次の瞬間には30年前に起きたある事件を突然思い出すこともあります。その映画を見続けてください。その時、「心さん、見ていますよ!いろんなイメージを運んでくるね。次も見せて、その次も見せて」と自分の心に言いきかせてください。ただ、どんな考えにも執着しないように注意するように。これは心を正しい軌道に戻す一つの方法です。このように目撃者として心を観察し続けると、だんだんと思考の数が減っていることに気づくでしょう。さらに、目の前に浮かぶ二つの連続した思考の間には、空白、合間があることに気づきます。その空白には考えの停止があります。そしてチャレンジすべきことは、この空白をどうやって延ばすかです。そう、このようにして心の動きを止めることができます。

 

② 心に厳しく言い聞かせる

心を落ち着かせるための別のアプローチもあります。それは、瞑想を始める前に、「心よ、私は過去、現在、未来について考えることを許さない」「瞑想中に計画を立てることを許さない」と自分の心に非常に厳しく言い聞かせることです。スワーミー・ボダートマーナンダというラーマクリシュナ僧団の先輩僧侶がいました。彼は見習い者のトレーニングセンターの初代の校長で、私は一度だけお会いしたことがあります。スワーミー・チェタナーナンダが見習い僧だったころに、ボダートマーナンダジーに「マハーラージ、瞑想はどうやって始めるのですか?」と尋ねたことがあります。非常に偉大な学僧であると同時に非常に霊的に高い方でもあったボダートマーナンダジーは、「私は瞑想を始める前に、この世界は非実在であることを説明する二つの節を読みます」と答えました。「もし世界が幻であるならば、日常生活で起こるどんな問題も幻であることになります。もし世界が現実の存在でなければ、問題も現実の存在ではありません。そこで、私はまず世界のはかなさについての強い忠告を心に送り、それから座って瞑想します。なぜなら、瞑想中に私たちは自分の問題について考え始め、それを解決しようとすることがよくあるからです。しかし、そう考えるだけでは十分ではありません、神のみが実在である、ということも考えるべきです」

 

③ 聖典の節に集中して神を思う

さらにもう一つのアプローチがあります。事前に、例えば『ラーマクリシュナの福音』などの聖典の興味深い短い部分を選んでおきます。次に目を閉じて、読んだ内容を心の中に思い浮かべ、思い出してください。これは瞑想中に集中するための一つの方法です。それはどのように役立つでしょうか?もしこのように瞑想しないと、心は自分で考えを持ち、その考えのほとんどはラジャス的、タマス的な傾向にあります。二つの選択肢があるということです。心がさまようことを許してランダムに考え続けるか、与えた内容を考えるように指示するかです。心は考えるべき何らかの思考を常に必要とします。ですので、心にポジティブな思考を与えないと、心はたいていネガティブな思考を選びます。

 

 

瞑想の始め方

① 心的礼拝

次のポイントは、瞑想をどのように始めるかです。一つの方法は、心で礼拝を実践することです。外側で行う儀式的礼拝と同じことを、心で行うことができます。儀式的礼拝では、神や女神の像を花で飾り、線香を焚き、食べ物を捧げ、その後に五つのアイテム(地、水、火、風、空を象徴するもの)を使ってアーラティをします。それと同じように、自分が選んだ神のイメージを思い浮かべ、心の中で花を捧げ、線香を焚き、次に食べ物を捧げ、そして心の中でアーラティを行います。これを心的礼拝といいます。心的礼拝を行う時に使用するアイテムは感覚の対象ですが、それらはあなたが選んだ神に捧げられているため、私たちの心を神に集中させるのに役立ちます。これは私たちの心を普段の思考から退かせ、神についての考えに切り替える効果的な方法です。 

 

② 神の逸話を視覚化する

もう一つの方法は、あなたが選んだ神、シュリー・ ラーマクリシュナやシュリー・ ラーマ、シュリー・ クリシュナの人生から興味深いエピソードを決めることです。彼らの人生には興味深いエピソードがいくつかあります。事前にどのエピソードを瞑想に取り入れたいかを決めてください。例えば、スワーミー ヴィヴェーカーナンダ (旧名ナレンドラナート) の生涯から一つのエピソードを取り上げるのもいいでしょう。

 

ナレンドラナートがシュリー・ラーマクリシュナに会うために初めてドッキネッショルに行ったときのことです。しばらくするとシュリー・ラーマクリシュナはナレンドラナートを私室に連れて行き、彼を七聖者の一人であると称賛し始めました。ナレンドラナートは自分はヴィシュワナート・ダッタの息子だということしか知りませんでした。そこで他の人が言うように、シュリー・ラーマクリシュナは気が狂っている、そうでなければ、「私はあなたが七聖者の一人であられることを知っています」などというような意味の分からない言葉を言うはずがない、と思いました。次の出会いで、シュリー・ラーマクリシュナがナレンドラナートにひと触れした瞬間、ナレンドラナートは自分が違った状態となり、世界が姿を消していくかのように思われました。彼は怖くなって、死ぬのではないかと感じ、「ああ、私に何をなさるのですか?私には両親がいるのですよ!」と叫びました。3回目の面会でのシュリー・ラーマクリシュナのひと触れで、ナレンドラナートは完全に意識を失いました。

 

また、シュリー・ラーマクリシュナとギリシュチャンドラ・ゴーシュとの会談の描写もあります。非常に多くの面白いエピソードがあるので、その中から事前に一つか二つ選んで瞑想中に視覚化します。このような種類の瞑想は、私たちが粗大な世界から心を引き離すのに非常に役立ち、私たちが選んだ神に焦点を向けることを助けます。

 

神の御名を唱える(ジャパ)、神の姿、特質を瞑想する

その次に何をすればいいでしょうか?

選んだ神の御名を繰り返し唱え、同時にその神の姿を瞑想する、というのが一般的な助言です。時には、神の御名を繰り返さずに、ただ、神や女神の神聖な姿や特質を瞑想します。

 

長く瞑想する方法

さて、どのようにすれば長く瞑想できるでしょうか? 毎日外で仕事をしなければならない会社員、商人、教師などは、長い瞑想時間を確保するのが難しいです。僧侶が瞑想のために長い時間を見つけるのはずっと易しいことですが、家住者には難しいです。しかし、家住者も熱意さえあれば週末や休日に長時間座って瞑想をすることができます。では、瞑想を長続きさせるにはどうすればよいでしょうか? 

 

① マントラを丁寧に何回も唱える

マントラを何回も唱える、というのは一つの方法です。例えばマントラを2000回~3000回、ゆっくりと、はっきりと、あまり急がずに繰り返してください。

 

② 神聖な話を熟考する

もう一つの方法があります。先ほど言ったように、あなたが選んだ神の生涯のエピソード(神のお遊び)、逸話を一つ選んで、それについて熟考します。

 

③ 心的礼拝を丁寧に長時間する

心的礼拝をします。心の礼拝を長くします。想像してください、あなたは花を用いてアーラティをしています。ハイビスカスから始めて、バラ、そして蓮の花などを心でお供えします。それぞれの花であなたは長時間アーラティをすることができます。早く終える必要はありません。

 

次に、護摩の火を焚いた、その火はあなたが選んだ神にちなんでいる、と想像してください。護摩の火の中に、さまざまな供物を奉献し始めます。何を捧げますか?あなたの体を護摩の火に捧げてください。自分の存在のあらゆる部分を護摩の火に捧げるのです。

 

まずは「肉体」を供物として捧げてください。肉体を火の中に捧げているとき、肉体が火で清められていると想像してください。

次に、生命エネルギーである「プラーナ」を火の中に捧げ、清められていると想像します。

その後、耳、目など、「すべての感覚」を火の中に捧げ、それらが清められていると想像します。

次は何でしょうか?「心」です。心には顕在意識と潜在意識の二つの部分があります。あなたが心を捧げている間、すべての執着、欲望、エゴ、怒り、憎しみ、嫉妬、疑い、自惚れを火に投げ入れ、それらが焼き尽くされることを想像してください。このような想像は、日々の生活に大いに役立ちます。ほとんどの時間、私たちは何かを想像して生きています。世俗的な考えについての想像は私たちをより世俗的にしますが、霊的なことがらについて想像すると、霊的になることを助けるでしょう。想像は、霊的生活に大きな役割を果たします。想像するのが大好き、という心の特性の助けを借りて、心を霊的な方向に向けてください。

次に護摩の火に「知性(ブッディ)」を捧げて清めます。

その次に「記憶(チッタ)」を捧げます。人生には非常に多くの記憶があります。霊的生活に害を及ぼす記憶もあります。それらの記憶をすべて焼き払ってください。

そして最後は「自我(『私』『私の』意識)」です。「自我」も護摩の火に捧げて、浄化しましょう。

 

このようにして、自分の存在のさまざまな層を一つ一つ取り出して、護摩の火に捧げます。清めるものもあれば、焼き尽くすものもあります。ただ、この種の瞑想には十分な時間が必要です。これらの要素、たとえば心的礼拝や心的護摩供養をプラスすれば、瞑想を延ばすのに役立つだけでなく、霊的な生活がより深くなる助けとなります。

 

私たちが行う儀式の中の一部分にも心的礼拝があり、心的礼拝を描写するマントラ(複数)があります。体と心の浄化は霊的生活において重要な要素です。私たちにはたくさんの人生で蓄積された汚れがあります。潜在意識の中にも汚いものがとてもたくさんあります。体と心の浄化は簡単なことではありません。これまでに挙げた種類の提案は、私たちの霊的生活に役立ちます。

 

長く深い瞑想をするための障害

次に話したいポイントは「雑念」についてです。より長時間座って瞑想したいと思っても、それは簡単なことではないことが分かります。そして深く長い瞑想を行うにはいくつかの障害にぶつかります。その障害とは何でしょうか?

 

一つ目は「やる気不足」です。私たちは深い霊的生活を送る意欲が十分にありません。したがって、まず私たちは、長時間、深く瞑想する意欲を高めなければなりません。心は長時間どころか、たとえ短時間であっても、瞑想のために座ることに気乗りがしません。なぜでしょうか? なぜなら、心は訓練されたくないからです。心は、私たちが瞑想のために座れば、これまで享受してきた自由が奪われると考えます。障害は自分自身の心から生じているのです。日常生活から例えてみましょう。子どもを甘やかしすぎる親がいます。ある時、その子供をしつけたいと思っても、非常に難しいことに気づきます!同様に、私たちが長い間自分の心を甘やかし続けると、自制心を持つことが難しくなるのです。

 

さて質問です。心が瞑想を嫌がっている徴候とはどのようなものでしょうか?

「今日はとても疲れた」「今日は時間がない」、「今日は心が全然落ち着かない」などという考えです。それらは心の言い訳です。しかし、それは全く逆です。もし心が落ち着かないと感じたら、それを瞑想の理由にすべきです。というのは、心が穏やかで静かであれば、瞑想の必要性はさほどありませんから。しかし、たとえ無理に座ったとしても、座ることに違いありませんが、神以外のことを考えてしまいます。どうにか30分ほど座って、それから立ち上がるでしょう。もしくは瞑想を始めると眠くなってしまいます。

 

心がなぜそのように行動するのかを深く探れば、「アヴィディヤー・マーヤー(※)の影響」で心は霊性の道を進むことを望んでいないことがわかります。もし霊的になれば、あなたはマーヤーという束縛を打ち破り自由になりますが、アヴィディヤー・マーヤーはそれを望んでいません。ですので、アヴィディヤー・マーヤーは心を通じてこれらの障害を作り出します。私たちはそれに注意しなければなりません。

 

※アヴィディヤー・マーヤー:無知のマーヤー(迷妄)。怒り、欲情などからなり、人を世俗性に巻き込む。

 

瞑想中の雑念を解消する方法

① 心を引き戻す(プラティヤハーラ)

次に、瞑想中の雑念について説明します。サンスクリット語に「プラティヤハ-ラ」という言葉がありますが、これは心が追っているものから心を引き戻すことを意味します。心は一般的に世俗的な考えを追い回しています。ですので、心がそのような考えを追い求めるときはいつでも、それらの考えから心を引き戻すべきです。これがプラティヤハ-ラです。

 

② 心が持ち出すイメージを神聖化する

とても面白い方法があります。その方法が、瞑想中の雑念を抑制するのにどれほど役立つかを知ると、皆さんはびっくりするでしょう。この方法では、心が神の考えから遠ざかっていることに気づくたびに、プラティヤハーラで心を抑制するのではなく、ただそれを神聖化させます。言い換えれば、心が持ち出すイメージがどんなものであれ、それを神聖なものであると考えるのです。

 

イーシャ・ウパニシャドには次のような一節があります。

イーシャー ヴァーシャミダン サルヴァン ヤトキンチャ ジャガティヤン ジャガット

宇宙に存在する全てのものの根底に、主はすみたまう。

 

この世のすべてはブラフマンによって覆われています。ですので、心がどんな思考を追いかけても、そこから心を引き戻す代わりに、その対象が神聖なものであると考えるのです。例えば、愛する人の顔が何度も心にあらわれるとします。その愛する人を考えることから心を引き戻すことができないなら、その人が単なる骨と皮からできている人間と考えるのではなく、その人の中に神意識をもたらすようにしてください。そうすれば、その人の世俗的な部分は消え去り、霊的な部分がより顕著になるでしょう。なぜなら、全てのものは、根本的にはブラフマンだが、さまざまな名前と形であらわれているからです。しかし、私たちはブラフマンの側面を見ることができず、代わりに差異を生じる名前と形だけを見ます。

 

瞑想を深める方法

・神をより深く愛する

次の質問は、どうすれば瞑想をより深くできるかです。非常に役立つアドバイスが一つあります。それは、「神への愛を育てれば、神のことを考えるのが容易になる」ということです。なぜなら、論理的に分析すると、私たちは愛する人のことを何度も考える、ということが分かります。そこで、神への愛があれば、無理なく神の御名とお姿を瞑想することができます。しかし課題は、神をいかに愛するかです。それ自体が講義の一つのテーマになるくらいですが、ここでも少し説明します。

 

・神をより深く愛する方法

① 選んだ神に関する本を読む

まず第一に、あなたが選んだ神についての本や回想禄をもっと読んでください。例えば、シュリー・ラーマクリシュナがあなたの選んだ神だとしたら、彼の生涯や回想録を読んでください。 

 

② 神に祈る

そして、祈りは非常に効果的な方法の一つです。「神様、あなたへの愛をさらに深めてください」と神に真剣に祈ってください。

 

③ マントラを唱えるなどして、神と常につながっている状態を作る

次に、一日中、神とつながっている状態を作ってください。どうすればそれができるでしょうか?マントラを繰り返すことで、自分が選んだ神とのつながりを保つことができます。ですので、可能な限り何度もマントラを唱えてください。イニシエーションを受けたかどうかは関係ありません。もしあなたがイニシエーションを受けているなら、すでに神聖なマントラを持っていますね。もしあなたがそうでないなら、あなたが崇拝する神の御名を繰り返し唱えてください。一日中やっても大丈夫です。しかし、多くの人は、表面的に朝だけマントラを繰り返し、その後は一日中神のことを思い出すことはないのに、瞑想がもっと深くなるだろうと期待します。もしあなたが22、23時間を世俗的な考えに費やしているなら、明らかにその考えは瞑想中にあらわれます。 なぜ私は深く瞑想できないのでしょう?と不満をいう信者も少なくありません。私の考えでは、この質問自体がおかしいです。24時間のうち神のことをほんの10分か15分だけ考えて、残りの時間は世俗的な考えや習慣に夢中になっているのに、深く瞑想できることなど期待できるでしょうか?ですので、一日を通して神のことを断続的に思い出し続けてください。そうすれば、瞑想の時間中、私たちはより集中して瞑想することができるでしょう。仕事をするときはいつでも、カルマ・ヨーガの精神で仕事をしてください。 カルマ(仕事)をただするのではなく、カルマ・ヨーガをしてください。

 

④ 規則正しい生活を送る

より深い瞑想のためのもう一つの提案は、ライフスタイルのバランスを良くする、ということです。

 

バガヴァッド・ギーター 第 6 章 16 、17 節

ナーッテャシュナタス トゥ ヨーゴースティ ナチャイカーンタム アナシュナタハ/

ナ チャーティ・スヴァプナ・シーラッシヤ ジャーグラトー ナイヴァ チャールジュナ//

 

アルジュナよ! ヨーガを行ずるには、多く食べ過ぎてもいけず、食べな過ぎてもいけない。

また眠り過ぎてもいけず、寝不足であってもいけない。

 

ユクターハーラ・ヴィハーラッシヤ ユクタ ・チェーシュタッシヤ カルマス/

ユクタ・スヴァプナーヴァボーダッシヤ ヨーゴー バヴァティ ドゥフカ・ハー//

 

適度に食べ、適度に体を動かし、適度に仕事をし、適度に眠り、適度に目覚め、そしてヨーガを実践すれば、苦悩はすべて取り除くことができる。

 

これらの節の意味を簡単に言います:働きすぎる人、まったく働かない人、食べすぎる人、全然食べない人、寝すぎる人、または眠らない人、そのような人にはヨーガはできません。もしあなたが瞑想をさらに深めたいなら、ライフスタイルに注意しなければなりません。 

 

⑤ 目指していることと反対のことをしない

最後の注意すべき点は、目指している目標と反対のことをしない、ということです。例えば、心は一般的に落ち着きがないので、瞑想の目的は心を落ち着かせることです。しかし、日中、インターネットサーフィンや噂話など、心をより落ち着きなくしてしまう行為にふけっていると、心が落ち着くことなど期待できるでしょうか?心の清らかさについても同じことが言えます。私たちは心を清らかにするために瞑想をします。しかしもし私たちが心をより不純にする可能性のある行動しているなら、心は清らかになるでしょうか?

 

シャンカラーチャリヤーは、目や耳などのさまざまな外的器官を通じて波動が私たちの心に入ってくる、と言います。これらの波動は心の食べ物です。不純な波動が感覚から入ってくると、心はもっと不純になります。ですので、自分の心に何を入れるかについてもっと注意を払わなければならないのです。 

 

結論

これまでにお話した瞑想に関する実践的なヒントのいくつかを誠実に実践すれば、深い瞑想が経験できます。それは私たちを着実かつ確実に、至高の平安、喜び、真理の経験をするという霊的目標に達する道へと導くでしょう。

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クリスマス・イブ礼拝のレポート

 

2023年12月24日、日本ヴェーダーンタ協会は逗子のアシュラム本館で毎年恒例のクリスマス・イブ礼拝を開催された。建物の入り口がライトアップされていた。祭壇は本殿の奥に設置され、別室へと続く扉を外して、そこにも着席できるようになっていた。祭壇は色とりどりの光とハイビスカスの花輪で縁取られ、聖母子の下の段にはヨーガのポーズのイエス・キリストの絵が飾られた。 花々、花束、レイ、キャンドル、クッキー、キャンディー、そしてバースデーケーキが床いっぱいに捧げられ、祭壇の左側には礼拝用の品物と供物が並べられた。午後7時頃、祭壇のろうそくに火が灯され、スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダがイエス・キリストの礼拝をなさった。

 

礼拝の後は、クリスマス・キャロルを歌った。スティーブ・モーガン教授が英語でキャロルをリードし、泉田シャンティさんがキーボードの伴奏で日本語でリードした。スワーミー・メーダサーナンダが聖書の一部を英語で朗読し、田島和一氏がその日本語訳を読み上げた後、マハーラージは『ラーマクリシュナの回想録』(『Ramakrishna as We Saw Him』の日本語訳)の第二巻を出版なさった。続いてレオナルド・アルバレス氏が英語と日本語でイエス・キリストとホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィーについて短いながらも生き生きとした講演を行い、参加者を喜ばせた。

 

最後に、参加者は数分間黙祷を捧げた後、捧げ物が集められ台所に運ばれた。祝賀プログラムは、「きよしこの夜」を英語と日本語で歌って終了した。デザートが盛りだくさんのおいしいクリスマス・ディナー(神様のお下がり)を出席者全員でいただいた。参加者は約28名であった。 

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2024年1月1日 カルパタル・デーのレポート

 

日本ヴェーダーンタ協会は逗子センターで毎年恒例の新年とカルパタル・デーの行事が行われた。数名の信者は瞑想と朝の礼拝のために早朝から参加した。午前11時30分頃、本殿にてサンスクリット語で平安のマントラを唱えた後、お釈迦様の教え、聖書、シュリー・ラーマクリシュナの福音など、さまざまな聖典の一節が英語と日本語の両方で読み上げられた。次にスワーミー・メーダサーナンダ(マハーラージ)は神聖な新年の挨拶で参加者全員を歓迎し、出席者が霊的な方法で新年を始めることを選んでうれしく思った、と付け加えられた。それからラーマクリシュナ僧団が新年のカルパタル・デーを守ることの重要性について簡単に説明なさった。カルパタルとはインドの言い伝えにある願いが叶う木のことである。1986年1月1日、コルカタ近くのコシポルのガーデン・ハウスで末期がんのシュリー・ラーマクリシュナがベッドから降りてこられ、そこに集まっていた在家弟子たちに「意識になれ」言って祝福なさった。それからマハーラージは、「新年は、例えば、できれば毎日少なくとも10分間、朝静かに座って過ごすという新たな決意で始めるべきです。それを定期的に誠実に行えば、長期的には人生において非常に有益であることが証明されるでしょう」と述べられた。

 

その後、スワーミー・ディッヴィヤーナターナンダのハーモニウムと歌の先導で賛歌を詠唱し、短い沈黙の祈りが続いた。 その後、参加者全員にランチ・プラサードが振る舞われた。午後2時頃、マハーラージと一行は鎌倉へ散歩に行った。大仏(高徳院)を参拝し、そこで約25人で集合写真を撮った。その後、多くの人が雪ノ下カトリック教会に参拝に行った。カルパタル・デーの最後の訪問は、伝統的に混雑している鶴岡八幡宮 (神道) であった。

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忘れられない物語

「ボカール・リンポチェとの初会談」

 

ある日、私はとても不安な気持ちになった。私はボカール・リンポチェに会うためにミリクまで車で向かった。僧院は標高5000フィートの谷に位置し、美しい湖を見下ろしていた。初めて僧院に入ったとき、平安の波動が私を包み込んだ。  

 

小さな部屋に入ると、そこは暖かく、線香の甘い香りで満たされていた。ボカール・リンポチェは50代後半で、その顔は穏やかな霊的な輝きで輝いていた。私は敬意を持って彼の御足に頭を下げた。冷たくて平和な感覚が私の全身を満たした。数分後、ボカール・リンポチェは「どこから来たのですか?」と尋ねた。

 

「シリグリです」と私は答えた。

「ドライブは大丈夫でしたか?」

「はい、大丈夫でした」

「何か質問がありますか?」

「はい。悟りを得るにはどうすればいいですか?」

 

ボカール・リンポチェは数秒考えてからこう答えた。「この質問をする人はここにはあまりいません。実際、私はまさに霊的探求者のこの質問に答えるためにここにいます。しかし、毎日のように、物質的な問題の解決方法や、神を喜ばせて幸運を得る方法について尋ねてくる人々が来ます。最高の真理に興味を持っている人に出会うことはめったにありません」

 

彼は私の霊的探求を理解し、その深さをご存じで、その重要性を認めてくださった。私はすぐに経験していた霊的経験を彼に説明し、指導を求めた。

 

「今日、あなたが僧院へ車で来る途中に何か素晴らしいものを見つけて立ち止まっていたら、どうなっていましたか?」

「私は僧院にはたどり着かなかったでしょう」

「障害物や悪道に遭遇して、前に進みたくなくなったら?」

「それでも、私はここにたどり着くことができなかったでしょう。」

「良い経験も悪い経験も、道中には起こり続けます。しかし、運転をやめてはいけません。最高の教えは、執着や嫌悪感を持たないことです。もしあなたが何かが好きであればそれは問題になりますし、もしあなたがある経験を嫌えば、それも問題になります。慈悲深い意識を持ってそれらを見守るだけでいなさい、そうすればすぐにあなたは揺るぎなく実在にいることができるでしょう。歩いていると道は変化し、景色が変化し、すべてが変わります」

「ご指導と祝福をくださり、本当にありがとうございます。この部屋には時代を超えた平安の感覚がありますね」 

「それでは、いつでもご自由に私を訪ねてください。私がここにいなくても、ここに座って瞑想してかまいません。この部屋の扉は、誠実に悟りを達成しようとする人々に開かれています」

 

ボカール・リンポチェ—悟った師 より

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今月の思想

 

真理はいかなる益もあなたに与えはしない。より高い地位も他者に対する権力も与えない。あなたが得るのは真理、そして偽りからの自由だけなのだ。実在は人知の及ばないものであり、ある目的のために利用できるものではない。それ自体が求められなければならないのだ。

 

あなたは他者を助ける力も得ない。なぜなら他者というものは存在しないからだ。あなたが人々を高貴な人と低い人に区別し、高貴な人に低い人を助けるように頼む。あなたが分割し、あなたが判断して非難する。その中で、あなたは真理から逸脱する。

…ニサルガダッタ・マハーラージ

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発行:日本ヴェーダーンタ協会

249-0001 神奈川県逗子市久木4-18-1

Tel: 046-873-0428  Fax: 046-873-0592

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