ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)
日本ヴェーターンタ協会の最新情報
2025年6月 第23 巻 第6号
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かく語りき
私の態度が分かるかい? 本や聖典などは、神に至る道を示しているにすぎない。道を見つけた後、本や聖典より必要とされるものは何か? 行動に移すことだよ。
…シュリー・ラーマクリシュナ
この世の幸せは一時的なものです。世俗への執着が薄れれば薄れるほど、より多く心の平安を楽しみます。
…ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィー
他人に良いことをしようと絶えず努力することによって、私たちは自分自身を忘れようとしている。この自分を忘れることは、私たちが人生で学ばなければならない一つの偉大な教訓である。
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
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目次
・かく語りき――聖人の言葉
・お知ら
・「ギーターにおけるトリグナのメッセージ」 (パート4)
スワーミー・メーダサーナンダ
・「この困難な時代に、仏陀とシュリー・ラーマクリシュナの教えは、私たちにどのように実践の力を与えてくれるか」
林円優
・忘れられない物語
・今月の思想
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お知らせ
・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。
・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。
https://www.vedantajp.com/
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2025年8月生誕日
スワーミー・ニランジャナーナンダ 8月9日(土)
シュリー・クリシュナ 8月16日(土)
スワーミー・アドヴァイターナンダ 8月22日(金)
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2024年夏季リトリート 善通寺
「ギーターにおけるトリグナのメッセージ」 (パート4)
スワーミー・メーダサーナンダ
心は常に神の御名を唱え続けるべきです。最初は途切れ途切れかもしれませんが、徐々にその間隔は短くなり、最終的には一日中、そして睡眠中でさえも中断されることがなくなります。これは重要です。なぜなら、心は睡眠中も活動しているからです。ジャパを常に実践できれば、それは止まることなく続くアビヤーサとなります。一旦この状態に達すると、心や情欲をコントロールすることが容易になります。このプロセスでは、私たちの世界観を霊的なものにするために、自分の好みや信念に応じて、ラーマクリシュナ意識、キリスト意識、ブッダ意識などで満たすことが役立ちます。
次に、サットワ的快楽、ラジャス的快楽、タマス快楽という異なる種類の快楽があります。バガヴァッド・ギーター第18章36節から39節にその説明があります。
第18章第36節
スカン トゥ イダーニーン トリ・ヴィダン シュリヌ メー バラタルシャバ/
アッビャーサード ラマテー ヤットラ ドゥフカーンタン チャ ニガッチャティ//
バーラタ族で最も秀れた者(アルジュナ)よ! 長い修練を経てそれを獲得することができ、それによって苦しみが消えてしまうような三種類の幸福について、私の説明を聞きなさい。
第18章第37節
ヤッ タド アグレー ヴィシャム イヴァ パリナーメームリトーパマム/
タッ スカン サーットヴィカン プロークタム アートマ・ブッディ・プラサーダ・ジャム//
初めは毒薬のように苦しくても、終わりには甘露となるような、真我を悟る清純な知性から生じる喜びは、サットワ的な幸福と言われる。
第18章第38節
ヴィシャイェーンドリヤ・サンヨーガード ヤッ タド アグレームリトーパマム/
パリナーメー ヴィシャム イヴァ タッ スカン ラージャサン スムリタム//
初めは甘露のようであっても、終わりには毒薬となるような、感覚とその対象から生じる喜びは、ラジャス的幸福と言われる。
第18章第39節
ヤド アグレー チャーヌバンデー チャ スカン モーハナム アートマナハ/
ニッドラーラッシヤ・プラマードーッタン タッターマサム ウダーフリタム//
自己の本性について、初めから終わりまで妄想を抱き、惰眠や怠惰や怠慢から生じる喜びは、タマス的幸福と言われる。
そして、このトリグナは私たちの人生だけでなく、死後に起こることにも当てはまります。第14章で見てみましょう。
第14章第14節
ヤダー サットヴェー プラブリッデー トゥ プララヤン ヤーティ デーハ・ブリト/
タドーッタマ・ヴィダーン ローカーン アマラーン プラティパッデャテー//
サットワが優勢の時に肉体が死を迎えたならば、その人の魂は、至高者を知る人達の住む清らかな世界へと上がっていく。
第14節第15章
ラジャシ プララヤン ガットヴァー カルマ・サンギシュ ジャーヤテー/
タター プラリーナス タマシ ムーダ・ヨーニシュ ジャーヤテー//
ラジャスの支配下で肉体が死んだ時には、その魂は仕事に追われる人々の世界に生まれ、タマスの支配下で肉体が死んだ時には、その魂は無知な女の胎内に宿ることになる。
この考えを好まない人もいるかもしれませんが、タマス的な人生を送れば、動物として生まれる可能性があるのです。もし私たちの人生が主にラジャスに同調しているなら、来世では両親もラジャス的で、私たちは当然のように喜びや名声を求めるでしょう。しかし、サットワ的な人生を送り、解脱に至らなければ、来世では徳高く霊的な家庭に生まれ、ヨーガで解脱へと向かう進歩を遂げるでしょう。
魂を縛るのは、タマスは鉄の鎖、ラジャスは銀の鎖、サットワは金の鎖です。金の鎖はたとえ美しくても、鎖であることに変わりはありません。ですので、最高の目標はサットワではありません。道徳的な人は善良でサットワ的になることを目指しますが、霊性の探求者は自由を目指します。つまり、肉体に生きながら解脱した状態であるジーヴァンムクタになることを目指すのです。
バガヴァッド・ギーター第14章「グナットラヤ・ヴィバーグ・ヨーガハ」には、トリグナの起源と、それぞれのグナの目に見える結果に関する記述があります。トリグナはプラクリティから生じます。[第14章第5節] 私たちの肉体はいわば心を物理的に縛り付けますが、トリグナは魂を縛り付けます。サットワは前向きな意味において、悟り、つまり神への道を示しますが、私たちを悟りへと到達させられません。一方、ラジャスとタマスは私たちを神からどんどん遠ざけるので、後ろ向きです。
さて、行動の説明に関して、3人の召使いの例を挙げます。タマス的な召使いは主人の命令に全く従いません。ラジャス的な召使いは主人の命令に従うこともありますが、時には自分の気まぐれに従います。一方、サットワ的な召使いは常に主人の命令に従い、命令する前に主人の考えを推測し、常に主人の望みを実行します。
この分類別の例は、古典文献には見られないサラリーマンや主婦など、さまざまな場面や人物にも適用できます。これらの範例を現代生活に適用することで、刷新し、新たな分類を生み出すことができます。食、仕事、喜びなど、私たちの生活のあらゆる側面において、サットワ、ラジャス、タマスがどのようにあらわれるかを詳細に考察すれば、膨大な記述になることが分かるでしょう。例として、いくつか簡単に説明します。
第18章第26節から28節には、それぞれのタイプの働き手についての記述があります。
第18章第26節
ムクタ・サンゴーナハン ヴァーディー ドリティ・ウツサーハ・サマンヴィタハ/
シィッディ・アシィッデョール ニルヴィカーラハ カルター サーットヴィカ ウッチャテー//
執着心も利己心もなく、強固な意志をもって熱心に仕事し、成功にも失敗にも心を動揺させない人は、サットワ的行為者と言われる。
サンスクリット語の説明:
ムクタ‐サンゴ(mukta-saṅgo) = 執着がない
ドリティ(dhṛty)= 不屈の努力
ウツサーハ(utsāha)= 熱意を持って
シィッディ・アシィッデョール ニルヴィカーラハ(siddhy-asiddhyor nirvikāraḥ) = 成功と失敗が等しい
ここで、第 2 章 第48 節にあるクリシュナのアルジュナへのアドバイスを思い出します
第2章第48節
シッディ・アシッディヨーホ サモー ブーットヴァー サマットヴァン ヨーガ ウッチャテー//
成功と失敗とに関するあらゆる執着を捨てよ。このような心の平静さをヨーガと言うのだ。
理想的な僧侶は、見返りを求めず神のためだけに働き、すべての仕事を神の仕事として行う、サットワ的な働き手です。主婦やオフィスワーカーも同じように働くことができます。また、ヴェーダーンタ協会や教会、寺院に通い、ボランティア活動を行う人も多くいます。これらはすべて神の仕事です。もし信者がすべての仕事は神の仕事であると考えながら働くなら、憂鬱も失望もありません。常に平安で幸福に満ちているでしょう。
第18章第27節
ラーギー カルマ・ファラ・プレープスル ルブドー ヒンサートマコーシュチヒ/
ハルシャ・ショーカーンヴィタハ カルター ラージャサハ パリキールティタハ//
情熱的で、仕事の結果に執着し、貪欲で、嫉妬心が強く、不純で、成功に狂喜し失敗に絶望する者は、ラジャス的行為者と言われる。
ある人々は、真面目に働き、自分の仕事へのプライドを隠していますが、まだそのような考えを抱いています。サッカーなどのスポーツでゴールを決めた時、どれくらい浮かれ騒ぐかをはっきりと見ることができます。「ナーハム・ナーハム、トゥーフー・トゥーフー」(私ではありません、私ではありません、あなたです)と言う代わりに、「アハム・アハム、ナ・トゥフ、ナ・トゥフ」(私です、私です、あなたではない!)と言います。このような人は成功すればすぐに浮かれ、失敗すると落ち込みます。これがストレスと失望を生み出します。例えば、主婦が家族のためだけと思って働くと、執着し、ものごとが思い通りにいかないと不幸になります。ですから、彼女たちは家族の中に神を見ながら家族のために働き、可能な限りの努力をした後、最終的にすべての結果を神に委ねるべきなのです。
第18章第28節
アユクタハ プラークリタハ スタブダハ シャトー ナイシュクリティコーラサハ/
ヴィシャーディー ディールガ・スーットリーチャ カルター ターマサ ウッチャテー//
節度なく、俗悪野卑で、高慢で、不正直で、悪意があり、怠惰で、元気なく、優柔不断な者は、タマス的行為者と言われる。
ここで、理想的な働き手ではない人は、ディールガ・スートリー(dīrgha-sūtrī) 、つまり先延ばしにする人であることが分かります。ディールガ・スートリーの文字通りの意味は 「非常に長い紐」です。
さて、食べ物に関して、ギーターは第17章第8~10節でこう述べています。
第17章第8節
アーユフ・サットワ・バラーローッギャ スカ・プリーティ・ヴィヴァルダナーハ/
ラッシヤーハ スニグダーハ スティラー フリッデャー アーハーラーハ サーットヴィカ・プリヤーハ
生命力、体力、健康、幸福感、食欲などを増進する食物、また風味があり、脂肪に富み、滋養があり、心を和ませてくれる食物は、サットワの人達が好んで食べる。
第17章第9節
カトゥ・アムラ・ラヴァナーテュシュナ ティークシュナ・ルークシャ・ヴィダーヒナハ/
アーハーラ ラージャサッシイェーシュター ドゥフカ・ショーカーマヤ・プラダーハ//
苦い、酸っぱい、塩辛い、熱い、辛い、乾燥した、刺激性の強い食物は、ラジャスの人達が好んで食べるが、こうした食物は、人に苦しみや悲しみを引き起こしてしまう。
第17章第10節
ヤータヤーマン ガタラサン プーティ パリユシタン チャ ヤト/
ウッチシュタム アピ チャーメッーデャン ボージャナン ターマサ プリヤム//
腐りかけた、不味い、悪臭のする、古い、食べ残した、不浄な食物は、タマスの人達が好んで食べる。
ここで重要なのは、理想がいかに厳格であるかに注意することです。調理して一晩冷ました食べ物はタマス的ですが、現代社会では冷蔵庫に入れるなどして冷やすことがよくあります。ギーターをはじめとする聖典は理想と原則を提示しており、それをすべて文字通りに守れないからといって、それらを低めるべきではありません。現実と理想の間には常に隔たりがありますが、私たちは常に理想に近づくよう努力すべきです。
Mさん(『ラーマクリシュナの福音』の著者)がドッキネッショルに滞在していたとき、シュリー・ラーマクリシュナは彼に、米とミルクからなる食事を自分で料理をするように勧められました。ここ日本では、食生活の一部が徐々に悪化しています。以前は魚や野菜を多く食べていたのに、今ではほとんどすべてのものに牛肉や豚肉が含まれています。また、多くの人が個別包装された食品や加工食品も食べています。主婦が清らかで健康的な食事を家族に提供することは困難です。言い換えれば、サットワ的なライフスタイルを送ることは非常に困難になっています。私たちは皆、金儲けに明け暮れるビジネスマンの犠牲者です。彼らは利益だけを追求し、たとえ不自然で不純物が混入した食品で人々の健康を害することになっても、利益を上げようとします。彼らはほとんど努力せずに大きな利益を得たいのです。
しかし、理想と快適さは常に相反するものです。道義に則った理想的な人生には努力が伴います。だからこそ、ヴェーダーンタでは神への道は剃刀の刃の上を歩くようなものだと言われるのです。
最後に触れておきたいのは、ギーターは、人生の目的はサットワ的になることではなく、すべてのグナを超越すること(グナーティタ)、つまり、スティタ・プラッギャー(いつも安定した状態)、ジーヴァンムクタ(今生で解脱した状態)、ニルヴァーナの状態に達することであると強調していることです。そのためには、タマスからラジャス、サットワへと進み、さらにその先へと進む必要があります。例えば、第14章第24節から27節を見てください。
第14章第24節
サマ・ドゥフカ・スカハ スヴァスタハ サマ・ローシュターシュマ カーンチャナハ/
トゥッリヤ・プリヤープリヨー ディーラス トゥッリヤ・ニンダートマ・サンストゥティヒ
真我に定住して苦と楽を区別せず、土くれも石も黄金も同等に見て、全ての事物に好悪の感情をおこさず、賞賛と非難、名誉と不名誉に心を動かさぬ人、
第14章第25節
マーナーパマーナヨース トゥッリヤス トゥッリヨー ミットラーリ・パックシャヨーホ/
サルヴァーランバ・パリッテャーギー グナーティータハ サ ウッチャテー//
名誉と不名誉に心動かさず、友と敵を同じように扱い、仕事に対するいかなる野心も捨てた人、以上のような人は、これら三性質を超越した人、と言えよう。
第14章第26節
マーン チャ ヨーッヴャビチャーレーナ バクティ・ヨーゲーナ セーヴァテー/
サ グナーン サマティーッテャイターン ブラフマ・ブーヤーヤ カルパテー//
不動の信仰心をもって私に仕える人こそ、これら三性質を乗り越え、遂にはブラフマンに到達する資格を有する人、なのだ。
第14章第27節
ブラフマノー ヒ プラティシュターハム アムリタッシヤーヴャヤッシヤ チャ/
シャーシュヴァタッシヤ チャ ダラマッシヤ スカッシヤイカーンティカッシヤ チャ//
何故ならば、私こそがブラフマンの住居であり、即ち不老不滅の至高者であり、永遠の法則(ダルマ)であり、絶対の幸福だからである』と。
最低から最高への段階的な上昇については、第2章第54節から72節を見てください。このテーマについては、高野山のリトリートでさらに詳しくお話しします。
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2025年5月11日 仏陀生誕祝賀会
「この困難な時代に、仏陀とシュリー・ラーマクリシュナの教えは、私たちにどのように実践の力を与えてくれるか」
神奈川県厚木市七沢観音寺尼僧
林円優
こんにちは。今年も仏陀生誕祭にお招きくださり有難うございます。シュリー・ラーマクリシュナはご自分が悟って、何もかもご存じであるにもかかわらず、信者たちと集まっている時に、そこにいる誰かに、神様や自分の信仰についての話をするようによくおっしゃいました。シュリー・ラーマクリシュナがお話をすれば、すべてが解決するのですが、そうはなさらず、来た信者の誰かに話すように言われているシーンが『ラーマクリシュナの福音』の中にもよく出てきます。ですので、今日は、まるでシュリー・ラーマクリシュナに「何か話してみなさい」と言われたつもりでお話させていただきます。
今日のテーマは、「この困難な時代に、仏陀とシュリー・ラーマクリシュナの教えはどのように実践的な力を与えてくれるのか」です。日本には「地水火風空」という概念があり、これは五輪として知られています。これは、地、水、火、風、空の五元素を表す図です。日本の密教では、これをわれわれ人間を含め、宇宙のすべての構成要素として捉え、非常に重要視しています。
現在、土砂災害などにより、「地」の要素が非常に不安定になっています。水の要素も、豪雨や渇水などがあり不安定です。「火」の要素も不安定で、夏は猛暑で死者も出るくらいです。さらに、大気汚染や異常な花粉、PM2.5や、目に見えない空気中の感染物質など、「風」の要素も不安定です。これらと影響し合って、人の精神に影響を及ぼす「空」の要素の不安定さが目立っています。世界そのものであるこの五大元素のバランスは、あらゆる生きものの運命を左右します。
まず、五輪の一番下の地輪は私たちを支える基盤そのものであり、安定性、堅実さ、確実さを象徴しています。日本は地震大国なので、私たちが住んでいる家も安定しているとは言えません。次に水輪は周囲の環境に合わせて変化する柔軟性、あらゆるものとの調和をあらわす力です。火輪は情熱、エネルギー、活力の源です。その上の風輪は、思考の活発さや、物が動くことそのもの、動きの力を象徴しています。この水や火や風の要素が昔と比べてだいぶ変わってきていることは、近頃の地球環境を見れば、誰の目にもあきらかです。
一番上の風輪は、精神の自由、悟りの境地、魂の純粋さ、そういったものをあらわします。この空の要素のバランスが崩れると、虚無感や鬱など、精神の状態に悪影響があると言われています。物質的な要素のみならず、現在、非常に多くの人が、精神的な試練に直面しています。人びとの抱える不安の気配がいたるところに見えています。これにはたくさんの現実的な理由が複雑に影響し合っており、個人の努力や自己責任だけでは解決しきれない、大きな力が働いています。人間は環境と条件の存在です。環境の安定が人間の体や心の安定になりますが、ここまで人間を取り巻く五大元素のバランスが変化したということは、もう人間も今まで通りではいられない、ということです。変化は人間に変わることを強要するものであり、政治などの背景も含めた環境の力の方が、私たちよりも圧倒的に強いならば、さらなる努力で順応するか、解決する以外、方法がありません。
では、このことに本当に対抗するには、具体的にどんな方法があるでしょうか? 例えば、一つの提案として、皆さまご存じかと思いますが、ラージャ・ヨーガという方法があります。日本ヴェーダーンタ協会出版の『ラージャ・ヨーガ』のスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの言葉をそのまま引用します。
(初版25頁)
内なる力を発見し、それをどのように操作するかを学んだ人は、自然界の全部を自分の支配下に置くでありましょう。ヨーギーが自らに課するのは、実に全宇宙を支配するという、自然界全体を制御するという仕事です。彼は、われわれが自然の法則とよぶものが彼に影響を与えない境地、彼がそれらすべてを超越することのできる境地に達したいと欲するのです。彼は内外の自然全体の主となるでありましょう。人類の進歩と文明は、要するにこの自然を制御することなのです。すべてのこの訓練の目的、目標は魂の解放なのです。それ以外のなにものも目標であってはなりません。出て行こうとする心の力を引き留め、それを感覚の奴隷の身分から解放することです。これをなし得た時、私たちは本当に人格の所有者となるでしょう。そのときに初めてわれわれは自由に向かって大きく一歩近づいたのです。それまでわれわれは単なる機械です。
そのようにスワーミー・ヴィヴェーカーナンダは言われているわけです。しっかりと『ラージャ・ヨーガ』の本を読めば、この前後のお話に、なぜ人間が環境に対抗できる力が身につけられる可能性があるのかがちゃんと書かれています。とても良い本なので、今、実際に生きることの不安や日本の将来に不安を感じておられる方は、また一度お読みになられたらいいと思います。
人間の持つ力をもし本当に引き出すことができるならば、例えば火に焼かれるようなことが起きても、もし何年も食事をとらなくても、道徳的でいられる可能性があると『ラージャ・ヨーガ』では言われています。自己制御により生み出される力はそれほどまでに強く、人間を自由にする、人間を解放する、と伝えられています。なぜ道徳的でいられることが自由なのかについてですが、それは、ただ誰か世間から「あなたは道徳的でよい人ですね」と評価されるためでは決してありません。火で焼かれても、食事しなくても我慢ができる良い人間であるべきだ、などということでは決してありません。つまり人間が道徳的でいられることの自由とは、自分自身に本当に力がありさえすれば、自分の周りで起きるあらゆる出来事に怒りや防御、また自分の命を守るために不道徳なことをわざわざやる必要がなくなる、ということです。おびえる必要がなくなります。周りを傷つける必要がなくなります。周りを傷つけることがなければ、カルマの反動によって悪いことが起きることもなくなります。例えば、ラージャ・ヨーガによって、その力の扱い方や制御の方法とその危険性を学ぶことができると言われています。
例えば仏教でも、自分を今よりも良い状態にしたいならば、次の転生でより良い場所に生まれ変わったり、解脱のために修業をすることができる環境のある場所に生まれたりするためには、徳を積む必要があると言われています。しかし、その徳を積むことすら、自分に力がなければできないところがあるわけです。上座部仏教で、有名なアルボムッレ・スマナサーラ長老という方がいらっしゃいますが、その長老が2011年3月11日の被災地へ向けた法話の中で「息は止めたら苦しいから吸うのであって、止めたら苦しいから吐くのであって、お腹がすく苦しみがなければ、人間はご飯も食べないし、苦しみがなければ、仕事もしない。心配がなければ貯蓄や備蓄もしない。人生とは、命というものは、苦しみがあって、それに脅迫されているから成り立つものだ」とおっしゃっています。私たちは皆、脅されている、脅迫されている、「生きろ」と脅迫されているのだ、ということを言われているわけです。本当にその通りだと思います。生きることは、環境から、また、自分の感覚器官からの一瞬の休みもない脅迫です。とても大変なことです。スマナサーラ長老は、災害直後のNHKでインフラの問題を扱っている番組を見て、非常な不安に陥られて、見ていられずにテレビのチャンネルを変えてしまったそうです。
日本ではここ数年、水道管が突然破裂したり、埼玉県では道路が突然陥没して、トラックの運転手が三か月発見されなかったということもありました。今、日本のインフラは非常に危ない状態です。スマナサーラ長老がNHKの番組をご覧になった10年前よりも日本のインフラの状態はさらに悪くなっていると言わざるを得ません。このように私たちは毎瞬間脅迫されて生きていることに慣れてしまっているので、それを実感するのが難しくなっていますが、本来とても危ない状態、何もなくても危ない状態だということです。
また、『ラージャ・ヨーガ』の本をそのまま、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの言葉を引用いたします。
(初版77頁)
われわれは、世界中で「善良であれ」、そして「善良であれ」、そしてまた、「善良であれ」と教えられているのを聞きます。世界中のどの国で生まれた子供であれ、「盗むな」、「うそをつくな」と言いきかされたことのない者はいないでしょう。しかし、誰もその子に、どうしたらそれを実行できるかということを教えません。しゃべるだけでは助けにはならないのです。なぜ盗人になってはいけないのか、われわれは彼に盗まない方法を教えず、ただ、「盗むな」というだけです。自分の心を制御する方法を教えて初めて、われわれは本当に彼を助けたことになるのです。内外すべての活動は心が自らを、器官とよばれるある中心につないだ時に起こります。したい、したくない、にかかわらず、心はそれらの中心にひきつけられてつながります。それだから人びとは、心がもし制御されていたならするはずのないような愚かな行為をして、みじめに感じるのです。心を制御した結果はどうなるのでしょうか。そのとき心は、知覚の中心に自分を結びつけることをせず、したがって当然、感覚も意思も制御されることになるでしょう。そこまでは明白です。それは可能でしょうか。それは完全に可能なのです。
もう一度五輪塔の話しに戻ります。五輪塔は宇宙そのものをあらわしていますが、インドの初期仏教、原始仏教の経典では、世界の始まりとして、無限虚空(五輪塔の一番上)が、無限のことを指しています。無限の虚空の中に、ブラフマーが現れた、とされています。それからほかの神々があらわれて、その神々の体から風が生まれて、その風が無限の渦のように広がって吹いて、それが風輪になったと言われています。この風という字を使っていますが、我々のイメージする風というよりも、宇宙の星の渦巻きに近いものだと思います。(五輪塔をさかさまにして)本当だとこういう説明になります。虚空の上に風があって、風の上に、風輪の上に雨雲が生まれて、数十万年雨が降り続けて、たくさんの水があらわれて、その周りを吹く風が、まるで器のようにその水を包み込んで、水輪ができたと言われています。この水というものも、われわれの思うような水ではなく、あらゆる物質は高温になると液体になりますから、できたばかりの途方もないものすごい高熱の何もかもが溶け合った状態がこの状態だと思われます。やがてこの水輪の周りにまるで煮た牛乳が冷めてできるクリームの膜のようなものができて、それが土の元となって、大地になったと言われています。
つまり、この順番で虚空の中に風が生まれて、風が火と水を生み出し、そこから大地が生まれた順番なんですけれども、すべてを生み出したこの空の要素、アーカーシャは、無限の広がりそのものなんです。(新しい絵を示して)これは日本の古いお坊さんが書いた図です。このように、アーカーシャというのは人間の精神、心の力、そのものでもあります。人間、自分自身のこの空、われわれのこの意識、意思こそが、ヴィヴェーカーナンダが先ほどおっしゃったように、心を制御する意思になります。その意思により、信仰や、心と感覚の制御へと向かうことができるようになります。それが完成したときに、私たちは本来の完全に開放された状態を、この虚空の状態、アーカーシャの状態を取り戻して、本当の意味で自分を取り巻く環境におびえる必要がなくなります。
集中力や生命力の制御によって、超自然的な現象を起こした人々の話しは世界中にあります。日本にもあります。ですから、人間にはもともとそうした力が可能性として備わっていると考えることができます。また、世の中にとって良くないことをしたい人たち、悪いことをするために力が欲しい人たちは昔からいて、そうした人たちが超自然的な力を身につけようとしたことや、目に見えない力を使って悪いことをしたらしいという伝説は世界中に非常に多くあります。
日本の歴史の中では、道鏡という密教の僧侶がいます。称徳天皇という天皇様に取り入って、皇位を譲りわたされる手前まで行ってしまった人で、強いオカルトの力を持っていた、と言われています。インドでもアシュラの王様が力をつけようと苦行して、その誠実な苦行をブラフマーに認められて、天界の神々でも叶わない権力と支配力を授けられてしまう話がたくさんあります。アシュラでも修業して強くなるのですから、悪い人間にも修行ができます。
むしろ最近は信仰がなくても瞑想や集中が人間に力を与えることが広く知られ始めているので、場合によっては悪い人のほうがもっと強い悪い力を得るために、まじめに修行する可能性もあるわけです。ですが、おそらく仏教で八大神通力とよばれるようなどんな超自然的な力を身につけても、いつかは必ず自分のエゴイズムに向き合うように促されるできごとが起きると考えられています。天界にまで及ぶような、神話的な力を身につけても、どこかで必ずエゴイズムがもたらす存在の限定からも自由にならなければならないのです。
われわれにとって、今、この世界は非常に危険な場所です。メディアや商業的な季節のイベントなどを見ると、まだ日本は元気で希望や楽しみが多くあるように見えなくもないですが、ヴィヴェーカーナンダはこのように言います。
「われわれは忘れようと努めているのです。あらゆる種類の快楽によって一切を忘却しようと努めているのです。これがマーヤーです」
仏教には四法印というものがあります。諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、この四つの印、これが四法印です。これは仏陀の根本的な教えの一つであります。その中の一つ一切皆苦です。この世のすべては苦しみです、と言い切っているわけです。
仏教では、まずこうした視点で世界や現象を認知し、そこから出発しています。修行は厳しいものらしいと世間一般では思われており、確かに修行の厳しさもあるにはあるのですが、この仏教の根本的な視点である、この世のすべては苦しみに始まり、苦しみによってなりたち、涅槃以外のゴールはない、と一番最初からそのように確実に認識して、そこからスタートすることそのものが、まず難しいのではないかと思います。頭で理解していても、実際に自分のいる場所がそこまで悲惨な場所だとは信じたくない、という気持が妨げになるのです。
しかし仏教は単なる悲観主義なのではありません。では、この温かみのかけらもないように見える現実の認識は、いったい何のためなのでしょうか? それは、ただひたすらあらゆるものごとの性質を正確にみて、すべての苦しみを確実に終わらせる、という非常にポジティブなゴールのためにあるものです。アジャン・チャーさんという上座部仏教の長老は、あらゆる学問には終わりがない。終わりがあるのは仏教だけです、とおっしゃったそうです。
「この困難な時代に仏陀とシュリー・ラーマクリシュナの教えがどのように実践的な力を与えてくれるか」というテーマでお話ししたつもりですが、仏教の観点からすれば、今が困難な時代なのではなくて、人間には苦しんでいる時と、苦しみに気付いていない時があるだけで、常に困難しかありません、ということになります。これは見方によっては、私たちは毎日、毎瞬、激しい困難に見舞われているのに、自分でそれを乗り越えていることに気付いていないということでもあります。
仏陀とシュリー・ラーマクリシュナの教えがどのように実践的な力を与えてくれるか、ということについてですが、先ほど、世の中のすべては苦しみに始まり、苦しみによってなりたち、涅槃以外のゴールはない、といちばん最初からそのように認識してスタートすること、そのものがまず難しいと言いました。世界中に非常に多くの政治的、経済的問題がある今こそ霊的実践にうってつけの時期です。このような状況の下で、私たちは瞑想や霊的実践に取り組まなければなりません。これらの困難な状況を、力に変えるのです。
最後にスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの言葉をいくつかを引用させてください。
「もし理想を持つ人が1000の誤りを犯すなら、理想を持たない人は5万の誤りをするでしょう」
「もがき苦しむことが無くなれば、人生に意味はない。苦しみや間違いを気に病むな。これらの失敗や小さな後退を気にするな。1000回でも理想を掲げよ。そしてもし、1000回失敗したら、さらにもう一度挑め」
「自分の一生が終わる前に、人間としての人生を完成させよ。立ち上がれ、目覚めよ。ゴールに達するまで立ち止まるな!」
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忘れられない物語
「神のなさることは最善である」
ある時、勇敢さで名高いヴィクラムという名の偉大な王がいた。彼の宰相アジットは、その知恵、正直さ、忠誠心、そして有能な統治でよく知られていた。アジットはシヴァ神を深く信仰していた。強い性格と高い道徳心を持ち、常に神にお任せしていた。彼は、「神のなさることはすべて最善である」という言葉を深く信じていた。
王にはバンビールという名の弟がいた。バンビールは謙虚な弟の姿をした悪魔であり、常に兄の王位を奪おうと陰謀を企んでいた。バンビールはアジットを唯一の障害と考えていた。というのは、兄に対する数々の計画は、アジットの注意深さと知性によって失敗に終わっていたからだ。
ある日、事故で王が指を切った。王がアジットにそのことを告げると、アジットは丁重にこう言いった。「神のなさることはすべてわたくしたちの益のためでございます。この事故もまたわたくしたちの益です」 王はこれを侮辱と感じ、立腹した。これを好機と考えたバンビールは、王の耳元で狡猾な言葉を囁き、それを聞いた王は激怒した。そこで王は大臣を牢に入れるよう命じた。
数日後、王は弟のバンビールが立てた計画に賛同して、狩猟旅行に出かけた。狩りの最中、王は仲間たちを遥か後ろに残し、森の深い場所へと足を踏み入れた。王は木陰に横たわり、従者たちが到着するのを待った。疲労のため、王はすぐに眠気に襲われた。突然、大きな咆哮で王は目を覚ました。怒り狂ったライオンが近づいてくるのが見えた。逃げ場が見つからず、王は目を閉じ、息を止めて地面にじっと横たわっていた。ライオンが近づき、獲物の匂いを嗅ぎつけた。傷ついた指を見て匂いを嗅ぐと、ライオンは向きを変えて去って行った。王はこの様子を見て、自分の命が救われたのは、傷ついた指のおかげだったと分かった。王はアジットを牢に入れたことを深く後悔した。王はすぐに立ち上がり、狩猟キャンプへと急いだ。
ヴィクラム王は弟バンビールとその部下たちが王を探しているだろうと期待していたが、その期待は裏切られた。王がキャンプに到着したのは夜遅くだった。王は5人の兵士が火を囲んで小声で話しているのを見た。何かたくらみがあるのではないかと疑い、彼らの声がはっきりと聞こえるように、近くの茂みに身を隠した。彼らの会話から、バンビールがヴィクラム王とアジットを殺害し、自ら王位に就こうと企てた陰謀の全容が明らかになった。
王はキャンプには入らず、すぐに首都へと出発した。宮殿に到着するとすぐに総司令官を呼び寄せ、信頼できる兵士たちを率いて速やかにキャンプを攻撃するよう指示した。そして、バンビールとその従者たちを逮捕するように命じた。
翌朝、アジットは謁見の間の王のご前に連れてこられた。王はアジットが宮廷に入るとすぐに鎖を解くよう命じた。王は愛と喜びでアジットを抱きしめ、過去の過ちを詫びた。再び宰相の地位に就くよう願い、惜しみなく褒美を与えた。王はその後、狩猟のこと、ライオンと遭遇したこと、そして弟の陰謀などすべてを語った。
話し終えると、王はアジットに、投獄も良いことだったかを聞いた。アジットは笑いながら答えた。「私は村にシヴァ神のために大きく美しい寺院を建てたかったのですが、お金がなくてできませんでした。今、ありがたくいただいた報酬で、長年の願いを叶えることができます。神は常に最善を尽くしてくださいます。神の道は実に神秘的で、私たちには理解しがたいものです」
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今月の思想
市場に立ってカビールは皆の幸せを願っている。
友情も憎しみも持たず、彼の心は平安で満たされている。
…カビール
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